メジロマックイーン
めじろまっくいーん
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主な勝ち鞍は1990年の菊花賞、1991年・92年の天皇賞(春)、1993年の宝塚記念。JRA顕彰馬。また、獲得賞金が初めて10億円を突破した。
長距離では無類の強さを誇り、未だ「史上最強のステイヤー」との呼び声も高い。
その強さは、91世代のトウカイテイオー、92世代のミホノブルボン、ライスシャワーなど、年下世代の強豪馬が現れても現役最強という称号は長きにわたりメジロマックイーンの物であった事からもその強さがうかがえる。
反面、先行抜け出し型の優等生的なレース運びで地味で強すぎてつまらないと言われる事が多々あった。この辺りはシンボリルドルフやテイエムオペラオーと同様である。
なので現役時代はホワイトストーン、メジロライアン、トウカイテイオー、ミホノブルボンらの方が人気があった(第51回菊花賞における杉本清による(1番人気メジロライアンではなく4番人気の)「メジロはメジロでも、メジロマックイーンの方だ」の名言からもうかがえる)。
※馬齢表記には旧表記を使用(現表記では、記述されている年齢より1つ下となる)
誕生~幼駒時代
1987年4月、北海道浦河町の吉田堅牧場(現在の吉田ファーム)で誕生。
吉田堅牧場2代目の吉田隆はメジロボサツを生産した冨岡農場から嫁をもらった事でメジロ牧場と縁が出来、預託馬を請け負った。
祖父メジロアサマは受胎率が極端に低く、数少ない産駒から父と同じく天皇賞を制したのが父のメジロティターンである。メジロ牧場総帥北野豊吉は死の直前「ティターンの子で天皇賞を取れ」との遺言を残し逝去した。
メジロオーロラは吉田隆が惚れ込んだ繁殖牝馬・アサマユリの牝系の孫で、吉田がメジロ牧場に頼み込んで導入され、メジロデュレンなどを産んだ。
母父のリマンドはイギリスで重賞を4勝し、引退後に種牡馬として日本へ輸出され、オペックホース、アグネスレディー、テンモンなど多くの活躍馬を輩出した。
離乳後メジロ牧場に移動。
幼駒時代はやんちゃで、よく弱い馬を追い回して苛めていたが、ある日反撃を受け後蹴りを顔面に喰らって前歯が3本折れ、口から大流血してしまった。
同期には宝塚記念を制したメジロライアン、春秋グランプリ連覇を果たしたメジロパーマーと、後のグランプリホースが2頭も存在している。
当初のメジロでの評価はメジロルイス、メジロライアンに次ぐ三番手という所で、吉田堅牧場で生産されたため外様扱いだった。
3歳になり、メジロマックイーンは栗東の池江泰郎厩舎に入厩した。
大型馬で化骨がなかなか進まず、加えてソエ(骨膜炎)も出て、なかなか仕上がらなかった。デビューは遅れて翌年2月の4歳新馬戦となる。
4歳
1990年2月3日、550kgあった馬体重を492kgまで絞り込み、村本善之騎手を鞍上に阪神競馬場の新馬戦(ダート1700m)でデビュー。2着オギノレジェンドに1 3/4馬身差をつけ、初勝利を飾った。
2月25日、ゆきやなぎ賞(500万下)に出走し、シンボリデーバの2着に敗れた。
5月12日、あやめ賞(500万下)に出走し、ホウユウロイヤルの3着に敗れた。
9月2日、内田浩一騎手に乗り替わって渡島特別(500万下)に出走し、マンジュデンカブトの2着に敗れた。この時点で、陣営は目標を菊花賞(GⅠ)に定める。
9月16日、木古内特別(500万下)に出走し、1着。
9月23日、大沼ステークス(900万下)に出走し、1着。
10月13日、菊花賞の前哨戦として嵐山ステークス(1500万下)に出走したが、内田騎手の直線で進路を失うミスにより、ミスターアダムスの2着に敗れた。賞金不足で菊花賞に出走出来なくなるところだったが、開催前に回避馬が続出し何とか出走する事が出来た。
菊花賞
菊花賞はメジロマックイーンにとって初重賞にして初GⅠレースとなった。
前走での騎乗ミスから鞍上がどうなるか取り沙汰されたが、馬主のメジロ商事会長・北野ミヤの取り計らいによって、引き続き内田騎手が騎乗する事となった。
このレースには同期のメジロライアンも出走しており、単勝オッズ2.2倍の1番人気。
対するマックイーンは単勝オッズ7.8倍の4番人気だった。
メジロマックイーンは先行策をとり、第4コーナーで先頭に立ち、2着のホワイトストーンに1と1/4馬身差をつけて1着入線。メジロアサマから親子3代GⅠ制覇達成となった。
1番人気のメジロライアンは3着となり、実況の杉本清アナは「メジロでもマックイーンの方だ!」と叫んだ。
年末の有馬記念は馬主の「有馬はライアンにとらせてやりたい」との意向によって回避、休養に入った。※
※有馬記念は引退するオグリキャップが勝利し、メジロライアンは2着だった。
5歳
3月10日、阪神大賞典(GⅡ)で始動し、レースレコードで1着。鞍上は武豊騎手に乗り代わり、以降現役引退まで武が騎乗する事となる。
天皇賞(春)
4月28日、第103回天皇賞(春)(GⅠ)に出走。1984年に死去したメジロの前総帥・北野豊吉の悲願であるメジロアサマ、メジロティターンに続く父仔3代にわたる天皇賞制覇という偉業達成がかかっていた。
メジロパーマー、メジロライアン、ホワイトストーンらを抑え、単勝オッズ1.7倍の1番人気となった。
いつも通りの先行策からの直線抜け出しでミスターアダムスに2馬身半の差をつけ1着入線。表彰式の記念撮影では武豊が北野前総帥の遺影を掲げての撮影となった。
表彰式の際は、場内の大歓声に興奮したためか突如立ち上がってしまい、豊吉に代わってメジロ牧場を仕切っていた「おばあちゃん」こと北野ミヤ夫人がその反動で弾き飛ばされてしまうハプニングがあったものの、ミヤ夫人は嬉しさが上回ってか痛がる素振りを見せずにスクッと立ち上がる気丈さを見せるのだった。
宝塚記念
6月9日、グランプリレースの宝塚記念(GⅠ)に出走。単勝オッズ1.4倍の絶大な支持を集めたが、メジロライアン鞍上の横山典弘がマックイーンと同じ先行策を取ってきた。これまで武豊はライアンの追込が届かない位置で抜け出すことで勝利を重ねてきたが、ライアン相手に素の能力での勝負は分が悪く、直線で必死に追ったものの2着に敗れる。メジロライアンが、生涯で唯一マックイーンを下したレースとなった。
その後は天皇賞(秋)(GⅠ)へ向け、秋まで休養に入る。
10月6日、京都大賞典(GⅡ)に出走し、1着。
天皇賞(秋)
10月27日、1番人気で天皇賞(秋)に出走。
好スタートを切ったマックイーンは内側に進路をとってレースを進め、2番手のプレクラスニーに6馬身もの差をつけて圧勝。見事春秋天皇賞連覇の偉業を果たした………はずだった。
しかし、掲示板には審議を知らせる青ランプが点灯し、東京競馬場は騒然となった。
「メジロマックイーン号は、進路妨害により18着に降着」 |
史上初のGⅠレース勝利馬の審議降着となった。スタート後に内側へ進路をとったマックイーンだったが、この時内枠の馬たちもインを突こうとしていた。そのため、煽りを受けたプレジデントシチー等の進路が狭まり、馬群が混乱していた。
2着入線のプレクラスニーが繰り上げ1着(この繰り上げ優勝に伴い、同馬の鞍上を務めていた江田照男騎手は図らずもGⅠ初制覇となった)。
ジャパンカップ
11月24日、国際招待GⅠレースジャパンカップに出走。9頭の外国調教馬を抑え、1番人気に支持された。
レースでは好位を確保し、直線では最内だったが抜け出すことは出来ず、アメリカのゴールデンフェザント、フランスのマジックナイト、オーストラリアのシャフツベリーアヴェニューに次々とかわされ、ゴールデンフェザントの4着に敗れた。
有馬記念
12月22日、暮れのグランプリ有馬記念(GⅠ)に出走。ここでも断トツの1番人気に支持された。
ツインターボが大逃げを打ってハイペースの展開となり、マックイーンは中団を追走。2周目の第3コーナーでツインターボが失速し、マックイーンが先頭に立つ。大外から追い込むナイスネイチャ※を抑えそのまま1着入線かと思われたが、驚異的な末脚を見せた15番人気のダイユウサクに抜き去られ、2着に敗れた(これはびっくりダイユウサク)。
ミヤ夫人は「しょうがないわよ。だって、うちの牧場にレコード勝ちできる馬なんていないんだから」と割り切って優勝したダイユウサクを称えつつも、翌年のマックイーンの更なる飛躍を誓うのだった。
※3着のナイスネイチャはこの後3年連続有馬記念3着の偉業を成し遂げる。
6歳
1月、1991年度のJRA最優秀5歳以上牡馬に選出された。
3月15日、阪神大賞典で始動。2着カミノクレッセに5馬身差をつける圧勝で、昨年に続く連覇を達成した。
天皇賞(春)
4月26日、天皇賞(春)に出走。2冠馬トウカイテイオーとの対決が注目され、マックイーンは2番人気となる。
レースでは第3コーナーの登り坂から外からまくって上がり、カミノクレッセを2馬身半抑えて1着入線。史上初の天皇賞(春)連覇の偉業を成し遂げた。鞍上の武豊は天皇賞(春)4連覇となった。
6月7日、宝塚記念に向けての調教中、左前脚の第1指節種子骨を骨折。症状は重く、メジロ牧場で長期の休養となる。※
※宝塚記念では9番人気のメジロパーマーが勝利。メジロ牧場はマックイーンが回避したので応援団派遣を中止しており、寂しい表彰式となった。
マックイーンが復帰が池江厩舎に帰厩すると、天皇賞(春)3連覇が目標に据えられた。
7歳
4月4日、産経大阪杯(GⅡ)に出走。およそ1年ぶりの復帰のため、格下のナイスネイチャと並ぶ2.4倍のオッズとなったが、最終コーナーで馬なりで先頭に立ちレースレコードで圧勝。
天皇賞(春)
4月25日、3連覇をめざして天皇賞(春)に出走。単勝オッズは1.6倍の1番人気だった。
メジロマックイーンがゲートを嫌って発走を3分間遅延させたものの、メジロパーマーの大逃げによるハイペースの中、3、4番手を追走。マックイーンは2周目の第3コーナーから進出してパーマーを捉えにかかり、ミホノブルボンの3冠を阻んだ前年の菊花賞馬ライスシャワーも追随し、3頭が並んで最終直線に入るが、直線半ばでライスシャワーが抜け出し独走。マックイーンは2馬身半差の2着に敗れた。
レース後のインタビューでは武豊も「勝った馬が強かった」と言うしかなかった。
皇太子殿下御成婚奉祝宝塚記念
6月13日、宝塚記念に出走。有力馬の回避が続出しメンバーが手薄だったこともあり、断トツの1番人気に支持された。逃げたメジロパーマーは第3コーナーで失速し、メジロマックイーンが抜け出して1着入線。メジロ勢はライアン、パーマー、マックイーンと宝塚記念3連覇。
夏は函館競馬場に入厩して休養し、天皇賞(秋)に備える事となる。
10月10日、断トツの1番人気で天皇賞(秋)の前哨戦・京都大賞典に出走し、レースレコードで圧勝。
獲得賞金が10億円を突破した。
10月27日、調教後に歩様の乱れがあり、天皇賞(秋)は回避となった。左前脚の繋靭帯炎と診断され、既にシンジケートが組まれていた事もあり引退が決定する。
11月21日、京都競馬場で引退式が行われた。
引退後
1994年3月9日、JRA顕彰馬に選出された。
総額7億2000万円のシンジケートが組まれ、社台スタリオンステーションで種牡馬となる。当時の主流血統だったノーザンダンサーなどの血を持たないメジロマックイーンは種付けがしやすく生産者にも好まれたが、産駒からGⅠウィナーは現れなかった。
2004年、シンジケートが解散となり、メジロマックイーンは社台スタリオンステーション荻伏に都落ちとなった。
2006年4月3日、3頭と交配した後に心不全を起こし死去(19歳)。生没同日であった。
彼の墓の隣には後に父のメジロティターンの墓が立てられた。後にはメジロパーマーやメジロライアンの墓がある。
2012年、産駒のホクトスルタンが予後不良となり、現在JRAに彼の産駒はいない。
2023年、後継種牡馬のギンザグリングラスが死亡し、メジロアサマから続く日本最古のサイアーラインは途絶えた。
日本における三大父系の1つヘロド系は同じパーソロン系であるトウカイテイオーの子クワイトファインしかおらず、この2頭の子が成績を残さない限り、日本におけるヘロド系も途絶えてしまう状況である。
産駒のオリエンタルアートやポイントフラッグが活躍馬を産んだため、ブルードメアサイアー(母父)として注目を集めた。
オリエンタルアートはサンデーサイレンス系のステイゴールドとの間にドリームジャーニー、オルフェーヴルの全兄弟を産み、ポイントフラッグはゴールドシップを産んだ。
この配合は両馬の名前から「ステマ配合」と呼ばれている。マックイーンを父に持つ牝馬の需要が一時高まったが、ゴールドシップ以降これといった活躍馬は出なかった。
降着事件
- 天皇賞(秋)での降着事件では、武騎手とマックイーンを擁護する意見もある。
- 当時の東京芝2000mのコースは、スタート後すぐに曲線が存在していたため、外枠の馬が先行しようとするとどうしても斜行する事になり、馬群が混乱してしまう危険性を孕んだコースだったのである。(実際、一部の騎手からはコース体系に関する批判も噴出していた。)
- 現在はスタート後に100mの直線区間が設けられたものの、100mはサラブレッドなら数秒で通過してしまう距離であり、依然問題は解決していない。枠によってほぼ結果が決まってしまうようなコースはGⅠに相応しくないとの意見も出ている。
- また、このレースで繰り上げ1着のプレクラスニーもメジロマックイーンにつられて内へ向かっており、直接の原因はマックイーンではなくプレクラスニーの騎乗にあるという声もある。
- 天皇賞(秋)の降着事件の際、武騎手はまだ審議中なのにも関わらずウイニングランを行った。ガッツポーズやゴーグルを観客席に投げ入れるなどのパフォーマンスも行っており、1着を確信していたのがうかがえる。
- ちなみにこの時、先輩騎手の柴田政人は審議の対象がマックイーンである事を察しており、武に「おい、豊! お前、ウイニングランやるなよ」と釘を刺していた。
- なお、武騎手は事情聴取の際に進路妨害を否定していたが、パトロールビデオを見せられると押し黙ってしまったという。
- 降着の判定に納得がいかなかったのはミヤ夫人も同じだった模様で、降着が確定した後もJRAに裁判を仕掛けることも辞さないと発言するほどにまで激怒、ジャパンカップ以降のローテーションも白紙に戻すことも考えていた。しかし、マックイーンやメジロ牧場のファンを思い返して考えを改め、降着を受け入れてジャパンカップの参戦取り止めも撤回した。
気性について
レースや競馬場等の「舞台上」では落ち着いておりしっかりしていたが、牧場や厩舎等の関係者しかいない場所ではかなりのヤンチャで通っていたようだ……とインターネット上では囁かれていたが、実際の関係者の証言からは、厩舎内で見せた周囲に甘える姿と、競馬場で見せた堂々とした姿とのギャップが示されている。
- 「あんなに人懐こくて世話が楽だった馬をほかに知りません」(早川清隆厩務員・『名馬堂々。』より)
- 「甘えん坊とは言っても、一歩外に足を踏み出すと決してオドオドすることなく、いつも堂々としています。第一、歩様が他の馬と全然違いますよ。人間で言えば、肩で風切って歩いているように」(池江泰郎調教師・『武豊インタビュー集〈2〉美技』より)
- 「普段はヘラヘラしているのに、いざ舞台に上がったら信じられない実力を見せる奴。表面には凄い部分を出さないから、『ほんとにこいつが?』と思ってしまうんですよね」(武豊騎手・同上)
ただし、身内の人間に甘え、外の人間には堂々とした姿を見せる一方、馬には厳しい姿も見せた。
- 調教場に向かうとき、厩舎の周りに他の厩舎の馬がいたら、まず、威嚇するんです。更に大きく歩いて、頭も高くして、「退け」と言わんばかりです。それに周りの馬もビックリしていましたし、まるで、高速道路で黒塗りのメルセデス・ベンツが煽って来るような感じでした(笑)。マックイーンも菊花賞を勝った境にそうなっていきましたからね。(池江泰寿調教師・競馬ラボより)
また、前述の通り競走生活の晩年には落ち着きを失い始め、レースや調教も嫌がるようになっていった。武騎手はじめ各関係者からは「年を取るほどに気性が悪くなっていった」という。実際、ライスに惜敗した93年の天皇賞(春)の際もゲートの前でソワソワした様子でゲート入りを嫌がるアクシデントを引き起こし、スタートが遅れてしまったことが知られているが、その他にもレース出走や調教を嫌がったり、人間の言うことを聞かなくなったりすることが増えていたとのこと。ちなみに、引退後に武騎手が顔を見せに行った際は「また走らされる」とでも思ったのか見つけた瞬間速攻で逃げたらしい。(ソース)
一方で現役晩年に悪化していた気性は現役引退後に落ち着きを取り戻した。我の強さはあるものの、フレンドリーな性格であり、初めて担当する種牡馬を持った工藤厩務員を優しく受け入れてくれたという。周りが騒がしくても暴れることはほとんどなく、どっしりと構えていたという。(『黄金の旅路』より)
サンデーサイレンスとの関係
メジロマックイーンが種牡馬として社台スタリオンステーションに繋養されていた時、マックイーンはサンデーサイレンスと仲が良かったという。
サンデーサイレンスは当時、非常に気性が荒いことで有名だった。
マックイーンとサンデーは放牧地が隣り合っていたが、当初サンデーはマックイーンを見るたびに威嚇していた。
これに対してマックイーンは無視を決め込んでいたが、後にサンデーはマックイーンの前では態度を軟化させるようになり、最終的には非常に仲が良くなったという。コレナンテツンデレ?
あまりの仲の良さに、関係者は「恋人」とまで言っていた程である。
事実2頭が柵越しに見つめ合っている写真があるほか、マックイーンの現役時代に調教助手を務め、引退後も何度もマックイーンに会いに行った池江泰寿調教師も「サンデーはマックイーンが大好きだった」と証言している。
サンデーは放牧地に入ってくると、マックイーンが隣にいてもまずは放牧地を走り回るが、マックイーンは釣られて騒いだりはせず、のんびり草を食べていて、しばらくすると『お前、何を騒いでいるんだよ』といった感じでサンデーへ寄っていく。するとサンデーも落ち着いて、あとは二頭でスーッと歩いていったという(出典:黄金の旅路 人智を超えた馬・ステイゴールドの物語)。
また、サンデーはマックイーンより先に放牧されると、『アイツはどうした?』とばかりに暴れてしまうので、二頭の放牧の順番はいつもマックイーンが先と決められていたそうだ(出典:同上),
サンデーとマックイーンが一緒に放牧地を走る際には、マックイーンが左回りの時は、サンデーは右回りといったように必ず一点で顔が合うという周り方をしており、バッタリと顔を合わすと立ち止まり、また走るといったことを繰り返していたという。
…そんな2頭の相性の良さが後々血統でも証明されるのは、実に奇妙と言えるだろう(ステマ配合のほか、メジロマックイーン産駒の賞金1位・2位は母父サンデーサイレンスである。また、2013年の有馬記念の1着・3着・4着はいずれも父父サンデーサイレンス・母父メジロマックイーンである)。
ちなみに、サンデーサイレンスの死後は彼の産駒の1頭であるロサード(牡)に慕われていたとの事。
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