曖昧さ回避
※本馬をモチーフとした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するウマ娘についてはメジロパーマー(ウマ娘)参照。
概要
メジロパーマーは1987年生まれの日本の競走馬。1992年、大逃げを武器に史上5頭目となる宝塚記念・有馬記念の同一年春秋グランプリ制覇を達成した。同年のJRA賞最優秀5歳以上牡馬・最優秀父内国産馬。
現在でこそメジロ牧場で同期のメジロマックイーン・メジロライアンと共に「メジロ87年組(花の62年組)」「メジロ御三家」と呼ばれるが当初は中々結果を残せず、一時は平地から障害競走に転向となったが、山田泰誠騎手とコンビを組んだ旧6歳(現5歳)以降、大逃げを戦法として確立しGⅠ馬に成長。「遅れてきた逃亡者」の異名を取り、稀代の個性派として名を馳せた。
マイペースで逃げるとどこまでもしぶとく、ライバル馬だけでなく多くの競馬ファンをも翻弄した。
プロフィール
生年月日 | 1987年3月21日 |
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死没 | 2012年4月7日 |
英字表記 | Mejiro Palmer |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
父 | メジロイーグル |
母 | メジロファンタジー |
母父 | ゲイメセン |
5代内のインブリード | Aureole4×5/Nearco5×5/Hyperion4・5(父系内) |
生産牧場・馬主 | (有)メジロ牧場 |
調教師 | 大久保正陽(栗東トレーニングセンター) |
主戦騎手 | 山田泰誠 |
競走成績 | 38戦9勝(障害競走2戦1勝) |
獲得賞金 | 5億3674万2200円 |
主要勝鞍 |
馬名はプロゴルファーのアーノルド・パーマーから。競走馬名が決定する前は「輝峰」という幼名で呼ばれていた。
父:メジロイーグル
メジロイーグルは京都新聞杯に勝利し、菊花賞と有馬記念で3着になっているが、大レースを勝つことは出来なかった。しかし小さな体(馬体重400キロを下回ったこともあった)をいっぱいに生かした逃げで「小さな逃亡者」としてファンには人気があった。
種牡馬としての人気はなく残した産駒は約50頭に留まり、メジロパーマー以外の産駒に活躍馬はいない。しかしパーマーの活躍により、30年ぶり(1962年オンスロート・父カネリュー以来)に旧八大競走のひとつである有馬記念の優勝馬を輩出した内国産種牡馬、という栄誉を手にした。
母:メジロファンタジー
メジロファンタジーは、叔父(パーマーの祖母プリンセスリファードの全弟)に、日本で種牡馬として多くの活躍馬を輩出したモガミ(代表産駒:メジロラモーヌ、レガシーワールド、シリウスシンボリなど)がいる血統の繁殖牝馬。現役時は4戦1勝で、母としてもメジロパーマーが唯一の重賞産駒である。
戦歴
1989年(旧3歳)
1989年8月12日、柴田政人を鞍上に函館競馬場の新馬戦でデビューし、2着。9月9日、3戦目の未勝利戦(函館芝1200m)で田面木博公の騎乗で逃げ切り初勝利を挙げると、9月23日に3歳オープン・コスモス賞も先行抜け出しで2連勝。ここまではまずまず順調な出世と言える。
しかし、11月25日の京都3歳ステークス8着敗退後に左後脚の骨折が判明し、休養に入る。3歳時は6戦2勝で終えた。
1990年(旧4歳)
骨折の回復は遅れ、同期のメジロライアンが皐月賞3着・日本ダービー2着とクラシック戦線を戦う中、パーマーは4歳春を棒に振ってしまう。
6月17日、1500万下・エルムステークス(札幌芝1800m、現在のダートGⅢエルムステークスと同名だが別競走)で復帰するも5着。
戦歴としては通算2勝ながら、3歳オープンを勝利していたために1500万円下(現在の3勝クラスに相当)まで昇級しており、まだ実力に見合わない1500万下戦や、オープン特別への格上出走を続けるしかなく、その後も精彩を欠いた。
8月19日、重賞初挑戦として函館記念(GⅢ)に出走。骨折からの復帰以降は中団から差しを狙う戦法が中心だったが、このレースでは最軽量48kgのハンデを活かすために逃げを図る。しかし、結局逃げ潰れて7着。レース後に再び骨折し、長期療養。
1991年(旧5歳)
3月2日、復帰戦の1500万下・鈴鹿ステークスでも12着惨敗。レース戦略に行き詰まりこの頃から障害競走への転向が検討され、練習を始める。
4月28日、初のGⅠ挑戦として、同期同門のメジロマックイーン・メジロライアンと共に天皇賞(春)に出走。だが、マックイーン優勝・ライアン4着の一方で逃げ潰れて13着。この時、パーマーが後に2頭と並び称される存在まで成長するとは、誰も思わなかっただろう。
障害への転向が待ったなしとなったが、ここで夏の降級によって1500万下 → 500万下へと2クラス降格することが判明する。
※当時は春から夏の開催に移る時に、旧5歳=現4歳の馬は収得賞金が半減され、ギリギリで上の階級にいた馬は下のクラスに降格していた。一度は勝ち抜けたクラスで再度走ることになるため、夏競馬ではこうした降級馬が優位であった。なお、この降級制度は2018年限りで廃止されている。
500万下は現在でいう1勝クラス、本来は新馬戦や未勝利戦で初勝利を挙げたのみの馬が走る階級である。さすがにそこなら勝てるだろうと、障害への転向はいったん踏みとどまることに決まった。
すると降級から2戦目、6月22日の500万下十勝岳特別(札幌芝1800m)で大差の逃げ切り勝利。実に1年9ヶ月ぶりの3勝目を挙げた。
札幌記念
降級して格下相手の大差勝ちとはいえ、勝ちは勝ちである。この勢いを逃す手はないと、連闘で翌週6月30日の札幌記念(GⅢ・芝2000m)に出走した。
降級を経ていたパーマー(松永幹夫騎乗)は牡馬では最軽量のハンデ51kgを得ることができた。カミノクレッセやナリタハヤブサといった相手もいる中で逃げ切りを決め、重賞初勝利を挙げた。
障害転向
初重賞で一気に飛躍するかと期待されたパーマーだが、その後は巴賞(OP)6着、函館記念(GⅢ)5着、そして京都大賞典(GⅡ)はメジロマックイーンの圧勝とは対照的に7着最下位。ついに、一度は保留した障害競走への転向が決定する。
11月2日、京都競馬場の障害未勝利戦で転向初戦にして勝利。続く障害400万下戦も2着に入った。
しかし飛越が不得手で、前脚を障害物にぶつけて腫らすわ、体中に擦り傷を負うわという状態で、事故を起こす危険があると判断され、たったの2戦で平地へ戻ることとなり、休養に入った。
1992年(旧6歳)
1992年3月29日、コーラルステークス(OP)で平地に復帰し4着。
続いて4月26日天皇賞(春)。トウカイテイオーとメジロマックイーンの「TM対決」が注目される中逃げを打ったが、3角でマックイーンに先頭を奪われ7着。このレースで初騎乗した当時4年目の若手、山田泰誠騎手がこれ以降主戦に定着する。
新潟大賞典
5月17日、新潟大賞典(GⅢ・芝2200m)。パーマーが逃げ戦法を確立したのは、このレースと言っていい。
4枠4番からのスタートでハナを切ったパーマーは、道中ほとんどペースを変えることなくラップを刻み突き放す。4角からの勝負どころ、後続は必死にパーマーを捕まえようとするが、緩みないペースで引っ張られ続けた結果、どの馬もバテ気味で脚が伸びない。最後は逆にパーマーが突き放し、2着に4馬身差の快勝。重賞2勝目を挙げた。
宝塚記念
手応えを得た陣営は6月14日の宝塚記念登録を表明するが、ファン投票結果は36位で上位10頭の選出に入れず。それでも、新潟大賞典の勝利が評価され推薦枠での出走が決まった。
レースでは同じく逃げ馬のダイタクヘリオス・オースミロッチを制してハナを奪い、新潟大賞典同様の逃げ。緩みなく逃げ続けて最終直線で後続を突き放し、1番人気のカミノクレッセに3馬身差をつけ、9番人気から堂々の逃げ切りでGⅠ初制覇を果たした。
山田騎手にとっても同じくGⅠ初勝利だった。
だが、パーマーの評価は大して上がらなかった。
この宝塚記念、ファン投票1位のメジロマックイーンが故障回避したのをはじめ、ファン投票上位10頭中で出走は4頭のみ・上位20頭まで拡大しても5頭しか出走していなかった。出走13頭中のGⅠ馬は、前年の有馬記念で大金星を挙げるもフロックの評価を受けていたダイユウサクと、マイルGⅠ馬で本来の距離ではないダイタクヘリオスのみ。「豪華なメンバーのGⅡだな」などと競馬ファンに皮肉られる陣容だった。
加えて、新潟大賞典と同様にパーマーの逃げにどの馬も振り回された。最終直線では全頭バテており、パーマーも遅い(上がり3ハロン39秒8)が他の馬はもっと遅いという珍展開のレースとなったのである。「メンツの薄いレースの上に、展開にも恵まれた」おおむねパーマーへの評価はこのようなものだった。この後も、パーマーはグランプリ優勝馬となったにもかかわらずGⅠ馬となった後で一度も1番人気にはならなかった。
……もっとも結果的に、パーマーを十分に警戒しなかったことで、のちのち他の馬・騎手も馬券購入者も、複数回この馬に翻弄されることになるのだが。
6歳秋
秋は京都大賞典から始動。出走馬中唯一のGⅠ馬だったが4歳馬ヒシマサル(1.3倍)に離された2番人気(5.3倍)に留まった。
それでも勝利していれば「やはりグランプリ馬は違った、これからは信用しよう」と評価も変わっていったのかもしれないが、早くも第4コーナーで逃げ潰れ、宝塚で下したオースミロッチに雪辱されて9着大敗。
続く11月1日の天皇賞(秋)ではあっという間に10番人気まで評価急落。このレースでは山田の怪我により藤田伸二が騎乗。宝塚以来2度目の対戦となったダイタクヘリオスとの逃げ争いで前半1000m57秒5という超ハイペースを作り出すも、早くも4角で失速して17着(ダイタクヘリオスは8着)。巻き込まれた本命トウカイテイオーは7着と初めて掲示板を外し、1着レッツゴーターキン・2着ムービースターの馬連配当は1万7220円の万馬券。東京競馬場は騒然となり、波乱を呼んだメジロパーマーとダイタクヘリオスは「馬鹿コンビ」と呼ばれるようになった。
有馬記念
第37回有馬記念の記事も参照。
12月27日の有馬記念では山田が鞍上に戻ったが、事前ファン投票は17位でまたも上位10頭には入れず、宝塚に引き続き推薦枠での出走となった。
ファン投票・馬券人気とも1番人気はトウカイテイオー、2番人気にこの年の菊花賞馬ライスシャワー、3番人気は外国産馬の新星ヒシマサル。さらに前年3着のナイスネイチャ、夏上がりの4歳勢レガシーワールド、マイルCS2連覇の栄誉を手に引退レースに臨むダイタクヘリオスなどが揃った。
メジロマックイーンやミホノブルボンこそ不在も、ファン投票20位以内で14頭が出走と十分な陣容のグランプリといえる。
これらのメンバーの中、パーマーは宝塚勝利のフロック視に加えて秋の惨敗もありブービーの15番人気であった。
「3番手以下までまだ15、6馬身ある!さあ、早く追いかけなければいけない!
後続馬14頭が一気に差を詰めないと、とても前の2頭は捕まりそうにない!」
「やはり前残り!メジロパーマー、そしてレガシー!
ヒシマサルも、トウカイテイオーも、そしてライスシャワーも、どうしたんでしょうか!?
意外な展開であります…!」
2枠3番からスタートしたパーマーは快調にハナを切ったが、その後ぐっとペースを落とし、先頭を保ちつつも1000m通過を62秒6と全体をスローに落とすことに成功。これに耐えられなかったのが、ハイペースでガンガン引っ張る走りが持ち味のダイタクヘリオスである。メインスタンド前で大歓声が上がる頃から掛かってパーマーへ競りかかり、再び2頭での大逃げとなる。宝塚や秋天の教訓から共倒れを恐れて2頭を追う馬はなく、向正面では3番手以降と大差がついた。
秋天のようにがむしゃらに先頭争いをするのではなく、山田はヘリオスに一時抜かれても構わず、パーマーなりのペースを保った。マイペースを守ったことが、最後の逃げ粘りに活きる。
また、どうせ逃げ潰れると思われた2頭は放置され、本命トウカイテイオーのマークに多くの馬がついたことも大きかった。実はこの日、テイオーはゲート内で脚を滑らせ腰を痛めたらしく、出遅れから全く良いところなく生涯唯一の2桁着順となる11着惨敗を喫するのだが、他の騎手達がテイオーには構わずにもう前を追わないとまずい、と気付くのが一手遅れた。
最終直線で脱落していくヘリオスを後目に、パーマーは築いたリードを切り崩しながらも必死に逃げる。内からレガシーワールドが並びかけたかというところでゴールし、ハナ差耐えきったパーマーがGⅠ2勝目。16頭中15番人気からの優勝で、2着レガシーワールドとの馬連配当は3万1550円という波乱のレースとなった。
この勝利でリユウフオーレル(1963)・シンザン(1965)・スピードシンボリ(1970)・イナリワン(1989)に続く、史上5頭目の同一年春秋グランプリ制覇(同一年での宝塚記念・有馬記念の2つのファン投票レースの優勝)を達成。
1992年のJRA賞最優秀5歳以上牡馬・最優秀父内国産馬を受賞した。
1993年(旧7歳)
阪神大賞典
「この辺りがメジロパーマーの恐ろしい所!もう一度出た出た出た!また出たぞ!
メジロパーマーだ! またメジロパーマーだ! またまたメジロだメジロだ!
強いー! 強いー! またまた伸びた!
山田泰誠は本当にこの馬の力を知っているっ!」
3月14日、阪神大賞典から始動。前年の両グランプリホースにも拘わらず、有馬で下したナイスネイチャ(1.9倍)と前年のエリザベス女王杯馬タケノベルベット(3.5倍)に劣る3番人気(4.3倍)だった。
楽々と単騎大逃げを打ったパーマー。一時は2番手に大差をつけるが、中間点を過ぎた辺りから一旦ペースを落とす。最終直線でナイスネイチャに並ばれ、外からタケノベルベットも伸びてくるが、そこからパーマーはもう一度伸びて1/2馬身差の勝利。勝負どころを前に息を入れておき、大リードを必死に詰めていっぱいになった相手を二の脚で突き放したのである。タイムも3分9秒2のレースレコードを記録した。
バテながらも逃げ切った宝塚・有馬とはひと味違う頭脳的な逃げで連勝。杉本清アナの実況にもあるが、パーマーはフロックじゃない、ちゃんと力があるんだと(多少は)認識されたレースと言える。
天皇賞(春)
4月25日、3年連続の天皇賞(春)に出走。話題の中心は完全に「メジロマックイーン、史上初の平地同一GⅠ三連覇なるか」であった。
これを阻むか2番人気ライスシャワー、3番人気はマチカネタンホイザ。…もちろんライスは前年の菊花賞馬だし、タンホイザはダイヤモンドS・目黒記念と長距離重賞を連勝して勢いがあったのだが、両グランプリを制覇し、有馬でライスを下し、春天の前哨戦である阪神大賞典をレコード勝ちしてもパーマーはこの2頭より低い4番人気。前年の春天は7着であることや、1着か着外かという極端なレースを続けていたため、馬券的には信用しきってもらえなかったようだ。
前半を自在に逃げて大きなリードを取り、勝負どころを前にいったん息を入れ、最終直線で二の脚を使う。阪神大賞典同様の思い通りの展開を作ったパーマーは、最終直線でマックイーン・ライスと並び、三つ巴の争いを演じた。
最後はライスシャワーが2馬身半突き抜け、パーマーは2着マックイーンに3/4馬身差の3着。だが負けて強しの内容で、「パーマーやるじゃないか」と多くの競馬ファンが感じたのは、むしろ敗れたこのレースだったかもしれない。
宝塚記念
前年覇者としてメジロマックイーン(1.5倍)と人気を二分する2番人気(2.7倍)に推されたが10着大敗。やはり、この馬は期待されるとよくないらしい。
秋は京都大賞典もいいところなく9着に敗れ、目先を変えてみようと1400m戦のスワンステークスにも出走したが11着。ジャパンカップ11着、有馬記念6着と精彩を欠いたまま1993年を終えた。
1994年(旧8歳)
前年秋にマックイーンも故障引退した中、パーマーは8歳も現役続行。始動戦にはなんとハンデ戦の日経新春杯を使い、当然のように60.5kgという圧倒的な斤量を課された(他の出走馬は重くとも57kg)。しかしムッシュシェクルの2着と逃げ粘り、久々に馬券となって貫禄を示した。
だがその後、天皇賞(春)4年連続出走に向けての調整中、右前脚の脚部不安で休養入り。夏を過ぎても状態は好転せず復帰を断念、1994年9月22日、競走馬登録が抹消され引退となった。
引退後
種牡馬として
引退後、アロースタッドで種牡馬として繋養されたが、血統的な地味さと現役時のムラのある成績から人気が出ず、産駒も非常に少なく活躍できなかった。繁殖に上がった牝馬もほとんどおらず、パーマーの血は現代に残っていない。
だが唯一メジロライデンが京都ハイジャンプ(J-GⅡ)を勝利し、重賞勝ち馬の父となった。これにより、パーマーはライアンもマックイーンも果たせなかったメジロ4代重賞制覇を成し遂げた(メジロサンマン → メジロイーグル → メジロパーマー → メジロライデン)。
晩年
2002年に種牡馬を引退し、その後は洞爺湖畔の故郷メジロ牧場に帰郷。同牧場が2011年に解散した後も、設備を継承したレイクヴィラファームで変わらず余生を送った。
同じく功労馬として故郷に帰ってきたメジロライアンとは馬房も放牧地も隣同士で、柵を挟んで併せ馬を行うなど仲の良い姿がみられた。
2012年4月7日、心臓麻痺のため永眠。享年25歳(新馬齢)。
余談
- 首を高く上げて走るフォームが特徴的だったが、これは父メジロイーグルと同じである。
- 宝塚記念の勝利は馬主すら予想しておらず、メジロマックイーンが出走をとりやめた時点で北海道のメジロ牧場からの応援観戦は取り止めとなり、阪神競馬場にいたのは東京の関連企業・メジロ商事社長のみであった。このため、本来は馬主や関係者が大勢集まって行われる記念撮影は寂しいものとなった。メジロ商事社長はレースが終わったらすぐ帰ろうと、車を競馬場前に待機させていた。
- 障害競走から平地に戻った後でGⅠレースに勝利した史上唯一の競走馬である(平地競走のGⅠ馬が障害競走に挑んだ例は多い)。この異例の経歴も本馬の特徴として語られることとなった。障害レースを使ったことで、身体的かつ精神的に成長したためにその後の活躍につながったという声もある。また「障害帰り」の経歴が軽んじられたために、平地で実績を挙げてもフロックだと侮られてマークがきつくならず、さらなる実績を挙げられたとする見解もある。
- 山田泰誠騎手は有馬記念優勝の副賞として貰った自動車(マツダMS-8)を「パーマー号」と呼んでいた。
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そしていつか
友人たちの躍進に
誇らしさを感じながら
自分へのもどかしさも
また抱いていた
いま先頭で走る僕は
逃げているのではなく
実は彼らの後ろ姿を
追いかけているのだ
少しずつ差を詰めよう
そしていつか抜き去ろう
≪「名馬の肖像」2021年宝塚記念≫