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メジロティターン

めじろてぃたーん

日本の競走馬、種牡馬。父・メジロアサマ、子・メジロマックイーンと父子三代天皇賞制覇を達成。
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概要

Mejiro Titan(1978年3月22日~2009年10月13日)

日本の競走馬種牡馬。父・メジロアサマ、子・メジロマックイーン天皇賞馬であり、父子三代天皇賞制覇を達成。


プロフィール

性別
毛色芦毛
メジロアサマ
シェリル(母父:スノッブ
生産者メジロ牧場
馬主メジロ商事
調教師尾形藤吉美浦)→ 尾形盛次(美浦)
生涯成績27戦7勝

来歴

1978年

3月22日、メジロ牧場洞爺湖町)に誕生。父、メジロアサマは精子が極端に少なく種牡馬として絶望視されていたが、メジロ牧場代表・北野豊吉が懸命の不妊治療を続け、アングロアラブ種のワイオミング廃用予定だったヤマノボリ受胎する事に成功した。北野はフランスから輸入した高価な繁殖牝馬・シェリルにメジロアサマの種を付けることを命令し「正気の沙汰ではない」と言われたが、シェリルは受胎に成功したのだった。北野は「アサマの仔で天皇賞を勝つ」と執念を燃やした。


1980年

尾形藤吉調教師の厩舎に入る。仕上がりが遅くデビューは遅れた。


1981年

1月25日、臼井武騎手を鞍上に東京競馬場の新馬戦(ダート1400m)でデビューし3着に敗れる。

3月7日、中山競馬場の未勝利戦(ダート1200m)に出走し1着。4戦目にして勝ち上がることができた。

8月9日、伊藤正徳騎手を鞍上に、初めての芝レースとなる札幌競馬場の800万下に出走し1着。

8月22日、2勝クラスのHTB賞に出走し1着。

9月27日、セントライト記念GⅡ)に出走し1着。初の重賞勝利となった。レース後に左後脚趾骨の亀裂骨折が判明し、年内を休養に充てた。尾形藤吉が死去し、尾形盛次の管理馬となる。


1982年

4月4日、アルゼンチン共和国杯で半年ぶりに復帰し、ミナガワマンナの6着に敗れる。

5月16日、日経賞(GⅡ)に出走し1着。

6月6日、宝塚記念GⅠ)に出走しモンテプリンスの9着に敗れる。メジロ牧場に戻り休養。

8月29日、函館記念GⅢ)で復帰しカズシゲの6着に敗れる。その後も精彩を欠いた。

10月31日、天皇賞(秋)(GⅠ)に出走し1着。

12月26日、有馬記念(GⅠ)に出走しヒカリデユールの8着に敗れる。年度表彰に父内国産馬を対象とする部門が創設され、初代・最優秀父内国産馬に選出された。


1983年

1月23日、アメリカジョッキークラブカップ(GⅡ)に出走し、アンバーシャダイの8着に敗れる。その後も精彩を欠いた。

12月25日、有馬記念に出走し、リードホーユーの6着に敗れる。引退が発表される。


1984年

1月15日、中山競馬場でアンバーシャダイと合同で引退式が行われた。本桐牧場新ひだか町)で種牡馬として供用された。


1991年

8月18日、メジロマーシャス(1985年生まれ)が函館記念に勝ち、産駒の重賞初勝利。

4月28日、メジロマックイーン(1987年生まれ)が天皇賞(春)に勝ち、産駒のGⅠ初勝利。人気種牡馬となったが、その後目立った産駒は出なかった。


2000年

種牡馬を引退しメジロ牧場で余生を送る。


2009年

10月13日、老衰により死亡(31歳)。


余談

  • 「大尾形」と呼ばれた尾形藤吉はセントライト記念出走15分前に89歳で死去し、メジロティターンが最後に手掛けた重賞馬となった。
  • メジロ牧場創設者の北野豊吉は1984年2月17日、「ティターンの仔で天皇賞を勝て」の遺言を残して死去。

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競走馬 JRA メジロ牧場 81世代

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