概要
しばし本願寺蓮如と呼ばれる。
1882年には明治天皇から「慧燈大師」の諡号が送られている。
1431年に中納言の猶子となって青蓮院で得度し、法名を蓮如と称した。
1457年6月17日に父・本願寺第7世「存如」が死去し、蓮如が本願寺第8世を継ぐ。
当時の本願寺は天台宗青蓮院の一末寺に転落しており、青蓮院の本寺だった比叡山延暦寺からは宗旨についても弾圧が加えられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。
蓮如は教義を手紙の形でわかりやすく説いた「御文」を中心とする布教活動を行い、信徒を増やしていった。
1465年1月8日に延暦寺は蓮如を「仏敵」と認定。1月10日に大谷本願寺を破却し、3月21日に再び破却した。
1467年に延暦寺と和議。
1468年に三河に本宗寺を建立。
1478年1月29日、山科に坊舎の造営を開始。1481年に興正寺を建立。
1483年8月22日に山科本願寺が出来上がった。
1489年には事務を実如に譲り、1496年9月に大坂石山の地に(後の石山本願寺となる)大坂御坊を建立した。