概要
鎌倉時代の浄土宗の僧侶で浄土真宗の開祖(開山)である。諡号は〈見真大師〉(1876年)
皇太后(現在で言う上皇后)に仕える「皇太后宮大進」の役職に就いていた日里有範の長男として生まれる。幼少時代に青蓮院の僧慈円の元に預けられ後剃髪し得度名を「節宴」とした。その後比叡山堂僧として僧名を「綽空」「善信」など変えたが悟れず、僧雲鸞の〈他力回向〉を知り開眼。以来「親鸞」と称するようになる。武者修行のため奈良・法隆寺にも赴き聖徳太子の六角堂の中にあった文章に触発され浄土宗ならびに開祖法然に入信帰依した。その後親鸞は浄土宗僧侶として〈他力念仏〉に精進、後。法然の許しを得て尼僧恵信尼と結婚。(当時の仏教では妻帯は違反である。)1207年に後鳥羽上皇が起こした「念仏排斥令」により。法然派僧侶はともども流罪にされ親鸞は越後に流罪となったが。4年後(1211年)に天皇の命にて解放(勅許)される。
勅許後親鸞は自身を〈梵禿(愚かな禿げ)〉と名乗り〈非俗非僧(普通の人でも坊主でもない。)〉の生き方を実践するため。信濃国、下野国、常陸国など関東へ〈信心偽末〉などの教義を説いてまわったとされる(〈教え〉を説いたのは弟子たちだとする説もある)。関東へ行く前に本願寺に立ち寄った、その後本願寺は浄土真宗の本山となる。60代頃に京の都へ帰り始め折に立ち寄った近江国(滋賀県あたり)の木部で錦織寺を建てたされる。京都に帰った親鸞は1262年亡くなる。享年89歳。
明治9年(1876年)11月28日、明治天皇から「見真大師」の諡号を追贈された。「見真」の語は根本経典「浄土三部経」を構成する『無量寿経』の一節「慧眼見真、能度彼岸(慧眼真を見て、能く彼岸に度す)」からとられている。
大師号の宣下については江戸中期から請願がなされてきたが却下され続け、明治になってようやく実を結んだ形である。
明治天皇の代理として有栖川宮熾仁親王が「見真」の字を書き、それを元に作られた勅額が制作された。そして事前の通達ののち、1879(明治12)年9月29日に宮内庁経由で東西の本願寺に同時に下賜された。そこに至るまでは三条実美や岩倉具視等の助力もあったとの事。
が、東本願寺では1981年の「宗憲」改訂の折に、西本願寺でも2007年の「教章」で使用が停止された。
こうした事情もあり浄土真宗諸教団における使用例はまちまち。空海の「弘法大師」ほどには使われていない。
三夢記
親鸞は生涯に三つの夢告を聖徳太子およびその本地の如意輪観音から受けたとされる。
磯長御廟の夢告
磯長御廟とは聖徳太子の墓廟。「我が三尊(阿弥陀三尊のことか)」は数多の世界を救い、日本は大乗仏教に適した地である。自分の教えをよく聞かなくてはならない。親鸞の余命は十余年だが、亡くなれば浄土に行ける、よって真に菩薩を信じなければならない、という内容である。この時親鸞19才。
大乗院の夢告
睿南旡動寺大乗院(比叡山の南の無動寺大乗院)で修行していたさいに受けた夢告とされる。この時、親鸞28才。
「善い哉善い哉汝の願将に満足す 善い哉善い哉我が願亦満足す」と親鸞の願いを祝福したもの。
六角堂の夢告
29才のとき親鸞は下山し、頂法寺にある、如意輪観音を祀る六角堂に参籠時する。夢のなかで白衲(白い僧衣)の袈裟を纏い、大きな白蓮華の上に座す、端正な容貌の僧侶の姿をとった救世観音から「僧侶であるそなたが、過去の因縁のせいで女犯するようなことがあるなら、私が玉のような女性になって犯されよう」と告げられたという。この偈を『女犯偈』と呼ぶ。
親鸞の弟子・真仏による『親鸞夢記』によると、その文面は「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」。
親鸞は如意輪観音の化身とされた聖徳太子への崇敬が篤く、この行動も太子信仰が背景にある。浄土真宗では新たに観音が祀られることはないが、聖徳太子については像がつくられたり掛け軸がつくられて安置される。
主な教え
- 非俗非僧…普通の人のように生活もできず、坊主にもなりきれない。〈超約〉
- 他力本願…全ての自力(あらゆる努力)をすて、他力(御仏)のみで生ききる〈超約〉なので(自分の力でなく、他人の力によって望みをかなえようとすること)も間違っているわけではないがこの用法での使用はおすすめできない。
- 悪人往生…たとえば僧侶の身での殺生や肉食。結婚などのタブーを犯しても救われると説く。
- 悪人正機(歎異抄より)…善人よりも悪人のほうが救われる。〈超約〉
親鸞の扱い
浄土真宗における親鸞
親鸞の妻恵信尼は、残された消息(手紙)によれば、夢のお告げによって法然は勢至菩薩の化身で、親鸞のことを観音菩薩の化身だと考えていた。
手紙によると、法然が勢至菩薩だという部分についてのみ夫に告げ、彼は事実だと返した。もう一方については敢えて確認はとらなかったものの、彼女は夫が普通の人間ではない、と感じた。
本願寺教団をまとめあげた、親鸞から数えて三代目にあたる指導者・覚如が記した『口伝鈔』にも恵信尼の夢のお告げを紹介した「聖人(親鸞)本地観音の事」というパートがある。ここでは「本師弥陀の来現」ともされ、弥陀・観音を一体異名とした上で親鸞をその化身としている。
浄土宗の総本山知恩院には勢至菩薩を祀る本地堂があるが、浄土真宗側にそうした例は存在しない。
浄土真宗の仏壇では、中央の阿弥陀如来の両脇に親鸞と法然の像や画を配置する形式がある。
他宗派における親鸞
親鸞が神秘体験した上述の六角堂のある頂法寺は天台宗系単立の寺院だが、境内に親鸞堂をもうけ、微睡むような坐像「夢想之像」と、比叡山から六角堂に向かう様子を立像にした「草鞋の御影」を安置している。
真言宗善通寺派総本山・善通寺の西院の境内にも親鸞堂があり、親鸞自作と伝わる「鎌田の御影」という立体坐像を納める。
伝承によると、空海生誕の地である讃岐善通寺には師匠の法然も参って逆修塔(死後の往生を祈る塔)を立てており、自分も詣でたいが叶わないので、この像を身代わりに善通寺に届けてほしい、と吉田源五左衛門易幹という信徒に伝えたという。
が、親鸞がこれを頼んだ場所は現在の千葉県にあたり、四国(香川県)にある善通寺からはかなり遠い。というわけで吉田家の人々はそのまま家族で祀っていたが、夢のお告げが相次いだので孫の吉田源次左衛門年幹が善通寺まで運んで納めたという。
新潟県には越後七不思議伝説がある。
図像表現
黒い服装で、首まわりにマフラーっぽい「帽子(もうす)」を出して、両手で数珠を持っているポーズが多い。僧侶が防寒のために頭部を包む物としての「帽子」のバリエーションの一つが、親鸞像によく見られる首巻き・襟巻きタイプである。
親鸞聖人三御影
「鏡御影」「安城御影」「熊皮御影」は親鸞の絵像の代表作であり、「親鸞聖人三御影」と総称される。教科書など親鸞の人物像として取り上げられることも多い。いずれも「帽子(もうす)」を首に巻き、数珠を持つ老僧という親鸞描写の典型である。
- 「鏡御影」
黒い墨の線のみで描かれた立ち絵。三御影のうち唯一カラーでない。
- 「安城御影」
帽子の色は茶色。畳に敷かれた狸皮の上に座す。畳の手前に火桶と草履と杖がある。
- 「熊皮御影」
帽子の色は白色。畳に敷かれた熊皮の上に座す。畳の縁に杖が置かれている。鼻毛が出ている。
禿御影
親鸞は「非僧非俗」の己の有り様をさして「禿(かむろ)」と呼び、この呼称を冠した「禿御影」と呼ばれる作例がいくつか残されている。黒々とした丸刈りの髪型の青年期から壮年期にかけての姿。
流罪勅免御満悦御真影
40才の時の姿。僧籍を剥奪され、35際で流罪に処せられてから5年間僧衣を着る事も許されていなかった。5年後にそれが放免され、その時の姿を親鸞自身が描いたとされるものが上野山国府光源寺(新潟県上越市国府)に伝わっている。衣類は流罪の時に来ていた服を僧衣に仕立て直したものとされ、薄い灰色をしている(あさぎ色の流罪着が色あせた様子を表現したものか)。左手が上にあがっており「左上御影」とも呼ばれる。この構図の親鸞像は光源寺所蔵以外にも数点残っている。
家族関係
妻
親鸞には生涯において複数の妻がいたという説がある。挙げられるのは、恵信尼、玉日姫、「壬生の女房」の三人である。
- 恵信尼
恵信尼は大正10年(1921年)に西本願寺の宝物庫から発見された手紙『恵信尼消息』によって実在が証明されており、全ての真宗教団で実在が支持される人物である。
- 「壬生の女房」
「壬生の女房」は後述の善鸞に関する「善鸞義絶状」と『恵信尼消息』に記された人物で、善鸞の母とも解釈される事も。
- 玉日姫
親鸞やその関係者による記述には名が見えず、室町時代(早くても鎌倉時代後期)成立の『親鸞聖人御因縁』から言及され始める。法然の浄土宗の信徒となった公卿藤原兼実(九条兼実)の娘とされる。が、彼の日記『玉葉』や彼に連なる九条家の家系図にもその名は見られない。『玉葉』などの記録に見られる娘は任子だけであるが、彼女が親鸞と結婚したともされていない。
貴族は貴族でも没落貴族である親鸞と関白等の重要役職を勤めたトップ貴族の長女(一人娘)はどうあがいても釣り合わない。現に、史実の兼光は彼女を後鳥羽天皇の后にしようと奮闘していた。そのためか玉日を兼光の七女とする文献もある。
『御因縁』の時点で「七番目の娘」という記述はあるが、この本では父とされるのは「月輪法皇」という名前になっている。兼光の別名が「月輪殿」なので明確に彼がモデルなのだが、当然兼光は法皇ではないし、同名の法皇も存在しない。さすがに後世の文献では「法皇」記述はされなくなった。
親鸞伝において親鸞と玉日との出会いは六角堂の夢告と絡め、僧侶の妻帯のテーマと結びついた運命的で鮮烈なエピソードとして綴られており、後続の文献では彼女を観音の化身と明記される形でも整合させられている。
歴史記録的には難があるが、玉日の物語は印象的で、彼女が登場する親鸞伝は後世においても複数点編まれ、信心の対象としての玉日姫の像が建立されたり親鸞と並んで描かれた絵も多数制作された。
近世まではその存在が疑われる事はほぼ無かったが、近代に突入し、各門派が歴史学指向を強めるにつれ玉日姫への崇敬も下火になっていった。
2012年に玉日姫のものとされる遺骨が発掘された際も、本願寺側は上述の史料の問題を挙げて静観の構えを見せている。
玉日姫への崇敬じたいは現存しており、そのほか恵信尼と同一人物とする解釈がされているのも見受けられる。
子
4男3女がいる。『本願寺系図』では全員が恵信尼との子とされる。
- 印信(範意)
『本願寺系図』や『日野一流系図』では長男。園城寺の阿闍梨だったという。異伝では玉日姫との子ともされる。
- 小黒女房
昌姫とも。詳細な情報は残っていない。京都か越後の出身だという。小黒(現:新潟県上越市安塚区小黒)の地に住む男性の妻となったのでこの呼称があるともいう。当地の伝承によると比較的若い年齢で亡くなり、彼女の息子と娘を恵信尼が世話したという。
- 善鸞
次男または長男とも。父親鸞との教義の解釈の違いにより擬似絶縁された。「善鸞義絶状」で善鸞は恵信尼を「継母」と呼んでいる。親鸞が自身を異端者と疑っているのを、恵信尼に対して「継母の尼僧が嘘を吹き込んだんだ」と言う文脈であり、実母への批難を込めて言っているという解釈もある。「本当の母ではない」的な文面ならまだしも……という不自然さはあり、彼を親鸞の前妻の子とする説の根拠とされる。真宗系の秘密教団「秘事法門」では親鸞から秘密の教えをひそかに授けられた「第二祖」的ポジションとして扱う。袖の下越しに伝授されたという『御袖下の御書』は明治時代の真宗教団VS秘事法門の信者争奪戦の折に内容が暴露され、現在は著作権切れでネット公開されている。
- 明信〈栗沢信蓮房〉
『本願寺系図』では四番目の子とする。『恵信尼消息』では「信蓮房」と呼ばれる。栗沢(現:新潟県上越市板倉区栗沢)に住んでいた。
「のづみ」の山中(現・新潟県上越市の山寺薬師)で不断念仏(絶えず念仏を唱える)を行い、親鸞のために何か本を書かなくてはならないと漏らしていたという。栗沢の丈六山の「聖の窟(ひじりのいわや)」でも修行していたと伝わる。山寺薬師には後に、恵信尼の父・三善為教の子孫・三善讃阿が薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来の像を寄進している。
- 有房〈益方大夫入道〉
『日野一流系図』では五番目の子とする。益方(現:新潟県上越市板倉区の下関田益方)に住んでいた。従五位下の位を与えられ、複数の子供がいた。浄土真宗誠照寺派における第2世であり、彼の子で『勧化章(かんけしょう)』著者の如信は第3世と位置づけられる。
- 高野禅尼
嵯峨とも。「高野」とは現在の新潟県長岡市の「高野山(たかのやま)」に住んでいたことによる名。
- 覚信尼
末の娘。晩年まで親鸞と行動を共にし、彼の没後は他の弟子たちと共に宗祖の墓廟「大谷廟堂」を建立、信徒集団のとりまとめ役となり、本願寺教団の基礎を築いた。
その他
吉本隆明・・・故人(2012年没) 戦後日本の左翼・思想家・詩人。親鸞および浄土真宗の思想を深く研究し集大成「最後の親鸞」を執筆した。個人としても親鸞好きだそう。
五木寛之・・・日本の小説家 仏教などに深く傾倒しているのか仏教関連の小説が多い。