ぼくは思想として君たちの2.3年先をいっている。(学生時代)
吉本隆明 Yosimoto Takaaki
(よしもとたかあき〈りゅうめい〉)
生没:1924年 - 2012年(87歳)
日本の会社員にして左翼・詩人・評論家・元労働組合会長・全共闘関係者・準革命家デモ隊幹部。「戦後最大の思想家」と表される、戦後代表的思想家の一人。小説家ハルノ宵子(長女)吉本ばなな(次女)の父。
【戦前1924-1945】
1924年、東京、月島に造船業の長男として生まれる、東京工業大学卒。幼いころから体力はあるが根暗な性格で、当時としては普通だった〈軍国的小国民〉の教育を受ける。1945年に日本帝国が敗戦、当時20歳の吉本日本軍国主義少年で戦場で死ぬ気だったことと(同級生としては普通)、それまでの〈価値観〉や〈知識〉がまったく意味がなかったことに深い衝撃を受けた。
【戦後昭和1945-1989】
その後、生活のために戦後直後のブラック企業然とした町工場を転々としながらも詩作・同人活動も続けた後、大手インキ会社の技術社員として入社、安定した生活を送れるようになったものの、会社の四つの労働組合の組合長に選出され経営陣側に対し労働争議を行ったが争議は失敗。吉本は追い出される形で退社を余儀なくれてしまった。その後無職時代の地獄の時代をすごした後、友人の伝宛で特許事務所に入社した。
【安保闘争】
岸信介による日米安条約強行採決は東大思想家の丸山眞男が民主主義の危機とアピールし、それに共鳴する形で市民団体、学生では大学生たちの安保闘争を吉本は『闘争支持者』(一応左翼人としても)のデモ隊として参加、社会党・共産党、特に社会党浅沼稲次郎(殺害されるまで)に主導されていた『全共闘』やセンター的な東大・京大全共闘とは一線を画し、第3極的な〈共産主義者同盟、略ブント〉の支援組織として『6月行動委員会』中央の幹部として参加、ブント派が国会突入の際には最前線で突撃した。突入中、吉本は勝鬨的な大演説を行い、日本版レーニン的革命家の片鱗を見せつけた。その後、機動隊から逃亡する際に警察隊の催涙弾によって間違えて警視庁にはいってしまい、住居侵入財で逮捕された。
その後の活動では、公演などをしに来た吉本の主張と聞きにきた全学共闘会議〈全共闘〉学生などと意見の相違から論争・喧嘩が耐えなかった。こういったことから吉本隆明の影響が全共闘にどのくらいあったのかは人によって意見が異なるようになっている。(吉本隆明のことをまったく知らなかったという意見も多い。)
吉本自身は共産主義者革命思想支持者とは対立しており、自身が革命の星のような存在となって国会をひき潰す気はなかったのかもしれない、しかし当時の共産主義革命家がやりたくても出来なかった国家機構に軍団で一撃を食らわすこと、レーニンの場合に近いのだが『デモ隊の一応総指揮官的な存在となり政府を妥当しくさる』ぽい感じのことは吉本は成したと思う。つまり、なんだかんだで吉本がレーニンと同じ革命の仕方をしたことになるが、吉本自身は絶対に共産主義に組しない性格だった・・。
文章・評論活動上でも吉本は他の評論家と衝突し、(特に戦前の左翼思想家の転向者と戦後民主主義者の肯定者)吉本への〈喧嘩作文〉が雑誌上に乗ると、吉本自身からの〈反撃作文〉という形で、延々と文章上での論戦が続いた。(今日のネット上での炎上に近いものだと思われる。)そこで、吉本は作文での刺客作文合戦に一定の止めを刺すために。
・言葉そのものの存在を根源的にまで論じた。『言語にとって美とはなにか』
・人との関係性、男女関係だけではなく、同性、特殊な恋愛から生まれる体制からの個人の自立性を論じた。『心的現象論』
・国家というもの自体が人々の幻想であり、政党や政府、役所などは名前・建物だけでただの人々の集まりであるなどと論じた。『共同幻想論』
【TV的にも有名な人物へ】
その点で言うと吉本は影響力や偉人かはどうあれ死ぬまで地に落なかった、その後吉本の執筆活動などは社会のあらゆることを縦横無尽に論じるようになる、社会に対しての事象に身を呈して反逆的なことを論じ論を降ろさない個性が特徴であった。吉本は自身で雑誌を組むなど文筆業での独立に賭け一応成功し、作文で生計を立てることに成功した。その後の吉本の人生はTV的な形でも知名度が高まり有名な人物となった。
【平成1989-2012】
【晩年期】
海で溺れかけて死に掛けたり、オウム真理教の思想面でおいて〈そんなに悪い人たちではない〉といい教祖の麻原彰晃(松本智津夫)の存在を『宗教家としての力量は世界有数』と定義した上、「(思想理論的に)俺も負けていられない。」と公言(文章で)し波紋をよんだ事もあった。(教団が起こした事件については否定している。)
最晩年にはほぼ盲目になり糖尿病などの疾患を患いながらも執筆活動は続け、東日本大震災では原発断固擁護を貫き、2012年に完成した「フランシス子へ」が遺作となった。同年に没、享年87歳。
〈最晩年のインタビュー〉
書籍(一部)
戦前
戦後
- 初期ノート
- カール・マルクス
- 固有時との対話(1952年)
- 文学者の戦争責任
- 擬制の終焉(1962年)
- 試行(1965 - 1993年)
- 言話にとって美とは何か(1965年)
- 共同幻想論(1968年)
- 心的現象論序説(1971年)
- 心的現象論
- 源実朝
- 初期歌謡論
- 最後の親鸞
- 未来の親鸞
- 反核異論
- マス・イメージ論
- 少年
- ISYO「遺書」
- 引きこもれ
- 僕ならいうぞ
- 悪人正機
- 社会党か社会党的なものの行方
- 全マンガ論
エピソード
- 野太い迫力のある声ではなく、細くなんとなく中性的な要素をもつ声である。攻撃的な文章を書く吉本とのギャップは大きい、演説向きではない。(たとえると、押井守に近い声)
- 評論家の活動が文章本で行われていた時代の人なので、肉声よりも文章で書くことを主としてきたので、吉本個人がインタビューに答えるのは最晩年に入ってから。
- 「自民党的な日本の理想の父親像」とはまったく相容れないが、基本的に。老若男女、無職者、権力者、犯罪者、ヤクザ、(吉本以外の左翼)、右翼などのような境遇、考えを持つ人間にも卑屈や憮然な態度を絶対にとらない人だった。が、論じるときにはまったく容赦がなかった。(自分でそれらを肝に銘じていたところもある。)
- 家の玄関の鍵もかけない主義だった。
- 選挙に行かない主義だった。(吉本個人には論文になるほどの理由があって、他の人には関係がない。)
- 料理や家事の腕は玄人裸足だった、訳ではなく。料理ははっきり言って〈ちゃんこ料理〉だった。(おでんにフルーツポンチを入れたり、バターと卵を一緒に弱火で焼いてオムレツを作ったり、バターとご飯をしょうゆをかけてのりで巻いたり)はっきり言ってあたりはずれ多かった。
思想
革命家など
- マルクス・・・『千年に一人、現れるかわからない人。』『私たちとマルクスの〈価値〉は同じである。』(共産主義者で通常こうゆう思考はしない。通常はマルクスが最高)』
- レーニン・・・『「国家と革命」と「哲学ノート」だけがいい。』
- トロツキー・・・『「文学と革命」と「自叙伝」だけがいい。』
- スターリンー・・・『全部駄目だ。』
国家・憲法・軍隊など
- 日本・・・『国家(日本政府諸外国の政府)という代物は解体・無化していくほうがいい。』『国家が人々に向かって開いていくべきだ。』
- 日本国憲法・・・『憲法に日本国民から政府への「リコール権」を明記させたい。』『少しでも時の政権側が公約を守れなくなったら、どんどん政府をリコールしたがいい。』
- 軍隊・・・『国家が軍隊を持たないほういいに決まっている。』『憲法9条の理論的正しさは譲れない。』
- 国家が軍隊を持たないこと・・・『国連加盟国の軍隊が全部、放棄して国連の機関に軍事的組織をつくり、行動を起こすときは全加盟国の市民の直接投票の結果をみて決めたほうがいい。』
領土問題
- 北方領土・・・『ロシアと協定して双方から委員会を作って。自治政府のようなような形で出入りをさせ、商人や人権や民族に関係なく双方が振舞っているようにすればいい。』
- 尖閣諸島・・・『日本の領土だといって旗を掲げにいった人たちがいてもいいでしょう。』『中国や台湾とかとは談合でもなんでもして、共同管理という形にでもすればいい、たいした島でもないくせに。』
ソビエト
- ソ連・・・『ソビエト体制でのマルクス主義は「ロシア・マルクス主義」だ。』『「スターリン主義」は駄目だ。』『レーニン自体を疑えよ。』『崩壊したから、おまえたちのやったことは全部駄目だったな。』
- 連合赤軍・日本赤軍など・・・『まったく「革命戦士」なんて、甘ったれたやにくだりをやめるがよい。』
- 日本の赤軍派によるハイジャック事件・・・『このお人よしたちは、最悪なことをしてくれた、関係のない外国人の他人の命を軽く見た。命を軽く見る日本人の悪いところが出たな、特攻したいやつなんて戦時中ゴロゴロいたからな。』
アメリカ
- アメリカ・・・『おまえたちのおせっかいには、もう御免だ。』『ヒステリック的に、戦争しなけりゃやっていられない癖を何とかできませんか。』『残酷なアメリカだが創造性では私たち(日本)を超える。』
天皇・天皇制
- 昭和天皇・・・『最後の偉大な帝王』『戦争責任は(右・左の意見関係なく)天皇にある。』
- 昭和天皇以後の天皇・・・『大地主で、大金持ちで、何と無く尊重されている一族では、生き残っていくのではないか『『政治や制度では関与することは今よりも無くなっていくだろう。』
- 天皇制・・・『自然に残るところだけ残ればいい。』『日本古来の生き神様信仰の名残だ。』『日本国家と天皇の歴史は関係ない。』
政治
- 日本共産党・・・『前衛党気質〈おれたちが一番偉い〉という意識をかなぐり捨てて、大衆の中に入っていかないと駄目だ。』『レーニンとかスターリンの野郎とかプロレタリア独裁のことは忘れて、資本主義社会と競争して独自の理論思想を作って独自路線の共産党を構築して見せろ。』
- 日本社会党・・・『マルクスのことはいいから社会党内の党派性を超えて、資本主義政党と競争して独自の理論思想をして見せろ。』
- 社民党・・・『資本主義政党(自民党など)の後ろを走っていて、ぜんぜん駄目だ。』『社会党より救いようがない。』
- 民主党(日本)・・・『自民党右派のコアな議員と社会党右派のコアな議員が混ざり合った政党で、面白いですね。』
- (民主党)政権交代・・・『鳩山由紀夫さんによるゆっくりとした革命が始まった』
- これからの民主党・・・『レーニンが革命を起こす一歩手前の段階の組織まで行く』『「レーニンの民営化」的なことをしてもらいたい』(2012年に吉本個人が亡くなるので、その後の民主党にどういった見解を持っていたかは定かではない。)
子供のこと
- 子供・・・『無邪気な行いがたまに癇に障る』『こいつだけは、ゆるせねぇという子供も確かにいる。』『ヘーゲルが徹底的に弾圧するしかないとかいった子供も確かにいる。』『でも、俺は子供は自由にさせるほうがいいと思っている。』
- 教育・・・『「理想」や「目標」が必ずしも必要だとは、単純にはいえない。』『学校の偽の「厳格さ」が嫌いだ。』『美少年がいると先生は、必ずえこひいきするから嫌だ。』『殺人が起きるぐらい自由にするか、徹底的に管理してなどやってみたらどうだろう。』『少年が犯罪を起こすととしゃしゃりでてくる教育評論家という奴の言うことに腹が立つ。』『個人的には学校の規則なんて「取っ払ってしまえ」とか思っている。』
- いじめ・・・『いじめられている子は、勇気を出して刃物や鉄の棒で隠れながら、「エイッ」とやってしまえばいい。』『土台、卑怯な状況を作っていじめている奴らなんだから、遠慮は要らない。』『いじめ当事者の学生たちの前に、俺を連れて行って「俺と殺し合いをしようじゃないか。」といって遠慮なく殺しあう。それだけやればいじめられている子も、少しは満足してくれるだろうか。』
- 家族・・・『俺自身のことだけど、家族を持って子供も二人も持てると思っていなかった。』『俺は子供を育てる以上の仕事はしていないと思えるようになった。』『子供がやっていることを邪魔をしては悪いと考える。』『なので、できるだけ子供のしている事を中断させないようにいろいろな問題を調整してきた。』『他人の用事で子供がままならなくなると思うと、いけないと思って。』
人口
- 人口・・・『なるようになるしかない』
同性愛
- 同性愛・・・『男女の区別がなくなり、同性愛は増える。』
宗教
- 親鸞・・・『死についての考え方がすき』『個人的に全部好き』
- オウム真理教・・・『思想的にそんなに変な人ではない。』『どうゆう宗教でも、邪教じみているところがある。』『麻原彰晃の宗教的力量は世界有数の存在だ。』『(麻原)は「自分という存在が精子だった時まで、遡ることができる。」と言っていた。』『「麻原みたいな極悪深重な人間はやく往生できるよ。」と親鸞だったら絶対言う十も生んです。僕もそうゆうふうに言い切りたいけれど、度胸がなくて言い切れない、そこがだめなんです僕は。』『この論でおきる非難とかは甘んじて受ける。』
- 酒鬼薔事件の酒鬼薔薇聖斗・・・『精神的におかしいという子ではない。』『非常に大人びたことを考えている。』
- キリスト教(ヨブ記)・・・『神というのは嫌なやつなんですね。』
「吉本おろし」に対して
- 吉本おろしの論客に対して・・・『知力、腕力、思想、識見、全てをかけて私と戦ってみろ、気がすまない暴力や私を殺しに来てもよいのだ。遠慮はいらない。しかし私もお前を遠慮なく、倒す。』
好きなもの
- 阪神タイガース(六甲おろしが好き)
嫌いなもの
- 江戸時代・・・『江戸時代は嫌いなんです。』
上記に書いたようなことを吉本自身は「大衆の群像」という、吉本が考案した視点で論じたと思われる。
関連
安保闘争・・・おもに日本社会党が主導し全学連が中心となって一大デモを起こした事件。きっかけとしては日米安全保障条約の日本政府と自民党側の強行更新にたいしてであった。吉本自身もデモ隊の国会突入やバリーケード封鎖などにすべて参加した(一応牢屋経験あり)けれど。『岸信介(当時総理)を倒したぐらいで死ぬのはいやだな。』と思っていたらしい。60年、70年の起こったが、特に社会党委員長の浅沼稲次郎が事実上主導した60年安保デモは、国会議事堂が破壊されるかの勢いだったそうだ。
全日本学生自治会総連合(全学連)・・・大学生自治会の連合体。学生の自由を保障するための組織で学校側(体制側)が専横支配(不受理校則などを立てる)だった場合、異議を上げる。大学の自治会の執行部を各セクトが乗っ取るような形で組織化されたため、セクトごとに複数の「全学連」が存在しややこしい。現在でも存続する。
共産主義者同盟(ブント)・・・日本共産党が武力から「平和革命」に方針を転換した際に、反発した学生が中心。それまで全学連デモ隊を主導していた日本共産党の指導から独立した学生革命組織。1960年前半の主役。戦前に軍国主義教育を受けた学生が中心となった。中には『団塊の世代の全共闘』と一緒にしないでくれという人もいた。「国会議事堂に突入した」のもこちら。全学共闘会議(全共闘)とは別物、吉本曰く「世界で最初のソ連共産党でもマルクスでもレーニンとかと関係がない共産党」だそう。日本共産党(代々木)と対立した共産党のひとつでもある。その後めちゃくちゃに分裂して分派の一つ赤軍派が暴れまくった。今でも残党が少しいる。
全共闘(全学共闘会議)・・・日大闘争の際に、ノンセクト・ラジカルの学生を中心に結成された大同団結的勢力。1960年後半の学生運動の主役。文革の影響を強く受けている。細かく言うと後の『団塊の世代』にあたる学生が組織した執行部である。例えるならば全学連はオールジャンルの同人誌即売会で全共闘は一つのジャンルの即売会みたいな感じ。この当時の過激デモの中核を担ったが、東大闘争『安田講堂』立てこもり事件で敗北し終息した。組織は消滅したが全共闘人脈は現在も各地に(悪)影響を残している。
オウム真理教・・・麻原彰晃を高評価しており、事件後も評価を変えなかった。
関連(人物)
小林秀雄・・・戦後日本においての「最初の評論家」であり、思想・評論世界の神のごとく扱われた。吉本も途中までは丸山の論説を研究したが芸術論に小林が走っていくことについていくことができなくなったという。今現在も小林評論は保守論者の一派では名声がある。
丸山真男・・・評論家、東大卒の知的エリート。戦前の日本の体制を「天皇制ファシズム」と捉え。分析した、日本独自の自由主義を提示し、戦後民主主義の価値観を体現者としての権威を得る。同時に学術的地位でも最高の権威の地位を維持することに努め。、戦後の思想家では吉本が始めて丸山に対する否定的論戦(戦い)を挑んだ。全共闘・安保闘争では学生側を支持しながらも行動はせず、教授という地位も捨てなかった。
江藤淳・・・右翼、評論家。吉本からみて一番対立した論客。石原慎太郎の思想的師匠。おもに「戦後日本の歩み否定」的思想をもつ保守姿勢を展開。(元祖石原慎太郎的人物だと思えばいい。)自分の思想理論の現実との矛盾に苦しみ自殺。吉本曰く「江藤淳はカッコよすぎることばかり言った。」
埴谷雄高・・・左翼、評論家、小説家。日本共産党に入党した後、レーニン著作や帝政ロシア文学を研究した著作が多数。花田清輝との論争時には、吉本を擁護するエッセイを寄稿するなど、比較的良好な関係を保っていたが、反核運動やファッションに関する見識の相違から仲違いし、絶交した。吉本曰く「おまえはロシア・マルクス主義に魂を吸われすぎた。」
三島由紀夫・・・小説家。 吉本の一歳年下で最初は独自世界の耽美的小説を書くが、徐々に「天皇国家日本人」を追求しまくる小説・持論を展開し書籍発表するようになり、三島個人の武装組織である盾の会をつくり、自衛隊に武装蜂起を氾濫し失敗し。直後切腹する。吉本とも対談したことがある、感覚的に三島と吉本は近いところもある。
猪瀬直樹・・・小説家、政治家。石原の推薦で東京都副知事となり。石原の後継者として都知事になった。全共闘の時代に全共闘派の学校内の議長の一人であった。
糸井重里・・・小説家、最晩年の吉本と親しい。
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