概要
腰が弱く、現役時代は条件馬どまりで主な勝ち鞍は中日スポーツ杯(1980年。1200万下)。
良血のため種牡馬入りし、ヤエノムテキなど8頭の重賞勝利馬を輩出した。
プロフィール
略歴
1975年
4月28日、「ヤマニン」の冠名で知られるオーナーブリーダーの錦岡牧場で誕生。母のアンメンショナブルは未勝利馬だがアメリカ競馬殿堂入りのバックパサーを父に持ち、イギリスクラシック三冠馬のニジンスキーの仔を宿した状態で日本に輸入され、ヤマニンスキーは持込馬である。この血統構成はマルゼンスキーと同じものだった。
当歳時に腰を痛めたため、馴致・育成は遅れた。
1978年
栗東の浅見国一調教師に預けられる。既に4歳(旧表記)になっていた。
9月3日、高橋隆騎手を鞍上に、札幌競馬場の条件戦(300万下)でデビューし、ニューカドマスの6着に敗れた。この年は条件戦を3戦したが、未勝利に終わった。
1979年
4月1日、田原成貴騎手を鞍上に、小倉競馬場の国東特別(300万下)に出走し1着。7戦目での初勝利であった。
4月29日、田原成貴騎手を鞍上に、京都競馬場の条件戦(700万下)に出走し1着。
7月1日、田島良保騎手を鞍上に、阪神競馬場のルビーステークス(1100万下)に出走し1着。
11月24日、田島良保騎手を鞍上に、阪神競馬場の霜月特別(800万下)に出走し、ヤマノビエントウの9着に敗れた。この年は13戦して3勝を挙げたが、年末に骨折し休養に入る。
1980年
4月20日、骨折から復帰。田島良保騎手を鞍上に、阪神競馬場の加古川特別(800万下)に出走し、バンブーストラの5着に敗れた。
5月11日、安藤勝己騎手を鞍上に、阪神競馬場の地方競馬騎手招待(800万下)に出走し1着。安藤勝己騎手にとって中央競馬での初騎乗・初勝利であった。
6月7日、河内洋騎手を鞍上に、中京競馬場の東海ステークス(1200万下)に出走し、ハクヨーカツヒデの2着に敗れた。
6月15日、河内洋騎手を鞍上に、中京競馬場の中日スポーツ杯(1200万下)に出走し1着。脚部不安により休養に入る。
11月8日、5ヶ月ぶりに復帰。河内洋騎手を鞍上に、京都競馬場のオープン戦に出走し、タマモコトブキの4着に敗れた。生涯唯一のオープン戦出走となった。
11月15日、河内洋騎手を鞍上に、京都競馬場の大原特別(1200万下)に出走し、サルノヒーロの2着に敗れた。脚部不安が再発し休養に入る。
1982年
復帰できないまま現役引退。錦岡牧場と同族経営のヤマニンベン牧場で種牡馬として繋養される。同じ血統構成のマルゼンスキーが種牡馬として成功していたため、その代替種牡馬として中小の生産者から人気を集め、初年度から32頭と交配。
1988年
1989年
1998年
3月30日、種付けシーズン前の試験種付け中に転倒し、胸椎を骨折して死亡(旧24歳)。