浅沼稲次郎
あさぬまいねじろう
生没年 1898年(明治31年)12月27日 - 1960年(昭和35年)10月12日
神着村(三宅島)の名主の庶子として生まれる。父が東京府南葛飾郡砂村(現東京都江東区)で酪農業をはじめ、稲次郎の母とは別の女性と再婚したのを期に実子として認知され引き取られた。その後東京府立三中(現都立両国高等学校)に入学。
父の「医者になれ」の勧めを蹴り、大正7年(1918年)に早稲田大学予科に入学する。この経緯から父とはしばらく絶縁状態に陥り、稲次郎は友人の経営する文房具会社に参加して、万年筆製作で糊口を凌いだとされる。早大在学中には雄弁会と恵まれた体格を活かして相撲部に在籍した。更に漕艇部にも所属してレースにも出場し「大隈重信に体格の良さを褒められた」と語っている。大正8年(1919年)秋、大正デモクラシー期における代表的な学生運動団体である〈建設者同盟〉の結成に加わって以降、社会主義運動に飛び込み、同志達と全国の小作争議や労働争議を応援する日々を過ごした。また、軍部への協力を目的にした学生団体(早大軍事研究団)への抗議集会の際には、自ら演説し運動部員や外部の右翼団体から殴る・蹴るの暴行を受けたりもした(早大軍研事件)。関東大震災発生時は群馬県で集会に参加しており、慌てて東京に戻ったが、農民運動社の建物に身を寄せていたところ兵士に捕まり、騎兵連隊の営倉に拘束された後、市ヶ谷監獄に入れられて看守から態度が悪いと暴行を受けた。1923年に早稲田大学政治経済学部を卒業した後も、浅沼は社会主義運動を続け、1925年には日本で最初の単一無産政党である農民労働党の書記長に26歳の若さで推された。しかし、この党は結党から僅か1時間で政府の命令で解散させられた。
1926年、単一無産政党として〈労働農民党〉が結成されるが、まもなく社会民衆党(右派)・日本労農党(中間派)・労働農民党(左派)の三派に分裂した。浅沼は日本労農党に参加した。1932年、分裂する無産政党を糾合し社会大衆党が結成されると浅沼もこれに加わったが、この時に浅沼は書記長の麻生久の人柄に心酔し、麻生が「軍部との協力によって社会変革を目指そう」とする国家社会主義的な路線を打ち出すとこれを支持した。以後、浅沼は軍部による戦争政策の支持者となる。1933年に東京市会議員、1936年には衆議院議員選挙に初当選。1940年に同議員の斎藤隆夫が、泥沼化する日中戦争に対して解決策を見出だせないまま戦争を継続する政府・軍部の姿勢を批判した反軍演説を行った時、その除名にも賛成した。
1940年に大政翼賛会が発足すると臨時選挙制度調査部副部長に就任した。しかし同年に麻生が急死、心の拠り所を失った浅沼の精神的苦痛は大きく、1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)での立候補も辞退し、国政から一時離れた。しかし、この決断が戦後の公職追放を免れる理由ともなった。同じ年、東京市会議員選挙に立候補するが、官憲の妨害に合い落選。東京に都制が敷かれて最初の都議会議員選挙にも立候補し、当選して副議長に就任した。玉音放送は深川の自宅アパートで聴いた。
1945年、日本社会党の結成に際し、組織部長に就任した。中間派の指導者だった河上丈太郎・三輪寿壮らが公職から追放されたため、自然と浅沼が中間派の中心人物となった。
1947年、書記長だった西尾末広が片山哲内閣に入閣すると書記長代理となり、翌年には正式に書記長となった(国会内では初代衆議院議院運営委員長)。1949年の第24回衆議院議員総選挙で委員長の片山哲が落選すると、特別国会の首班指名で社会党は浅沼に投票した(実際に指名されたのは吉田茂)。一時は書記長を離れるが、1950年に書記長に復帰した。1951年、サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約のいずれもに反対の左派と共に賛成の右派が対立すると、浅沼は講和条約賛成・安保条約反対の折衷案で、党内の対立を纏めようとするが、左右分裂を食い止められなかった。その後、右派社会党書記長となった浅沼は寝る間を惜しんで全国の同志達の応援に駆け回り、そのバイタリティから「人間機関車」の異名を取った。
1955年に社会党再統一が実現すると、書記長に就任する。書記長の役職柄、党内で対立があると調整役にまわって「まあまあ」とお互いをなだめる役割に徹した姿から「まあまあ居士」などとも呼ばれた。また長年に渡って書記長を務めてきた実績と、長年書記長を務めていながら、トップである委員長のポストが巡ってこない境遇をかけて「万年書記長」とも呼ばれた。
1959年、第2次中国訪問団の団長として中国を訪問した浅沼は中華人民共和国の「一つの中国」論に賛同し、「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」と発言した。草稿は党内左派で、浅沼が「ゴクサ(極左の誤読)」と呼んだ広沢賢一に命じた物だった。特に「アメリカ帝国主義」を「敵」と名指しした発言は、国内外に大きな波紋を広げた。自民党の福田赳夫はすかさず抗議電報を打ち、「浅沼の失言」アピールに成功した。特に、帰国時に飛行機のタラップを中国の工人帽を着用して降りてきた事実については、右翼はもちろん世論と党内の双方からも反発を受けた。団員の1人で右派の曾禰益等からは「今回の書記長の態度には同意できない」 との主張がなされた。また、左派で委員長の鈴木茂三郎も団員の広沢賢一に対して「君が浅沼の秘書役をやりながら一体どうしたものだ」と怒鳴ったとされている。
2015年9月22日の産経新聞のweb記事によると、“帰国後間もなく駐日アメリカ大使ダグラス・マッカーサー2世から詰問を受け、釈明しようとするも怒声を浴びせられてすごすごと引き返した” とある。ただし、原彬久が勝間田清一へインタビューをした際には “マッカーサーから詰問された際も取り消さないと応じたため大激論となった結果、当初予定の申し入れもなくなった” との弁である。また、日本社会党の機関紙局が発行した『邁進 人間機関車ヌマさんの記録』の『浅沼稲次郎のたたかい』によると、“安保闘争の強行採決後の1960年5月24日にアメリカ大使館を訪ねた際、マッカーサーから発言の撤回を強く主張してきたが、「取消す必要はない。アメリカ国民に対してではなくて、帝国主義政策と社会党が闘うのは当然である」として、撤回を拒否した” とある。
浅沼発言の背景としては、「満州事変以来日本は侵略戦争を行ってきたとの考え方に基づき、自身も政治家の1人として積極的に戦争に加担した事実を受け止めた上で、中国人に損害を与えた悔悟の念を表したのではないか?」とされている。また、朝鮮民主主義人民共和国から訪中していた黄方秀は、かつて日本に滞在した上に浅沼の選挙を手伝った経緯があった。黄は事態打開のために「『戦闘的な態度』を取るべきだ」と浅沼らに主張した。草稿を作成した広沢は「『日中両国人民の共同の敵』の〈敵〉の部分は〈課題〉など、より穏やかな単語も用意した。浅沼はその中から〈敵〉を選んだ」と答えている。ただし、勝間田清一は “「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」は中国側の張奚若の発言であり、浅沼は「まあ、そうですね」などと相づちを打ったのが真相だ” と主張している。
1960年、西尾末広らが社会党を離党して民主社会党(民社党)を結成すると、鈴木茂三郎委員長は辞任し浅沼が後任の委員長に選ばれた。浅沼は安保闘争を前面にたって戦い、岸信介内閣を総辞職に追い込むが、安保条約の廃案を勝ち取れなかった。また民社党は続く1960年総選挙に、麻生久の子で浅沼も目を掛けていた麻生良方を浅沼の対立候補として東京1区に立てる等々、全面対決の姿勢を見せた。
浅沼はこの日、日比谷公会堂で演説を行い、自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会「総選挙に臨む我が党の態度」(主催:東京都選挙管理委員会、公明選挙連盟、日本放送協会)が行われていた。会場は2500人の聴衆で埋まり、民社党委員長西尾末広、日本社会党委員長浅沼稲次郎、自由民主党総裁池田勇人の順で登壇し演説する流れになっていた。
浅沼は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めたが、直後に右翼団体の野次が激しくなり、「中ソの手先、容共社会党を打倒せよ」などと書かれたビラを撒く者も出始めた。この右翼団体の野次にも山口二矢は参加していた。司会を務める小林利光(NHKアナウンサー)は「会場が大変騒々しゅうございまして、お話が聞きたい方の耳に届かないと思います。大体この会場の最前列には新聞社関係の方が取材においでになっている訳ですけれども、取材の余地がないほど騒々しゅうございますので、この際、静粛にお話を伺いまして、この後、進めたいと思います」と自制を求めると、場内は拍手が沸き上がり、一瞬野次は収まった。それを見計らって浅沼は自民党の選挙政策についての批判演説を続けた。この頃に主犯の山口らのグループは右翼団体の野次の傍らに壇上の袖に忍び込み、戦闘態勢を整えていた。
そして、浅沼が「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、全部伏せておいて、選挙で多数を占むると……」と口にし掛けた午後3時5分頃、山口が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り約33センチメートルの脇差様の刃物で浅沼の左脇腹を深く、左胸を浅く突き刺した。浅沼はよろめきながら数歩よろめいた後に倒れ、駆けつけた側近に抱きかかえられて直ちに病院に直行した。秘書官は浅沼の体を見回し、出血がなかった状態から安心したが、それは巨漢ゆえに傷口が脂肪で塞がれたために外出血が見られなかっただけであり、実際には一撃目の左脇腹に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって、背骨前の大動脈が切断されていた。内出血による出血多量によりほぼ即死状態で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していた。山口はその場で殺人未遂の容疑で現行犯逮捕され、日比谷警察署に連行された。当時の山口は17歳で少年法による実名非公開対象であったが、事態の重大さから実名報道された。その他にも〈全アジア反共青年連盟〉責任者を恐喝、右翼団体〈防共挺身隊〉の隊長を公正証書原本不実記載および強要、また赤尾敏を威力業務妨害容疑で、それぞれ逮捕した。
現職の国会議員が殺害されるのは戦後初の出来事であり、それ以降、講演中の白昼堂々殺害されるのは2022年の安倍晋三元首相が銃殺されるまで一切無かった。
事件発生直後に大日本愛国党総裁赤尾敏らが壇上に駆け上がり、三党の党首のみに演説させる展開について司会者に向かい抗議を始めた。また壇上のマイクで「共産党にもやらせろ」と主張する男も現れ、主催側は休憩にするとして幕を下ろした。会場では「浅沼は病院に担ぎ込まれたが傷は大したことはない」との噂が飛び込み、主催者と各陣営の間で「西尾と浅沼が演説したのに池田ができないのは不公平」「浅沼の演説が中断させられたのに池田が演説するのは不公平」などの議論となった。しかし、未確認情報ながらも新聞社から「浅沼が死亡した」事実がが首相秘書官に伝えられた事情もあり、最終的に講演は中止と決まった。
逮捕後、山口は取調べに対し若年ながら理路整然と受け答えしていた模様。しかし事件の3週間後の11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で、白い歯磨き粉を溶いた液で書いた「七生報国 天皇陛下万才」の文字を監房の壁に残し、布団用のシーツを用いて首吊り自殺した。
10月18日、池田首相は衆議院本会議で、伊藤昌哉秘書の手による追悼演説を行った。この追悼演説は今日でも名演説として知られている。追悼演説によって世論にある程度の納得を与えて、社会党としても上げた手の降ろしどころがなくなった。
10月20日、事件現場の日比谷公会堂において浅沼の社会党葬が行われた。喪主は妻の享子が担当し、池田首相を始めとする各大臣や国会議員、更には社会党派の一般人までもが参列した。社会党は浅沼の妻である浅沼享子を身代わり候補に立て、享子は当選した。