概要
競馬界とは関係のない家庭で育ち、将来はフランス料理のコックになることも考えていたが、母親がたまたま競馬学校のドキュメンタリー番組を視聴し、競馬学校進学を勧められる。
後藤騎手が出版した本によると、小学生の時に両親が離婚、父親が自殺未遂、父親が一家心中未遂、母親の方に住居を移るも母親の再婚相手を受け入れられず、母親とも仲が悪くなっていった。
その後、母親は再婚相手と離婚、元夫との関係が修復しまた再婚するなど、壮絶な家庭環境だった。
1992年、競馬学校を卒業して伊藤正徳厩舎(美浦トレーニングセンター)所属となり騎手デビュー。
1994年、シルクグレイッシュで福島記念を制し重賞初制覇。
しかし若き日の横山典弘騎手に似て若さゆえか素行が悪く精神状態にも波があり、師匠の伊藤正徳と確執が起きた。競馬界に関係がなくコネがない後藤には、伊藤があえて厳しく接していた事が伝わっていなかったとも。
1995年、伊藤厩舎を出てフリーになる。
1996年、武者修行という格好で単身アメリカに渡り、半年間マイアミなどの競馬場を転戦。確かな技術を身に着けた。
1997年、帰国し46勝を挙げる。
1998年、63勝を挙げ初の関東リーディング6位。
1999年8月19日、美浦トレーニングセンターの「若駒寮」で吉田豊騎手に木刀で暴行を働き負傷させるという事件を起こす。
この頃の吉田豊騎手はメジロドーベルの大成功で天狗になっていたのもあったが、勝負にならない馬でも最初からガンガン飛ばしてハイペースにし、レースを壊してしまう悪い癖があり、他の騎手からも散々苦情が出ていた。後藤騎手がやらなかったとしてもいずれ他の誰かが同じような事をやっていただろうという証言もある。
とはいえ干されてしまいかねない大事(騎手の素手による暴力事件は他にもやっている人はいるので珍しい事ではないのだが、後藤騎手の場合は道具を使ったのがマズかった)だったが、伊藤師が各地に謝罪に回り後藤騎手を競馬界から追い出さないように働きかけ、なんとか留まる。その事を人づてに聞き人間的・精神的成長を果たし、伊藤師と和解する。
2000年、ユーセイトップランでダイヤモンドステークスを勝ち社台・山元トレーニングセンター火災で焼死した同厩馬エガオヲミセテへの追悼勝利を挙げ、ゴールドティアラでマイルチャンピオンシップ南部杯を勝ちGⅠ初制覇、初の年間100勝も達成し関東リーディング2位。
2001年、シンボリルドルフの記録を超えさせないため、テイエムオペラオーに対する危険な騎乗が目立った時期で、その巻き添えで京都大賞典ではナリタトップロードの渡辺薫彦騎手を落馬させてしまう。
2002年、キングザファクトでダイヤモンドステークスを勝った時はアブトロニックをつけて勝利騎手インタビューに答えるパフォーマンスをし、アドマイヤコジーンで東京新聞杯や阪急杯を勝った時も鉢巻きを付けてインタビューに答えるパフォーマンスをした。アドマイヤコジーンで安田記念を勝ち、デビューから11年目でついに中央GⅠ初制覇を果たす。息子のように可愛がってもらっていた(木刀事件の後も騎乗馬を回してくれていた)、近藤利一オーナーの馬での勝利でもあったため号泣。
2003年、吉田豊騎手との因縁は続いていたのか、天皇賞(秋)で大暴走し13着に惨敗。ローエングリンを下ろされてしまう。
2004年、朝日杯フューチュリティステークスをマイネルレコルトで勝ちGⅠ3勝目。
2005年、七夕賞を1番人気のダイワレイダースで勝ち、同レースの1番人気連敗記録(26連敗)を止めた。
2006年、ジャパンカップダートをアロンダイトで勝ちGⅠ4勝目。
2007年、ローエングリンに再び騎乗出来るようになり、中山記念で復活勝利に導き伊藤師の恩情へ応える事が出来たため号泣。この年に関東リーディング1位となり、リーディングジョッキーとなる。
2010年、安田記念をショウワモダンで勝ちGⅠ5勝
2012年、5月と9月の2度の落馬により頸椎に大怪我を負い、以降は治療に専念。
2013年、マイルチャンピオンシップ南部杯をエスポワールシチーで勝ちGⅠ7勝目。JBCスプリントも制しGⅠ8勝目。
2014年4月、またも落馬で大怪我を負う。11月に復帰後初勝利を挙げた。
2015年2月27日、自宅で自殺。死去の報が流れると中央の騎手だけでなく、地方の騎手からも哀悼の意が示された。
概要覧以外の代表的騎乗馬
リワードニンファ、
ダイワテキサス、
アドマイヤボス、
アクティブバイオ、
ロサード、
プリサイスマシーン、
マイネルモルゲン、
メイショウオスカル、
トップガンジョー、
エアシェイディ、
ローズキングダム、
シゲルスダチとのエピソード
2012年のマーガレットステークスでは7番人気に留まっていたシゲルスダチを見事1着へと導いた。その後GⅠレースのNHKマイルカップに出走するも、マウントシャスタ(鞍上:岩田康誠)の斜行の影響を受けて転倒し、後藤が落馬する。
馬は群れで生活する生き物であり、騎手が落馬しても構わずにカラ馬で他の馬を追いかけていくことが多い。しかしシゲルスダチは落馬し、ターフ上にうずくまる後藤を心配するようにその場から動かず、寄り添う仕草を見せた。これが競馬ファンの間で話題となり、シゲルスダチの知名度を上げた。
その後2013年の奥多摩ステークスで後藤とタッグを組むが9着に終わる。
2014年は後藤の怪我でレースでの騎乗は叶わなかったが、10月に調教騎乗という形で鞍上に復帰。翌月の奥多摩ステークスは武士沢友治が騎乗し、その次のレースに後藤が騎乗する予定となっていた。
11月の奥多摩ステークスは武士沢友治を鞍上に迎えて出走。最後の直線で一番スピードが乗った所で急減速。どうにかゴール板の前を通過できたが、脚を脱臼して予後不良の診断が降った。
このレースで後藤は騎乗していなかったが、解説者として東京競馬場解説席に招かれており、相棒の最期を看取る事となった。