概要
生没年 | 1955-(66歳) |
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所属 | 栗東 |
騎手 | 1974年-2003年 |
開業年 | 2005 |
大阪府出身。父はかつて存在した地方・春木競馬場で調教師をしており、幼少時から父の厩舎で育ち、中学生のときには調教騎乗をしてから学校に通うのが日課だった逸話がある。祖父もまた中央競馬の調教師で、のちに師匠となる武田作十郎調教師とも親交があり、武田厩舎の外厩として父が馬を預かっていたことなどの縁から、中学卒業時に武田より河内を預かりたい旨を提案され、その後中学を卒業、短期講習を受けて騎手免許取得を得ることになる。
そして1974年、19歳で栗東所属の騎手としてデビューし、デビュー戦で初騎乗・初勝利を収めると、その勢いで年間26勝を挙げ、関西記者放送クラブ賞(関西での最多勝利新人騎手賞)を受賞。翌1975年には小倉大賞典を勝利して初重賞制覇。そして1979年にアグネスレディーに騎乗して優駿牝馬に勝利し、初の八大競走制覇(当時はグレード制導入前)を達成。更に同年の菊花賞でもハシハーミットに騎乗して勝利している。
同年、当時リーディングジョッキーだった福永洋一(福永祐一の父)が落馬事故で引退すると、河内の同期だった田原成貴がその跡をついで活躍しはじめ、以後80年代関西競馬で切磋琢磨する間柄となった。
1980年、自身初となる関西リーディングジョッキーを獲得。武田厩舎には1985年まで所属し、その後はフリーランスとなった。
とりわけ牝馬の騎乗については名手ともいわれ、桜花賞をメジロラモーヌ・アラホウトク・アグネスフローラ(前述のアグネスレディーの仔)・ニシノフラワー、オークスをアグネスレディー・メジロラモーヌ、エリザベス女王杯をロンググレイス・メジロラモーヌで、と牝馬三冠戦を複数回勝利し、初の三冠牝馬となったメジロラモーヌについては河内自身も「自身が乗った最強馬」と評するほど。
また、マイル戦も有名馬に多く騎乗。ニホンピロウイナー・サッカーボーイ・ダイイチルビーも河内が主戦を務めた他、オグリキャップも笠松転厩からしばらくは河内が鞍上だった。
騎手生活の晩年の2000年にはアグネスフライトで日本ダービーを、2001年にアグネスタキオンで皐月賞を勝利し、クラシック三冠全勝利を達成。しかし天皇賞(秋)を制することができず、旧八大競走完全制覇はならなかった。
2003年、1000勝騎手の調教師試験免除の特例廃止という事情を受け、現役を引退して調教師となる。
引退後はアグネスレディー・アグネスフローラ・アグネスフライト・アグネスタキオンを管理し、河内にとっても縁がある長浜博之調教師(なおアグネスレディーは長浜の父・長浜彦三郎が管理していた。)の下で技術調教師として研修を積み、2005年に開業。
開業後は重賞勝ち馬を数頭出しているものの、GⅠは長らく勝てていなかった。2023年、交流GⅠ・JBCレディスクラシックをアイコンテーラーで初GⅠ勝利を挙げた。
2014年、騎手顕彰者として殿堂入りを果たした。
新人時代、武田厩舎に所属した名手武邦彦のもとで騎乗を学び、その後邦彦の息子である武豊も河内の騎乗を学ぶことになった逸話がある。そのため、武邦彦・武豊とは兄弟弟子の間柄である。他にも人柄のよさから「青年団長」と呼ばれた。
また、2000年にはJRAのCMで岡村隆史演じる新人の岡村騎手の先輩騎手役として共演している。