概要
1990~2000年代を代表する日本中央競馬会(JRA)の調教師(美浦トレーニングセンター所属)。
調教師として尾形藤吉の1670勝に次ぐ歴代2位の通算1570勝を挙げ、2022年2月に引退。
戸籍上は「藤澤和雄」だが、JRAの規定で常用漢字の「藤沢」となっていた(本項でも常用漢字で表記する)。
来歴
1951年9月22日、北海道苫小牧市に誕生。実家は競走馬生産牧場を営んでいた。少年時代から兄たちと一緒に馬の世話をする毎日を過ごした。
地元の大学に進学し中学校教師の免許を取得するが、「人に何かを教えるのは難しい。自分に適した仕事ではない」と考え教師の道は断念する。父の知人・田中芳熊の経営する青藍牧場で馬産を手伝い、ホースマンを目指すようになる。
1973年、大学を卒業。田中氏の強い勧めでイギリスへ渡り、ニューマーケット競馬場(サフォーク州)の名門、プリチャード・ギャビン・ゴードン厩舎で厩務員として4年間勤め、競馬に関する哲学、馬への接し方などの競馬理論のイロハを学んだ。
1977年に帰国し、JRAの菊池一雄厩舎の調教助手となる。
1981年、調教に携わったカツトップエースが皐月賞・東京優駿のクラシック二冠を制覇。闘病中の菊池師に代わって厩舎の番頭を務めた。
1983年、菊池師が死去したため厩舎は解散し、野平祐二厩舎に移籍。シンボリルドルフや岡部幸雄騎手に巡り合う。
1987年、調教師免許を取得し厩舎を開業。
1992年、管理馬シンコウラブリイがニュージーランドトロフィー4歳ステークスで初重賞制覇。
1993年、シンコウラブリイがマイルチャンピオンシップで初GⅠ制覇。
1995年、タイキブリザードが日本馬として史上初めて、アメリカ・クラシック競走のブリーダーズカップシリーズへ参戦。
1996年、バブルガムフェローが3歳で天皇賞(秋)を制覇し、3歳馬が菊花賞ではなく天皇賞(秋)へ進むローテーションを本格的に確立。
1998年、タイキシャトルが海外GⅠ制覇(ジャックルマロワ賞)。また、この勝利により、美浦トレーニングセンターで初めて日本国外のGⅠレースを勝利した調教師となった。
2003年、シンボリクリスエスが2年連続年度代表馬となる。
2004年、ゼンノロブロイが天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念とGⅠを3連勝。
2017年、レイデオロで初の東京優駿制覇。同年、調教師として1359勝目を達成し、JRA単独2位となる。
2020年、調教師として通算1500勝を達成。
2022年2月、定年で調教師を引退。6月7日、JRA調教師として様々な初記録を成し遂げ、日本競馬の在り方を変革した功績が認められ、JRA殿堂入りを果たした。
実績・傾向
- GⅠ34勝(JRAのみ)という記録を残し(旧八大競走をGⅠと扱うならば尾形藤吉の39勝に次ぐ記録となる)、とりわけマイルGⅠ(朝日杯3歳ステークス、阪神3歳牝馬ステークス、桜花賞、NHKマイルカップ、安田記念、マイルチャンピオンシップ、ヴィクトリアマイル)に強く、通算勝利GⅠの半分である18勝をマイルGⅠで挙げている。
- 一方で3000mを超える菊花賞や天皇賞(春)には出走自体が少なく、クラシックでも菊花賞を回避して天皇賞(秋)やジャパンカップに向かわせることもあり、一度も勝っていない。
- これは、日本競馬の2,500m以上の長距離レース重視を否定的に見ていたこと、管理馬の多くがこれらのレースに向いている血統ではないと考えていたこと、馬の個性を重視する管理の方向性による。実際、藤沢は「ステイヤーとして成功しても、必ずしも優秀な種牡馬になれるわけではなく、幸せな余生が送れる保証もない」と考え、マイル・中距離レースこそ最も重視すべきであると考えていた。
- 多くの調教師とは異なり管理馬に自分の門下生を乗せることは少ないが、騎手の育成にも力を入れており、北村宏司・杉原誠人を輩出している。