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伊藤正徳(1948年10月22日~2020年8月20日)

概要

JRA所属の騎手調教師美浦トレーニングセンター)。

父の伊藤正四郎も騎手・調教師であった。

騎手としての通算成績は2115戦282勝、調教師としての通算成績は6175戦518勝。

馬事公苑長期騎手課程の15期生で、同期にはスター騎手が多く「花の15期生」と呼ばれた。

来歴

1948年

10月22日、兵庫県宝塚市に誕生。父・正四郎は阪神競馬場厩舎を開いていた。戦後の混乱期のため、母と共に北海道静内町(現在は新ひだか町)に移り、そこで育った。

1955年

結核に罹る。見舞いに訪れた父が騎手になるよう誘う。馬には乗ったこともないので断ったが、父は諦めずに勧誘を続ける。

1960年

父の厩舎の伊藤雄二(旧姓・木下)騎手が女婿となる(伊藤正徳から見て義兄)。

1961年

2月25日、父が急死。基礎から教えてくれるならという条件で騎手になる事を承諾していたが、約束は守られなかった。宝塚市に転居し、阪神競馬場の厩舎に住み込んで中学校に通った。

1964年

中学校を卒業後、上京して馬事公苑の中央競馬騎手養成長期課程に入所(第15期生)。馬事公苑は東京オリンピック馬術競技会場となったため、白井分場宇都宮育成牧場などを転々とした。

1966年

騎手養成長期課程を卒業。

1968年

父の師・尾形藤吉の厩舎(東京競馬場)に入る。兄弟子が8人も在籍しており、厳しい徒弟制の元では騎乗数を確保するだけでもひと苦労であった。

3月2日、中山競馬場で騎手デビュー。

8月24日、東京競馬場の障害未勝利戦で初勝利。

1年目は13勝を挙げた。

1971年

自己最多の23勝を挙げた。

1974年

通算100勝を達成。

1975年

尾形藤吉の長男・尾形盛次が美浦トレーニングセンターに厩舎を開いたため、伊藤正徳が移籍して所属騎手となる。

1977年

ラッキールーラ東京優駿に勝利。八大競走初制覇、父・正四郎との親子制覇となる。「花の15期生」では最初のダービージョッキーであった。

1980年

歌手として『おれでよければ』(作詞・作曲:四方章人)を発売し、10万枚を売り上げた。

1981年

9月27日、尾形藤吉が死去。その15分後にメジロティターンセントライト記念を勝ち、尾形藤吉管理馬の最後の重賞勝利を挙げた。

11月15日、通算200勝を達成。

1982年

10月31日、尾形盛次厩舎に移籍したメジロティターンで天皇賞(秋)を勝ち、正徳、盛次、ティターンいずれも父子制覇という珍記録となった。

1987年

2月19日、調教師免許試験に合格。

2月28日の騎乗をもって騎手を引退。管理馬房に空きがなく、盛次の長男・尾形充弘の厩舎で世話になる。

1988年

美浦トレーニングセンターに厩舎を開いた。

1990年

2月28日、尾形盛次が死去。

9月30日、ウィナーズゴールドクイーンステークスを勝ち、調教師として重賞初勝利。

1992年

後藤浩輝が伊藤正徳厩舎所属騎手としてデビュー(後にフリー)。

1995年

31勝を挙げ優秀調教師賞を受賞。

1996年

34勝を挙げ優秀調教師賞を受賞。

1999年

6月13日、エアジハード安田記念を勝ち、調教師としてGⅠ初勝利。

2015年

2月27日、後藤浩輝騎手が自殺。

4月5日、中山競馬場で後藤浩輝を送る「メモリアルセレモニー」が開かれ、「弟子を取るときに『歌のうまい子しか取らない』と言っていたら、本当にうまい子が来た」などと思い出を語った。

2019年

2月28日、定年のために調教師を引退。引退時点でのスタッフと管理馬は、同年限りで開業した元厩舎スタッフの深山雅史調教師に引き継がれた。

2020年

8月20日、病気により死去(71歳)。死去する直前までは体調を崩しがちで入退院を繰り返していたという。

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