鬼子母神
きしもじん
歓喜母や愛子母の異名を持ち、梵名の「ハーリーティー(Hariti)」を音訳した訶梨帝母(かりていも)の名でも呼ばれる女夜叉(ヤクシニー)。
『根本説一切有部毘奈耶雑事』では「歓喜」とも表記される。
中国では鬼子母と書いてクェイツームー(Guizimu)、韓国ではグィジャモシン(Gwijamoshin)、チベットではイトクマ(Yitrokma)と呼ぶ。
安産や育児の神。また、『法華経』護持の神ともされ、日蓮の題目曼荼羅にも名前が記されている。日蓮宗のお寺では個別に祀られているのが見られる。(後述する日蓮宗での「法華経の守護神である十羅刹女は鬼子母神の娘」と云う解釈から、鬼子母神への信仰=法華経の守護神である十羅刹女への信仰の上位互換と見做されている為)
鬼の字の上についてる「’」をとった表記を用いる所もある。更に、最初の一画目の「’」が取れた「鬼」の変形として、鬼子母神の名前を表わす際に、「鬼」の代りに「田+九+ム」の独特の文字を使う場合もあり、鬼子母神を本尊とする日蓮宗の加持祈祷では、この文字から、鬼子母神または調伏対象となる悪霊の事を「タク(田九)」の隠語で呼ぶ場合がある。
天女の姿をとり、胸に一子を抱いて左手を添え、右手には吉祥果(きちじようか)を捧げる。ときには鬼神形のものもある。
かつて毘沙門天の部下である般闍迦(パンチーカ、半支迦大将)将軍との間に数百人の子を儲け、彼らを養うために多くの人間の幼児を浚ってその肉を与え、自身も食していた。
釈迦如来は一計を案じ、彼女が最も愛した末の子を隠してしまう。
自分の末子を隠されて嘆く鬼子母神に「数百人のうちの一人子供がいなくなっただけで貴女はそれほど悲しんでいる。多く子供を持てない人間の両親にとってその悲しみはどれ程か」
と釈迦は告げ、鬼子母神は悲しむ人間の親たちの心を知り、仏教に帰依(きえ)したという。
夫を般闍迦(パンチーカ)とする説と、八大竜王のひとり徳叉迦(タクシャカ)とする説、五道大神とする説とがある。
上記のエピソードを説く大乗経典の多くは彼女の夫を般闍迦としている。般闍迦は『雑宝蔵経』では「老鬼神王」とされ、夜叉の中でもそれなりの年代のようである。半支迦配偶者説をとる文献の一つ『根本説一切有部毘奈耶雑事』によると彼女の親は娑多薬叉神という。
『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』『陀羅尼雑集』において徳叉迦が夫であると語られ、唯奢叉、散脂大将(般闍迦の異称)、摩尼拔陀(マニバドラ)、耆首那拔陀という子らと功徳天(吉祥天の異称)という娘がいることが語られる。
中国の文献『供諸天科儀』では『陀羅尼集』(名前のよく似た『陀羅尼集経』には散脂大将の家族関係についての記述は無い)という文献からの引用として、「鬼子母有三男。长名唯奢文。次名散脂大将。手执矛镩。三名摩尼跋陀。」という文を伝えている。
大乗仏教版『涅槃経』では吉祥天の姉妹として黒闇天が挙げられるが黒闇天も鬼神母神の子かは直接的には明言されていない。
鬼子母神の子の中で個人名が判明している者としては数多の子らのうちの末っ子であり、上記のエピソードで釈迦が鉢の中に隠したとされるピンガーラ(嬪伽羅、氷羯羅天、畢哩孕迦)がいる。幼子を抱いたタイプの鬼子母神像で抱っこされている子供が彼である。
日蓮は『日女御前御返事』において鬼子母神を『法華経』に登場する護法神であるラークシャサの集団「十羅刹女」の母親としている(典拠は法華経の陀羅尼品の「十羅刹女が鬼子母及びその子・眷属らと共に仏を詣でた」と云う記述と思われる)。御書(日蓮の著作)には鬼子母神の夫および十羅刹女の父である存在についての明言はないが、日蓮宗系の鬼子母神信仰においては鬼子母神の夫を半支迦大将とするケースが多い。
日本の仏教説話集『宝物集』七巻には「鬼子母は五道大臣の妻なり」という文がある。五道大臣とは、中国の民間信仰と一部の漢訳仏典(『増一阿含経』の巻二十七「邪聚品第三十五」、『太子瑞應本起経』など)に登場する神「五道大神(五道神)」の異称である。五道とは六道のうち修羅道を除く「天道・人道・餓鬼道・畜生道・地獄道」を指す。経典では天道・人道・悪道へ通じる分岐点に立つ、武装した鬼神という。他の仏典類において閻魔の眷属として扱われる。
中国の来世観において「五道大神」は冥府の東西南北と中央にある入り口を警護する五人の神々であったが、一柱の神とする解釈も広まった。五道神は日本において武塔神(牛頭天王)とも習合している。
前述の鬼子母神を十羅刹女の母とする説の影響か『仏像図彙』では十羅刹女の解説の前のパートに「これ十羅刹の父乾闥婆なり」とされる「五道天」なる尊格が記されている(該当ページ)。
鬼子母神が持つ吉祥果(ざくろ)は人肉の代わりに味が似たこれを食べよ、と釈迦に言われたもの、というのは日本で生まれた俗説である。
鬼子母神の「鬼」に上の「’」が取れた「田+九+ム」を使うのは、角がとれた(悪鬼でなくなった)ため、という説があるが、こちらも俗説である。
もともと中国で用いられてきた古い漢字では「鬼」という字ではなく「田+九+ム」が使われていた。清の時代、1716年に刊行された字典『康熙字典』において「鬼」の字が初登場する。『康熙字典』は日本で用いられる漢字の形にも大きな影響を与え、「おに」と読む漢字は「鬼」とされるようになった。
その結果、それ以前に伝来していた古い「田+九+ム」が用いられた「田+九+ム」子母神、の字に別な意味が見出されるようなった、というわけである。
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