その戦いに勝てれば、やめてもいいと言うジョッキーがいる。
その戦いに勝ったことで、燃え尽きてしまった馬もいる。
その戦いは、僕たちを熱く、熱く狂わせる。
勝負と誇りの世界へようこそ。
ダービーへようこそ。
―2013年JRA日本ダービー(第80回記念) CMより
概要
現在の正式名称は「東京優駿」であるが、副称である「日本ダービー」が通称としても広く一般的でpixivタグ数も多いため、こちらで詳細を取り上げる。
例年晩春・初夏の時期に東京競馬場の芝2,400mコースで開催。
国内(JRA所属馬以外に地方所属馬や外国調教馬も出走可能)のサラブレッド系3歳牡馬・牝馬限定の定量制の重賞(GⅠ)レースで、事実上その世代の平地芝競走の準長距離最強決定戦となっている。
また皐月賞と菊花賞と共に、3歳馬の「(牡馬)クラシック三冠」として整備。
日本競馬において歴史と格式のある旧八大競走の中でもトップクラスの存在とされており、競馬ファン以外の国民全般だけでなく国際的にも知名度も非常に高い。
1780年の英国で創設されたダービーステークス(エプソムダービー)を模範として、1932年に重賞「東京優駿大競走」の名称で誕生。
1938年に「東京優駿競走」に、1948年に「優駿競走」に変更され、1950年に再度「東京優駿競走」に戻されるといった経緯を経て1964年に「東京優駿」となった。
1950年に公式副称として「日本ダービー」を設定。
競走会場は創設から1933年までは旧目黒競馬場で、1934年以降は東京競馬場。
距離は一貫して2,400mである。
競走設定・傾向
開催時期は1973年以降5月下旬から6月上旬で定着。
これまでに東京競馬場の改修工事や馬インフルエンザの流行などのために7月に開催された年もあり、レースそのものが中止されたのは1945年の第二次大戦の時のみである。
現在の出走枠は最大18頭。
その内皐月賞の1~5着・青葉賞の1~2着・プリンシバルステークスの1着馬には優先出走権が与えられ、残る10枠は出走登録時の賞金順の上位10頭が選ばれる。
収得賞金0円の「未勝利馬」については原則出走不可。
ただし本レースのステップ競走である青葉賞には挑戦できるため、その2着以内に入れば例外としてダービーに出走することも出来る。(重賞の2着賞金が収得賞金に加算されることでクラスとしては「未勝利馬」ではなくなるため)
現在本レースの前週に開催される3歳牝馬GI優駿牝馬(副称オークス)があるため、牝馬のダービー出走は全体として少ない。
これまでにヒサトモ、クリフジ、ウオッカの3牝馬が優勝。(ヒサトモ・クリフジの時代はオークスが秋期開催だった)
また地方所属馬や外国産馬・持込馬に関しては、クラシック登録の不可欠など長年厳しい出走制限があった。
全体として比較的人気馬が好走することが多く、堅い決着になりやすいともされる。
かつてはフルゲートが20頭を超えていたため後方に控えると馬群を捌ききれない事態が多発しており、「1コーナーを10番手以内で回らないと勝てない」という位置取り(いわゆるダービーポジション)のジンクスが話題になった事もある。
1992年以降はフルゲートが18頭になった事や、NHKマイルカップを中心とした短距離路線の整備もあって、皐月賞のようなハイペースになりにくく、皐月賞で敗戦した馬の巻き返しも目立つが、概ね堅い決着になりやすい。
また、2020年代に入るまで、乗り替わりやテン乗り(初騎乗)の馬が長期間に渡り勝利しておらず、文字通り人馬一体の走りが求められる傾向が強かった。
また、ダービー後の不思議なジンクスとして、平成以降のダービー馬はそれまでの成績が重賞未勝利だった場合、3歳のレースを最後に引退しているというデータがある。(該当馬:ウィナーズサークル、フサイチコンコルド、ロジャーバローズ)
主な前哨戦・トライアルレース
牡馬クラシック三冠レースの一冠目。
ダービーの出走馬の多くはこのレースに出ており、条件・傾向の違いなどもあって皐月賞で敗れた馬の巻き返しも多い。
青葉賞(東京競馬場・芝2,400m)
ダービー全く同じコースで開催されるGⅡ競走。
2010年以降は2着までの馬にダービーの優先出走権が与えられており、現時点でこの出走枠では2着が最高である。(代表馬:エアダブリン、シンボリクリスエス)
プリンシパルステークス(東京競馬場・芝2,000m)
トライアル競走の一つ(リステッド競走)で、こちらも現時点での最高順位は2着である。(代表馬:ダンスインザダーク)
ダービーのトライアル競走ではないが関西地域の馬が賞金の上乗せのために出走するともされており、事実上の前身レースである京都4歳特別の時代から「東上最終便」とも呼ばれる。
こちらで好走した馬のうち、アグネスフライト、キズナ、ロジャーバローズがダービー制覇。
NHKマイルカップ(東京競馬場・芝1,600m)
皐月賞を回避してこのGⅠレースからダービーへ向かう馬も少なくなく、キングカメハメハとディープスカイが両レースで「変則二冠」を達成。
競走条件
出走資格:サラ系3歳牡馬・牝馬(出走可能頭数:最大18頭)
JRA所属馬
地方競馬所属馬(後述)
外国調教馬(優先出走)
負担重量:定量(牡馬57kg、牝馬55kg)
第1回は別定重量。第2 - 8回は牡55kg、牝53kg。第9 - 13回は牡57kg、牝55.5kg。
未出走馬および未勝利馬(『競馬番組一般事項 I 定義 4.出走条件未勝利競走』に該当する収得賞金が算出できない馬)は出走できない。
出馬投票を行った馬のうち優先出走権のある馬から優先して割り当て、その他の馬は通算収得賞金が多い順に出走できる。
なお出馬投票の結果同順位の馬が多数おり出走可能頭数を超過した場合は、抽選で出走馬を決める。
過去の優勝馬
馬の太字は同年のJRA賞最優秀3(4)歳牡馬受賞馬もしくはJRA賞受賞馬、また勝利騎手の太字はJRA騎手顕彰者
☆は三冠達成。ただしクリフジのみ変則三冠。
★は二冠達成(「皐」は皐月賞、「菊」は菊花賞との二冠を表す。「N」はNHKマイルカップとの変則二冠。)
回 | 年度 | 馬名 | 冠 | 騎手 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
昭和 | 創設・目黒競馬場芝2400mで施行 | ||||
第1回 | 1932年 | ワカタカ | 函館孫作 | 記念すべき第1回の勝ち馬 | |
第2回 | 1933年 | カブトヤマ | 大久保房松 | 目黒競馬場最後のダービー馬。東京移転後も帝室御賞典を勝つなど活躍。産駒のマツミドリもダービーを制し、史上初の親子ダービー制覇となり、その功績を称えて重賞・カブトヤマ記念が創設された(2004年廃止)。鞍上の大久保は騎手兼調教師で勝利。 | |
現東京競馬場に移転・東京競馬場芝2400mで施行 | |||||
第3回 | 1934年 | フレーモア | 大久保亀治 | 府中移転後初のダービー馬。また唯一の秋田県産馬である。 | |
第4回 | 1935年 | ガヴアナー | 井川為男 | カブトヤマの全弟。初の兄弟ダービー制覇だったが、ダービー優勝後の調教中に故障・予後不良となった。 | |
第5回 | 1936年 | トクマサ | 伊藤正四郎 | ||
第6回 | 1937年 | ヒサトモ | 中島時一 | 初の牝馬のダービー制覇。鞍上の中島は2人目の騎手兼調教師で勝利。トウカイテイオーの牝系に名を残す。 | |
第7回 | 1938年 | スゲヌマ | 中村広 | 鞍上の中村は3人目の騎手兼調教師で勝利。また馬主はのちにメイズイ、ミスターシービーを所有する千明牧場である。 | |
第8回 | 1939年 | クモハタ | 阿部正太郎 | デビュー9日目(3戦目)という最短制覇記録。 引退後6年連続リーディングサイヤー。顕彰馬。また、その功績を称えて重賞・クモハタ記念が創設された(1981年廃止)。 | |
第9回 | 1940年 | イエリユウ | 末吉清 | ||
第10回 | 1941年 | セントライト | ☆ | 小西喜蔵 | 初のクラシック三冠馬。また、8馬身差勝利はダービー最大着差。顕彰馬 |
第11回 | 1942年 | ミナミホマレ | 佐藤邦雄 | ||
第12回 | 1943年 | クリフジ | ☆(優牝・菊) | 前田長吉 | 史上二頭目の牝馬のダービー馬。優駿牝馬、菊花賞と合わせて変則三冠。顕彰馬。 |
第13回 | 1944年 | カイソウ | 橋本輝雄 | 能力検定競走で施行。1945年に軍馬として徴用され、その後名古屋空襲に遭遇し行方不明となる。 | |
第14回 | 1947年 | マツミドリ | 田中康三 | 前述の通りカブトヤマ産駒で、初の親子ダービー制覇。 | |
第15回 | 1948年 | ミハルオー | 新屋幸吉 | ||
第16回 | 1949年 | タチカゼ | 近藤武夫 | 単勝554.3倍はダービー史上最も低い支持率。二冠馬トサミドリの勝利を阻んだ。 | |
第17回 | 1950年 | クモノハナ | 橋本輝雄 | ||
第18回 | 1951年 | トキノミノル | ★(皐) | 岩下密政 | トキノミノルは無敗二冠を達成したが、このレースの17日後に破傷風で死去。顕彰馬 |
第19回 | 1952年 | クリノハナ | ★(皐) | 八木沢勝美 | 菊花賞は故障により断念、引退。種牡馬としても天皇賞馬を3頭輩出 |
第20回 | 1953年 | ボストニアン | ★(皐) | 蛯名武五郎 | 菊花賞はハクリヨウに敗れ三冠ならず |
最優秀4歳牡馬設置 | |||||
第21回 | 1954年 | ゴールデンウエーブ | 岩下密政 | テン乗り(初騎乗)での優勝。テン乗りでの勝利は以後、下記のタスティエーラまで現れなかった。二冠馬ダイナナホウシユウは4着。 | |
第22回 | 1955年 | オートキツ | 二本柳俊夫 | セントライト以来の8馬身差勝利。名牝トキツカゼ産駒。 | |
第23回 | 1956年 | ハクチカラ | 保田隆芳 | 2歳王者キタノオーは2着。その後アメリカで日本調教馬として初の重賞勝利。顕彰馬 | |
第24回 | 1957年 | ヒカルメイジ | 蛯名武五郎 | ||
第25回 | 1958年 | ダイゴホマレ | 伊藤竹男 | ||
第26回 | 1959年 | コマツヒカリ | 古山良司 | 第24回ダービー優勝馬ヒカルメイジの半弟。ダービー初の兄弟制覇。 | |
第27回 | 1960年 | コダマ | ★(皐) | 栗田勝 | 「カミソリの切れ味」と評された皐月賞との無敗二冠馬。菊花賞は5着に敗れ三冠ならず。また、バリアー式発走ゲートでは最後のダービー馬。顕彰馬 |
第28回 | 1961年 | ハクショウ | 保田隆芳 | 2着メジロオーと『髪の毛1本差』とも呼べる鼻差勝ち。 | |
第29回 | 1962年 | フエアーウイン | 高橋英夫 | ||
第30回 | 1963年 | メイズイ | ★(皐) | 森安重勝 | 菊花賞は騎乗ミスもありグレートヨルカに敗れるのみならず6着大敗。 |
第31回 | 1964年 | シンザン | ☆ | 栗田勝 | 史上二頭目のクラシック三冠馬。その後天皇賞と有馬記念も制し、五冠馬と称された。顕彰馬 |
第32回 | 1965年 | キーストン | 山本正司 | ダイコーターとの接戦の末の勝利。1967年阪神大賞典で悲劇的最期を遂げる。 | |
第33回 | 1966年 | テイトオー | 清水久雄 | 12番人気での勝利。二桁人気馬の勝利は、以後下記のロジャーバローズまで現れなかった。 | |
第34回 | 1967年 | アサデンコウ | 増沢末夫 | 東京競馬場に落雷が落ちる中で、しかもレース中に骨折しながらの勝利。また、鞍上・増沢の初重賞制覇でもあった。 | |
第35回 | 1968年 | タニノハローモア | 宮本悳 | 元祖3強と言われる朝日杯馬タケシバオー、皐月賞馬マーチス、のちの菊花賞馬アサカオーを破っての勝利。 | |
第36回 | 1969年 | ダイシンボルガード | 大崎昭一 | 当時24歳の大崎はJRA発足後の最年少ダービージョッキー。また、勝ち馬・ダイシンボルガードの厩務員がレース中に馬場に出て応援を行った珍事もあった。 | |
第37回 | 1970年 | タニノムーティエ | ★(皐) | 安田伊佐夫 | 皐月賞も制し二冠達成。シンザン以来の三冠制覇を狙ったが、喘鳴症を発症し、菊花賞は11着に惨敗しそのレースを最後に引退した |
第38回 | 1971年 | ヒカルイマイ | ★(皐) | 田島良保 | 追い込みで二冠達成。菊花賞は屈腱炎により断念。また、鞍上の田島は当時23歳で、前述の大崎昭一を超えて現在もJRA発足後の最年少ダービージョッキー。 |
第39回 | 1972年 | ロングエース | 武邦彦 | 関西最強世代の一角の勝利。また、この年は馬インフルエンザの影響で7月にダービーが行われた。 | |
第40回 | 1973年 | タケホープ | ★(菊) | 嶋田功 | 当時大人気だったハイセイコーを降す。2024年現在唯一のダービー・菊花賞二冠。 |
第41回 | 1974年 | コーネルランサー | 中島啓之 | 圧倒的一番人気だった二冠馬キタノカチドキを破っての勝利。また、ヒサトモで勝利した中島時一と史上初めて親子でダービージョッキーとなった。 | |
第42回 | 1975年 | カブラヤオー | ★(皐) | 菅原泰夫 | 逃げ切りで二冠を達成した。ダービー後に故障し、菊花賞は出走せず。 |
第43回 | 1976年 | クライムカイザー | 加賀武見 | 皐月賞馬トウショウボーイを下してダービー馬となった。 | |
第44回 | 1977年 | ラッキールーラ | 伊藤正徳 | 馬体重534kgでの勝利は、現在でもダービー史上最高馬体重勝利記録として残っている。 | |
第45回 | 1978年 | サクラショウリ | 小島太 | 馬主のさくらコマース初の八大競走制覇。 | |
第46回 | 1979年 | カツラノハイセイコ | 松本善登 | ハイセイコーの初年度産駒。父の無念を晴らした。また、鞍上の松本は当時45歳で、当時最年長ダービー優勝騎手となるが、この3年後に癌により死去した。 | |
第47回 | 1980年 | オペックホース | 郷原洋行 | 結果的にこれが最後の勝利となる。以降引退まで一度も勝利できず32連敗を記録し史上最弱のダービー馬と評されることとなった。 | |
第48回 | 1981年 | カツトップエース | ★(皐) | 大崎昭一 | 低人気を覆し二冠を達成。大崎昭一2度目のダービー制覇。菊花賞は脚部不安により断念。 |
第49回 | 1982年 | バンブーアトラス | 岩元市三 | ダービーレコードで勝利。後に種牡馬として菊花賞馬バンブービギンを輩出。岩元も後に調教師としてテイエムオペラオーを管理 | |
第50回 | 1983年 | ミスターシービー | ☆ | 吉永正人 | 史上三頭目のクラシック三冠馬、顕彰馬 |
第51回 | 1984年 | シンボリルドルフ | ☆ | 岡部幸雄 | 皇帝と称された、史上四頭目、初の無敗のクラシック三冠馬、顕彰馬 |
第52回 | 1985年 | シリウスシンボリ | 加藤和宏 | 二冠馬ミホシンザンは骨折により出走回避、またシリウスシンボリも長期海外遠征に出ることになる。 | |
第53回 | 1986年 | ダイナガリバー | 増沢末夫 | 騎乗した増沢はダービー2勝目、かつこの時48歳7か月5日であり、前述の松本善登を越え、史上最年長(当時)のダービージョッキーとなった。また、社台ファームが馬主として初のダービー優勝でもあった。 | |
第54回 | 1987年 | メリーナイス | 根本康広 | 6馬身差の勝利。二冠馬サクラスターオーは繋靱帯炎のため出走回避。 | |
第55回 | 1988年 | サクラチヨノオー | 小島太 | 昭和最後の日本ダービー。小島太騎手はダービー2勝目。クラシック登録が無かったためにオグリキャップが日本ダービーに出走ができない、ということについで制度の見直しを求める声が記者や有識者、ファンから上がった。 | |
平成 | |||||
第56回 | 1989年 | ウィナーズサークル | 郷原洋行 | 平成最初の日本ダービー。2024年現在史上唯一の芦毛かつ茨城県産のダービー馬。 | |
第57回 | 1990年 | アイネスフウジン | 中野栄治 | 観衆19万6000人はダービー史上最多。ダービーレコード勝ち。レース後スタンド前を引き揚げてきた人馬に向かって「中野コール」が起きた | |
第58回 | 1991年 | トウカイテイオー | ★(皐) | 安田隆行 | シンボリルドルフとのダービー父子制覇達成(無敗二冠)。菊花賞は骨折により断念。牝馬初のダービー馬ヒサトモの子孫でもある。顕彰馬 |
第59回 | 1992年 | ミホノブルボン | ★(皐) | 小島貞博 | 前年のトウカイテイオーに続く無敗で二冠達成。2着ライスシャワー。 |
第60回 | 1993年 | ウイニングチケット | 柴田政人 | 柴田騎手は19回目(最多)の騎乗で念願のダービー制覇。2着ビワハヤヒデ、3着ナリタタイシンとBNWが上位独占。 | |
第61回 | 1994年 | ナリタブライアン | ☆ | 南井克己 | 史上5頭目のクラシック三冠馬、顕彰馬 |
第62回 | 1995年 | タヤスツヨシ | 小島貞博 | サンデーサイレンス産駒初のダービー制覇。小島騎手はミホノブルボンに続いてダービー2勝目 | |
第63回 | 1996年 | フサイチコンコルド | 藤田伸二 | デビューから僅か3戦目でダービー制覇し、「和製ラムタラ」と呼ばれた。2着ダンスインザダーク。 | |
第64回 | 1997年 | サニーブライアン | ★(皐) | 大西直宏 | 逃げ切りで二冠達成するも、これがラストランになってしまった。 |
第65回 | 1998年 | スペシャルウィーク | 武豊 | 武豊騎手初のダービー制覇。二冠馬セイウンスカイは4着。 | |
第66回 | 1999年 | アドマイヤベガ | 武豊 | 武豊騎手は史上初となるダービー連覇、2着ナリタトップロード、3着テイエムオペラオー。 | |
第67回 | 2000年 | アグネスフライト | 河内洋 | 20世紀最後の日本ダービー。河内騎手は17回目の騎乗で夢のダービー制覇、3連覇を狙う弟弟子・武騎手駆る二冠馬エアシャカールとの叩き合いは、名勝負として知られる | |
馬齢改正・最優秀3歳牡馬変更 | |||||
第68回 | 2001年 | ジャングルポケット | 角田晃一 | 21世紀最初の日本ダービー。外国産馬の出走が可能になった初のダービー。 | |
第69回 | 2002年 | タニノギムレット | 武豊 | このレース後に故障で引退・後にウオッカとの父娘制覇を達成。2着シンボリクリスエス。 | |
第70回 | 2003年 | ネオユニヴァース | ★(皐) | ミルコ・デムーロ | 鞍上のミルコ・デムーロ騎手は当時短期免許で来日しており、これが初のダービー制覇。外国人騎手のダービー初制覇となった。菊花賞はザッツザプレンティの3着。 |
第71回 | 2004年 | キングカメハメハ | ★(N) | 安藤勝己 | NHKマイルカップとの変則二冠・勝ち時計2:23:3は当時のダービーレコード。一方で一頭が予後不良、本馬を含めた多数の出走馬の故障や不調が相次ぎ、後に死のダービーと表されることとなった。顕彰馬 |
第72回 | 2005年 | ディープインパクト | ☆ | 武豊 | 無敗の三冠馬・単勝支持率1.1倍は歴代最高支持率。また馬主の金子真人氏は前年に引き続き2回目の勝利。顕彰馬 |
第73回 | 2006年 | メイショウサムソン | ★(皐) | 石橋守 | 皐月賞も制し二冠馬。菊花賞はソングオブウインドに敗れる。古馬になって天皇賞春秋制覇を果たす。 |
第74回 | 2007年 | ウオッカ | 四位洋文 | タニノギムレットとの父娘制覇・GI7勝。牝馬ダービー制覇は64年ぶり。同年JRA賞特別賞受賞。2着アサクサキングス。顕彰馬 | |
第75回 | 2008年 | ディープスカイ | ★(N) | 四位洋文 | NHKマイルカップとの変則二冠、四位騎手は史上2人目のダービー連覇 |
第76回 | 2009年 | ロジユニヴァース | 横山典弘 | ネオユニヴァースとの父子制覇・12年ぶりの関東馬のダービー制覇、横山騎手も悲願のダービー初制覇 | |
第77回 | 2010年 | エイシンフラッシュ | 内田博幸 | 騎手・馬主・調教師共に初制覇。2012年に天皇賞(秋)を制覇。 | |
第78回 | 2011年 | オルフェーヴル | ☆ | 池添謙一 | 金色の三冠馬。GI6勝・凱旋門賞2年連続2着。顕彰馬 |
第79回 | 2012年 | ディープブリランテ | 岩田康誠 | ディープインパクトとの父子制覇。騎手・調教師共にダービー初制覇。二冠馬ゴールドシップは5着。 | |
第80回 | 2013年 | キズナ | 武豊 | 武騎手はこれでダービー5勝目。ディープインパクトとの父子制覇であり、両馬とも武騎手が騎乗している。 | |
第81回 | 2014年 | ワンアンドオンリー | 横山典弘 | ハーツクライ産駒初のダービー馬。管理する橋口弘次郎調教師はこれまで4度ダービー2着を経験してきたが、初のダービー制覇となった。ちなみに橋口師は2004年のダービー2着馬ハーツクライ管理調教師でもある。また、7年ぶりの行啓となったが、皇太子(当時)徳仁殿下。ワンアンドオンリーとその馬主。そして横山騎手は誕生日が同じ2月23日である。 | |
第82回 | 2015年 | ドゥラメンテ | ★(皐) | ミルコ・デムーロ | 皐月賞との二冠達成。菊花賞は骨折により断念。2004年のダービー馬キングカメハメハの子であり、勝ち時計は父が記録したダービーレコードを0.1秒更新する2:23:2。後の菊花賞馬・GI7勝馬キタサンブラックは14着。 |
第83回 | 2016年 | マカヒキ | 川田将雅 | 鞍上の川田騎手はこれがダービー初制覇。馬主である金子真人氏はこれでダービー3勝目。父ディープインパクトも金子氏が所有していた競走馬である。2着サトノダイヤモンドとは鼻差。皐月賞馬ディーマジェスティは3着。 | |
第84回 | 2017年 | レイデオロ | クリストフ・ルメール | ルメール騎手はこれがダービー初制覇。藤沢和雄厩舎は過去に2度、シンボリクリスエスとゼンノロブロイでダービー2着があったが、これが初のダービー制覇。1週間前のオークスでも同厩舎所属のソウルスターリングが勝っており(鞍上も同じルメール騎手)、2週連続でのGI制覇となった。 | |
第85回 | 2018年 | ワグネリアン | 福永祐一 | 平成最後の日本ダービー。鞍上の福永騎手は19度目の挑戦でダービー制覇(上記の柴田政人と並ぶ最多所要回数)。オーナーの金子真人氏はこれでダービー4勝目。5番人気→4番人気→16番人気での決着となり、三連単の配当が285万円という大波乱のレースになった、平成最後のダービー馬。 | |
令和 | |||||
第86回 | 2019年 | ロジャーバローズ | 浜中俊 | 令和最初の日本ダービー。12番人気ながら優勝したが、2桁人気の馬が勝つのは1966年のテイトオー以来53年ぶり。単勝93.1倍はダービー史上2番目に低い支持率。浜中騎手は日本ダービー初制覇。調教師の角居は2007年のウオッカ以来12年ぶりの勝利。 | |
第87回 | 2020年 | コントレイル | ☆ | 福永祐一 | 新型コロナウイルスの影響で76年ぶりに無観客開催。無敗での二冠達成は父ディープインパクト以来。2歳GⅠを含んだ場合はミホノブルボン以来。そして菊花賞も勝って史上3頭目の無敗の三冠馬となった。顕彰馬 |
第88回 | 2021年 | シャフリヤール | 福永祐一 | コロナ禍の中での有観客開催。福永騎手は史上3人目のダービー連覇。乗り替わりでの優勝は36年ぶり。全兄は皐月賞馬アルアイン。2年前のダービーレコードを0.1秒更新(2分22秒5)。2着皐月賞馬エフフォーリアとは10cm差。 | |
第89回 | 2022年 | ドウデュース | 武豊 | 前年のレコードを0.6秒更新(2:21:9)。オーナーのキーファーズはこれがダービー初制覇。武騎手はこれが9年ぶりダービー6勝目かつ54歳で前述の増沢末夫を超える史上最年長(当時)ダービージョッキーとなる。2着イクイノックス。 | |
第90回 | 2023年 | タスティエーラ | ダミアン・レーン | ゴールデンウエーブ以来69年ぶりのテン乗り勝利。レーン騎手はこれがダービー初制覇。2着皐月賞馬ソールオリエンスとはクビ差。ホープフルS馬ドゥラエレーデはスタート直後に騎手が落馬したため競走中止、青葉賞馬スキルヴィングは大差最下位で入線後馬場に倒れ、急性心不全により死亡。 | |
第91回 | 2024年 | ダノンデサイル | 横山典弘 | 前走皐月賞競走除外からのダービー制覇。鞍上の横山典弘は10年ぶりダービー3勝目、また56歳でのダービー制覇は2年前の武豊を抜いて史上最年長ダービージョッキーとなった。 |
その他
日本競馬界において、「このレースを勝つには速さとスタミナ、そして何よりも運が重要であり、最も幸運な馬が勝つ」とされている。
7,000頭以上の3歳馬の頂点になる事は、騎手、馬主、調教師、厩務員など全ての競走馬の関係者の果てなく難しい目標で、大きな夢の一つとなっている。これはある騎手が「ほかのG1を勝つと『G1ジョッキー』は呼ばれるが、ダービーだけは『ダービージョッキー』は呼ばれるようになる」と話していることからもわかる。
CMのコピーにある、「その戦いに勝てれば、やめてもいいと言うジョッキーがいる」というのは柴田政人元騎手のこと。ダービー前のインタビューで「ダービーを勝てたら、もう騎手をやめてもいいというくらいの気持ちで臨みます」と話したことがもとになっているが、(ちなみにこの時のダービーは3着だった)この発言が誤解されて「柴田(政人)はダービーを勝ったら引退する」と言われるようになってしまった、柴田は発言から5年後の93年にウイニングチケットで勝利した後も騎手を続けていたが、翌年の落馬事故をきっかけで95年に騎手を引退することになり、結果的に93年のダービーが最後のダービー騎乗となった。
また「その戦いに勝ったことで、燃え尽きてしまった馬もいる」のコピーは、出走馬の関係者がダービーに向けて極限レベルまで仕上げることが多いことから、その後成績不振に陥ることが多いことを指している。80年のオペックホースの32連敗は有名だが、タービー後未勝利や勝利こそ挙げているが大レース(G1またはグレード制導入前の八大競走)未勝利に終わったダービー馬他にもいる。またダービー後に馬体に故障が発生して、ダービーが事実上のラストランになるダービー馬も少なくなく、JRA成立後の1955年以降だけで見ても23年までのダービー馬68頭のうち、61年のハクシヨウ、67年のアサデンコウ、74年のコーネルランサー、81年のカツトップエース、90年のアイネスフウジン、97年のサニーブライアン、02年のタニノギムレット、19年のロジャーバローズの8頭がダービーでラストランになってしまっている。
日本の競馬・競走馬をモチーフに製作されたアプリゲーム、『ウマ娘プリティーダービー』でも本レースを参考にした同名の試合が実装。
能力やスキルの経験値だけなく、育成モードのクリアのための勝利やファン獲得のために重要な位置付けである。