概要
地方・中央で活躍した日本の騎手。
「アンカツ」の愛称で知られる。
地方競馬の騎手が中央競馬へ移籍する制度そのものを大きく改革させた先駆者。
安藤がいなければ、後に続いた岩田康誠・戸崎圭太・内田博幸・小牧太らの活躍はなかったかもしれず、地方騎手のレジェンドとして多大な功績を残した。
引退し競馬評論家になり現場から離れても、馬の性格をすぐに見抜く慧眼は衰えない。
性格は大らかで大胆。現役時代に「豊ちゃん、これ何メートルのレースだっけ?」とレース直前に聞いたというエピソードがある。
武豊からは「真の天才はアンカツさん」と言われたが、安藤自身は天才騎手として名古屋競馬の名手で落馬事故で引退を余儀なくされた坂本敏美の名を挙げており、同じく天才と呼ばれ落馬事故で引退を余儀なくされた福永洋一と絡め「『天才』と呼ばれる人に限って、大変な事故に遭って引退を余儀なくされている。(中略)俺は天才ではないので、致命的な怪我はしないだろう。俺は天才じゃなくてよかった、という根拠のない確信みたいなものがあるのだ」と自身を評価している。
愛煙家として知られ、2009年のスプリンターズステークスで、自身が騎乗したビービーガルダンとローレルゲレイロの写真判定中は煙草を吸っていた。ビービーガルダンは1cmのハナ差でローレルゲレイロに敗れている。
現在では禁煙に成功しているとのこと。
来歴
兄・光彰が笠松競馬場の吉田秋好厩舎の騎手見習いになったのに従い、中学1年生の頃から厩舎の住み込みとなった。
1975年、地方競馬の騎手を養成する地方競馬教養センター(栃木県那須塩原市)に入所し、1年半で卒業し笠松に戻った。
1976年10月20日、笠松競馬場で騎手デビュー。
1978年、笠松競馬場の最多勝利騎手となる。以来、「カラスが鳴かない日はあっても、アンカツが勝たない日はない」とまで言われ、通算19回の笠松リーディングとなった。
1980年5月11日、ヤマニンスキーに騎乗して阪神競馬場の地方競馬騎手招待に出走し1着。安藤にとって中央競馬での初騎乗・初勝利であった。
1987年に笠松でデビューしたオグリキャップの主戦だったが、オグリキャップは中央へ移籍し騎乗出来なくなった。
オグリキャップと入れ替わるように中央から笠松へ移籍してきたフェートノーザンの主戦としても連勝を重ねた。
この頃から勝ってばかりいる事に飽き、引退して調教師になろうと考えるようになるが、転機が訪れる。
1995年はJRAと地方の壁が崩れ、後に「中央地方交流元年」と呼ばれた。JRAでは交流重賞などの設立や制度などが大幅に改革が行われ、条件付きではあるが地方所属馬・騎手でも中央重賞に出走可能となった。安藤騎手は笠松所属のライデンリーダーで中央競馬の重賞「報知杯4歳牝馬特別(現・フィリーズレビュー)」に勝利し、その後もライデンリーダーで牝馬クラシックなどに出走。中央の騎手から厳しくマークされた事から、騎手としての情熱を取り戻した。
1999年、デイリー杯3歳ステークスを制したレジェンドハンターの鞍上として朝日杯3歳ステークス(現・朝日杯フューチュリティステークス)へ挑むも、エイシンプレストンの前に交わされ中央GⅠ制覇はならなかった。
2001年10月30日、中央の騎手免許をとるべく1次試験を受験。実力十分なことからマスコミには「移籍確実」と騒がれたが、なんと不合格。ファンだけでなく競馬関係者からも「地方で実績を挙げた騎手と10代の競馬学校生が同じ試験を課されるのはおかしい」などの批判が集まり、翌年、JRAは「地方在籍時に中央で所定以上の成績を挙げていれば、筆記試験を免除する」というルールを制定。後にこれは「アンカツルール」と俗称されるようになった。
その後、小牧太(兵庫)・岩田康誠(兵庫)・内田博幸(大井)らがこのルールを利用して中央入りを果たしている。
2003年、安藤は再び騎手免許試験を受験し、2月13日に合格。23日に騎手免許が交付され中央へ移籍。栗東トレーニングセンター所属のフリー騎手となる。
移籍後1か月足らずで高松宮記念をビリーヴで制し、中央GⅠ初制覇を成し遂げた。
以後もザッツザプレンティ、アドマイヤドン、キングカメハメハ、ツルマルボーイ、ダイワメジャー、ダイワスカーレット、ブエナビスタなどの主戦としてGⅠレースを制するなど活躍する。
2012年の京阪杯以降レースで騎乗することがなくなった。
2013年、「納得いく競馬ができなくなった」ことを理由に騎手免許を返上して引退。引退後は競馬評論家や解説者として活動している。