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曖昧さ回避

概要

日本の競走馬種牡馬

主な勝ち鞍は朝日杯3歳ステークス(1989年)、東京優駿(1990年)など。

JRA賞最優秀3歳牡馬(1989年)、最優秀4歳牡馬(1990年)を受賞。

第57回東京優駿当日の観衆発表19万6517人(東京競馬場)は、現在でも競馬場観客の世界記録である。

これが競馬だ

騎手は技術の限りを尽くし

絶妙なペース配分と

隙のないコース取りを試みた

馬は豊かなスピードと

ありったけの勝負根性で

後続を完封してみせた

これが、これこそが競馬だ

そして19万を超す観衆は

全身全霊をかけたその戦いに

惜しみない称賛を送るのだった

  名馬の肖像 2021年東京優駿(日本ダービー)より

プロフィール

生年月日1987年4月10日
死没2004年4月5日
英字表記Ines Fujin
性別
毛色黒鹿毛
シーホーク
テスコパール
母父テスコボーイ
馬主小林正明
調教師加藤修甫美浦トレーニングセンター
主戦騎手中野栄治
競走成績8戦4勝

経歴

※表記は旧馬齢表記(現在の表記より+1歳)

誕生

1987年4月10日、浦河郡浦河町北海道)の中村牧場で誕生。家族経営の小さな牧場だった。

父:シーホーク、母:テスコパール

テスコパールは中村牧場の繁殖牝馬ムツミパールテスコボーイを種付けして生まれた牝馬で将来が期待されていたが、重病を患い競走馬となることができず、中村牧場に留まり繁殖牝馬となっていた。

テスコパールの子馬を加藤修甫調教師美浦の自らの厩舎に迎え入れ、ゲインズ社長の小林正明馬主となり、小林の娘により「アイネスフウジン」という名が考案された。

アイネスフウジンは放牧地の草を食い尽くすほどの食欲を見せ、馬体が大きく迫力があったが、性質は温厚で人懐こかった。

加藤厩舎はGⅠ競走勝利のない中堅厩舎だったが、アイネスフウジンの素質馬ぶりに加藤は日本ダービーでの勝利を目論むようになった。

1989年

加藤は夏競馬で閑散とした美浦にやることもなく残っていた(理由は後述)中野栄治騎手に声をかけ、アイネスフウジンの主戦とした。

9月10日デビュー。新馬戦に2回挑むが、いずれも逃げきれずに差されて2着止まり。

しかし中野は、まだレースに不慣れで未完成な馬体の負担を考え、スタートを無事にこなすことだけを考えていたという。

3戦目の未勝利戦では6馬身差をつけて圧勝し、当時の3歳GⅠ・朝日杯3歳ステークス(現:朝日杯フューチュリティステークス)へ挑戦する。

5番人気で迎えた同レースでは、1000m56秒9というハイペースの中、先頭を行く牝馬サクラサエズリの後方につけてマーク、最終直線で抜け出して勝利した。勝ち時計は1分34秒4と、1976年マルゼンスキーに並ぶレースレコードを記録。加藤厩舎に初のGI勝利をもたらした。

この勝利が評価されて同年のJRA賞最優秀3歳牡馬に選出され、アイネスフウジンはマスコミから「零細牧場の星」と呼ばれた。

1990年

1990年、始動戦の2月11日共同通信杯(GⅢ)は大逃げを打ち3馬身差で軽々と勝利。

皐月賞への前哨戦となる3月4日の弥生賞(GⅡ)では、昨年末からの活躍もあって単勝1.9倍の1番人気。しかしその日の中山競馬場は不良馬場。中野は脚部不安のあるフウジンの脚を荒れた馬場で傷めることを案じ、加藤らに許可を取った上でコースの外目を走ることを最優先した結果、4着に敗れた(勝馬メジロライアン)。

迎えたクラシック初戦、4月15日第50回皐月賞。引き続き1番人気に推されたフウジンは1枠2番を引き、内枠から一気にハナを取り大逃げを打つ作戦を立てていた。しかしスタート直後に隣のホワイトストーンが内側にヨレて内ラチと挟まれる形になったために前に出きれず2番手での展開となり、そのまま全体のスローペースに飲まれてしまった。最終直線の末脚勝負は得意とするところではなく、最後はハイセイコーの子ハクタイセイに差し切られてクビ差2着に敗れた(メジロライアンは3着)。

第57回日本ダービー

皐月賞の敗北から騎手を変えろとの声もマスコミから挙がったが、加藤調教師は「皐月賞の負けは中野のせいではない。中野は変えない」と宣言し、日本ダービーも中野の続投となった。

意気に感じた中野は取材に対して「アイネスフウジンを一番人気にして下さい。ダービーを一番人気で勝つのが夢です」と訴えたが、当日、アイネスフウジンは距離的に有利になっているにもかかわらず三番人気となった。

一番人気はGⅠ初制覇を狙う若手有望株横山典弘が鞍上のメジロライアン、二番人気はこれも若き天才武豊騎乗の皐月賞馬ハクタイセイ

明らかに騎手の人気の差であり、中野は「借金してでもアイネスフウジンを一番人気にしてやりたい」と悔しがった。

大一番に向け、中野は様々に工夫をしていた。

まず、当時の勝負服は現在よりも風にバタバタはためくような素材であったので、自前で勝負服に穴を空け、少しでも風が抜けるようにした。

そして本番前日の5月26日、ダービーと同じ東京競馬場芝2400mのレースに騎乗した中野は、コースの芝状態を子細に確認し、本番は内側を避けることを決意した(通常は逃げ馬ならばコース内側を走った方が当然距離ロスがなくて済む)。

また、フウジンはレース中とにかく前に行きたがり掛かる癖のある馬だったため、発走前に極力無駄な体力を消耗させないようゲート前まで歩いていかせることにした。これも前日のレースでテストし、集合8分前に待機所から歩き始めたところゲート前で時間が余ってしまったので、本番では7分前から歩かせることにした。

5月27日、第57回東京優駿日本ダービー)。この日の東京競馬場の観衆発表は19万6517人、当時の府中市の人口20万人に匹敵する観客が訪れ、近隣の駅では入場制限が発生するほどだった。これは現在でも競馬場の1日観衆の世界記録である。

当日のアイネスフウジンは5枠12番。出負けしてしまったが、出走馬が多く発馬機を2台並べて使用していたため12番と13番の間には隙間があり、そのまま加速してハナを切ることができた。レースを得意の高速ペースに持ち込み、前日の確認通りに第3コーナーまでは外寄りに走った。最終直線でも脚は衰えず、2番手につけていたハクタイセイが脱落。外から一気に脚を伸ばしてきたメジロライアンも届かず、1.1/4馬身差でアイネスフウジンが勝利した。

日本ダービーにおける大逃げでの逃げ切り勝ちは1975年カブラヤオー以来、勝ち時計は1988年サクラチヨノオーのタイムを1秒更新する2分25秒3のレースレコードを記録した(後年、この記録は1999年にアドマイヤベガが並び、2004年にキングカメハメハが破った)。

精魂使い果たしたフウジンは向こう正面で脚が止まってしまい、やむを得ず中野はゆっくりとした駈歩(かけあし)で正面スタンドに向かって来たコースを引き返させ、検量に向かう。

それを迎えたのが大観衆の「ナ・カ・ノ!ナ・カ・ノ!」のコールであった。勝ち馬や騎手を称えるコールの発祥は、この第57回日本ダービーにあるといわれる。

引退

フウジンはダービーで負ったダメージを温泉治療などで回復に努めるが、脚部不安が解消されず、引退を決断。JRAや小林オーナーからは引退式開催を打診されるが、人前にいるととにかく走りたがるフウジンの性格から、エキサイトして走ってしまうことによって症状を悪化させ、最悪なケースでは骨折してしまうことを懸念して加藤らが強く反対したこともあり、引退式は結局行われなかった。ダービー制覇により1990年JRA賞最優秀4歳牡馬を受賞した。

引退後は種牡馬となるが、めだった活躍馬が出ずシンジゲートは解散、種牡馬のほとんどいない宮城県の牧場に移された。しかしその後になってから、ファストフレンド(1994年生)がGⅠ帝王賞東京大賞典などダート競走で「砂の女王」と呼ばれる活躍馬となった。

食欲旺盛で、フウジンの放牧地だけ草が早くはげていったというエピソードが残されている。2004年4月、腸捻転のため死去。17歳であった。

特徴

主戦騎手の中野はアイネスフウジンの脚を評して、前脚はガタガタで頼りないが、後脚の蹴り込みが素晴らしい推進力を生む「前輪のパンクした自転車」とたとえている。このため騎手は前のめりとなり、調教助手が調教中に急に馬を止めようとすると転倒するほどだったという。また、脚の不安から切れ味のある末脚を繰り出せるタイプではなく、フウジン自身も前に行きたがる馬であったために、必然的に逃げを打ってハイペースで周囲を消耗させるレース運びが主戦法となった。

余談

中野は当時30代、騎乗フォームの美しい騎手として知られていたが、年々成績を落とし、さらに小倉競馬場滞在中に交通事故を起こし酒気帯び運転を取られるなど散々な状態だった。その彼に「ダービーを取れる馬がいるが、乗ってみないか?」と声を掛けたのが加藤だった。

中野は期待に応えてフウジンをダービー馬に導いたが、その後は再び低迷し、1995年に引退、調教師に転身した。結果的に、騎手としてのGⅠ2勝はどちらもフウジンによるものだった。

その中野の騎乗を認めた小林オーナーは、自動車パーツの会社で財をなし、1988年に馬主資格を取得するとたった2年でダービー馬主となった。フウジンが引退後種牡馬としてなかなか結果が出ずシンジゲートが解散された時も、その後もきちんと世話してくれる牧場探しに心を砕いた。しかしバブル崩壊などの影響も相まって会社の経営に行き詰まり、取引相手の社長と共に1998年に首吊り自殺を遂げてしまう。フウジンの子ファストフレンドがダートGⅠ馬として開花したのはその後の2000年のことだった。

馬と人とをめぐる様々なドラマを呼んだ馬であったといえる。

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