概要
日蓮を開祖とし、彼が後継者に選んだ六老僧の一人「日興」を第二祖とする宗派。
総本山は静岡県にある大石寺。所在地からは富士山を臨むことができ、大石寺版の御書(日蓮著作)全集には富士山のマークが刻印されている。
六老僧のうち五人が起こしたグループ、そしてそれらが後代に一つにまとまる日蓮宗と異なり、釈迦如来ではなく日蓮が本仏であるとする。
論拠となっているのは大石寺の代々の法主(宗門全体のリーダー)に伝わってきたとされる「血脈相伝の口伝」であるが、日蓮宗側はその正当性を認めていない。
また、富士大石寺にある「本門戒壇の大御本尊」という板本尊を拝まなければ利益は無いという思想を掲げているが、やはり日蓮宗側はその正当性を認めていない。
創価学会は日蓮正宗の在家信徒団体として誕生したが、現在は宗門(大石寺側)と断絶関係にある。同様に喧嘩別れした分派に顕正会、正信会があり、機関誌上での罵り合いなど4つどもえの争いが現在に至るまで続いており、信者の引き抜き合戦も盛んである。
伝統宗派というと葬式、観光ぐらいというイメージがあるが、この宗派は700年の時を経て「生きている」。ただ、それは争いが激しいということと同義でもあるのだ。
組織
大石寺の代々の法主をトップとする中央集権体勢がとられている。法主は先代当主の指名で就任し、概ね教学部長経験者が就任する流れになっている。幹部クラスの僧侶の名には「日」を入れる(「日号」と呼ぶ)。
僧侶は中学生から大石寺の寮に住み込み法主の弟子という扱いで育成される(男子のみ)他、成人からの一般得度も受け付けている。
住職の異動が他宗派に比べて比較的多いのが特徴。
信仰
不受不施派ほどではないが日蓮系宗派の中でもかなり激しい思想を持っている。
日蓮宗との違いで際立っているのが本尊の扱いである。日蓮は生前、独自の法華曼荼羅を生み出した。題目曼荼羅、文字曼荼羅、十界曼荼羅、ひげ題目とも呼ばれるこの曼荼羅は、題目「南無妙法蓮華経」の周囲に神仏の名を配置したものである。法華曼荼羅は日蓮系の宗派の寺院や家庭用の仏壇で「ご本尊」として祀られる。
日蓮正宗において本尊となるのは大石寺公式の板曼荼羅あるいは紙の曼荼羅のみであり、その他の仏像が本尊として安置されることはない。日蓮宗ではお堂で一人(観音堂など)や数人(三光堂など)の神仏を個別に祀ったケースも多いが、日蓮正宗ではそれはない。
日蓮宗の仏壇では曼荼羅の両側に大黒天や鬼子母神を配するが、これも行われない。
本尊以外を拝むことは「謗法」として禁止されており、入信にあたっては「誹法払い」と呼ばれる他宗関連のグッズなどの処分を行い、信者の子供達がクリスマス会に行くなども否定されている。ただ、法律を破ってまでの強制処分までは認められておらず、他宗教施設に付き合いで行く場合も「内心で拝まなければよい」とされている。
紙に書かれた本尊には「常住本尊」と「形木本尊」の二種類がある。常住本尊は当代の法主が書写した本尊で、形木本尊は「形木」という木版印刷の方式で複製された本尊である。
板本尊や紙幅本尊の本尊のレイアウトは大石寺所蔵の「本門戒壇の大御本尊」と同じである。日蓮が残した本尊にはレイアウトが異なるものがあるが、正宗の信仰の場で用いられるのは「本門戒壇の大御本尊」タイプのみである。
こうした本尊は法主の許可のもと本山から下付される、という形で各寺院や信徒のもとに渡る。
この手続きを踏まない限り、レイアウトが同じでも正式なものではなく「魔が入る」とすら語られる。
このため、宗門から独立したあとの創価学会が独自に印刷した本尊を正宗側は「偽本尊」といして批判している。創価学会版では大本のレイアウトの一部が書き換えられており、これも宗門側から強く非難されている。
また、本尊を写真撮影してはいけないという慣例があり、日蓮宗のようにお土産として売ったりすることは断じて許されない。
創価学会が折伏(勧誘)を特に重視して以降、日蓮正宗・法華講側も脱会信者を取り込んで折伏を重視するようになり、各寺院が「誓願」として折伏数の目標を掲げ、所属の信者達がそれを達成すべく勧誘に邁進する行動が見られる。これらの行動は喧嘩別れした顕正会にも見られ、物議を醸すことも多い。
創価学会との関係
前述のように創価学会はもともと日蓮正宗の信徒団体(法華講)であった。ある宗教団体の一部であったため、当初は宗教法人格を持っていなかった。しかし、戦後1952年(昭和27年)に宗教法人格を取得した。当時の会長は2代目・戸田城聖。
同年に刊行された「新編 日蓮大星人御書全集 日蓮正宗大石寺版」の序では全集の作成にあたって「創価学会で御書全集の美挙が決定せられ、」とある。これを書いた日亨は59代目法主をつとめた人物(着任期間は1926年~1928年)である。
宗門側とは別個に宗教法人格を取得してはいるが、少なくとも当時としては独立を意味するものではなかった、と言える。
戦後急速に拡大した創価学会は大きな組織力・資金力も持ち、それを背景に大石寺敷地内に巨大な「正本堂」を建設することもできた。「正本堂」が宗門の至宝とも言える「本門戒壇の大御本尊」を安置するための施設、である事からもある時期までの創価学会の位置の大きさが伺われる。
しかし「正本堂」建設における願主であり、三代目代表池田大作は創価学会に信心の血脈が受け継がれている、会館はそのまま寺院である等の主張を行った。これは「大石寺が教えの血脈を継承する総本山であり主である。そして、創価学会はあくまで信徒団体であり従である」という関係性を覆しかねないものであった。
日蓮の教えは万人の平等を唱えているが、それは信仰を違えた相手とも同じ共同体の一員たるという意味ではない。日蓮正宗と別の信仰を持つ、という事は、大石寺を総本山とする信徒共同体の中に別の教団を建てている(=日蓮正宗の信徒団体であることをやめ、新興宗派を興す)のと同義である。
この時は創価学会の謝罪で和解したが、こうした対立の積み重ねにより1991年(平成3年)11月、破門を言い渡し、創価学会メンバーはそのまま残るか、大石寺に移るかを迫った。そして、彼等に対し本尊の下付を自粛するといった措置をとった。学会側は宗門の指示を受け入れず、本尊の作成を独自に行い、両者は約10年に渡る裁判闘争へ突入する。
そして正本堂は(施設としてはまだ使えるものであったが)50億円を投じて解体作業が行われ、その跡地には新たに「奉安堂」が建設された。
破門を言い渡した当時の法主・日顕(67代目)は着任当時から創価学会と対立していた事から学会員から嫌われ、彼を法主とする宗門を「日顕宗」と呼んで批難している。
一連の経緯は、北のりゆき「創宗戦争の基礎知識」が比較的中立かつ分かりやすい。
他の分離団体との関係
- 顕正会
グループとしては宗門所属の伝統寺院・妙光寺の信徒総代・浅井甚兵衞が第二次世界大戦中の1942年に設立した「東京妙信講」を前身とする。
第65代目法主・日淳の以降に基づいて承認された正式な団体であったが、国家としての日本国に「国立戒壇」を建立させる事を目指す理論などによって宗門側と衝突。1974年(昭和49年)、破門に至る。
「国立戒壇」とは前述の「本門戒壇の大御本尊」を収める宗教施設を指す。単に文化財として保全するだとかいう話ではなく、彼等が信じる教義を国家そのものが是認し、事実上の国教とした上で行われるべき、という位置づけになっている。当然ながら政教分離の原則に反する為、実行しようとすれば改憲は避けられない。
- 正信会
大石寺第66代目法主・日達の時代、創価学会側が起こした本尊自作(宗門側からすれば偽作)問題は宗門内部に「正信覚醒運動」を生み出した。
この時代は宗門側も和解を模索していたものの、学会側が本尊自作路線を止める事は無かったため後に完全な決裂に至る。
1979年に日達が亡くなり、日顕が新たに法主に着任。「正信覚醒運動」の担い手たちにより翌年1980年に正信会が結成された。
が、正信会は日顕が先代から血脈相承(血の継承に準えられた師資相承。教えそのものの伝達だけでなく、後継者として教団内や宗教的な行いについての特別な権限も受け継がれる事を意味する)された正当な法主である事を否認。
日顕を法主とする宗門側は、正信会に属する僧侶たちに一斉に処分を加え、完全に袂を分かった。
2014年、内部から分離派が現れ任意団体「日蓮正宗正信会」を結成、元の「正信会」から独立した。
2020年には顕正会との共闘路線を明言する「冨士大石寺正信会」が独立。
このほか宗門側に回帰する形で正信会を離れた元所属寺院も存在する。