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概要編集

日本の競走馬種牡馬

1981年の皐月賞東京優駿を勝ち二冠馬となった。

名前は、冠名の「カツ」にトップエースと続け、三冠馬を狙っての命名だった。


プロフィール編集


略歴編集

1978年

4月20日、北海道様似町の堀忠志牧場に生まれる。

父イエローゴッド(イギリス)は重賞3勝、2000ギニーでは三冠馬・ニジンスキーの2着に入っている。アイルランドに種牡馬として3年間滞在し、その後日本へ輸入される。主な産駒は皐月賞馬ファンタスト、桜花賞馬ブロケード。母父としてはヤエノムテキなど。

母アニコット(イギリス)は2勝で、1970年に日本へ輸入され11頭の仔を産んだ。カツトップエース以外ではシンザンとの仔カツトップガール(4勝)などがいる。

母父アクロポリス(イギリス)は12戦7勝。キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス2着、ダービーステークス3着であった。凡庸な成績だが全兄に名ステイヤーアリシドンがいる事もあり、種牡馬になった。


アニコットの1978(カツトップエース)は四白流星栃栗毛の大型馬で見栄えがよく、勝本正男に購入された。


1979年

門別町板東牧場馴致育成が行われ、柄崎義信調教師の紹介で美浦の菊池一雄厩舎へ入厩した。


1980年

7月5日、的場均騎手を鞍上に、札幌競馬場の新馬戦(ダート1000m)でデビュー。果敢に逃げたがビッグディザイアーに6馬身離された2着に敗れる。

7月20日、折り返しの新馬戦で1番人気に答え初勝利を挙げた。

8月17日、クローバー賞別定戦)に出走し、マーブルトウショウの6着に敗れる。

9月13日、コスモス賞(400万下)に出走し、ヘーゼルブロンドの3着に敗れる。

10月5日、りんどう賞(400万下)に出走し、2着セントラルターフを2馬身離し2勝目を挙げる。

11月1日、東京競馬場オープン戦に出走し、キンセイパワーの4着に敗れる。

12月7日、増沢末夫騎手に乗り替わり、朝日杯3歳ステークス重賞初挑戦。テンモンの10着に敗れた。笹針治療を受け、休養に入る。


1981年

2月28日、バイオレット賞(800万下)でタクラマカンの4着に敗れる。

スプリングステークスに出走する予定だったが熱発により回避。皐月賞出走には賞金が足りなかったが、賞金上位の関西馬が次々と回避し出走が可能になった。増沢騎手はサクラオーセイに乗るため、鞍上は実績十分ながらも怪我明けで手が空いていた大崎昭一騎手に委ねることになる。


皐月賞

4月12日、曇・良馬場の中山競馬場で第41回皐月賞が開催された。

東京3歳ステークス弥生賞を連勝したトドロキヒホウが1番人気。重賞未勝利のカツトップエースは17頭中16番人気だった。

1番の再内枠を引いたカツトップエースは簡単にハナを奪って逃げた。有力馬は後方待機で、カツトップエースが作り出した1000mを62.1秒というスローペースの中、牽制し合う。直線を向き始めてもカツトップエースの脚は衰えなかったが、11番人気のロングミラーが猛烈な追い上げを見せ、カツトップエースがクビ差しのいで1着となる。

上位2頭が2桁人気という大波乱の皐月賞となった(3着のステイードは2番人気)。

菊池厩舎は開業31年目にして初のクラシック制覇となった。


5月10日、NHK杯に出走し、サンエイソロンの2着に敗れた。


東京優駿

5月31日、晴・良馬場の東京競馬場で第48回東京優駿が開催された。

1番人気はサンエイソロン、2番人気はロングミラーで、カツトップエースは3番人気。同じイエローゴッド産駒のファンタストは東京優駿、ブロケード優駿牝馬で2桁着順と惨敗しており、2400mという距離は長いと思われていた。陣営も自信がなかったが、大崎騎手は「母系はステイヤーよりだし折り合いもつく。直線でばったり止まる心配はない」、と強気の発言をした。

カツトップエースは先行グループの後につけた。大崎騎手は2コーナーで2番手に位置を上げて追い出すタイミングを待つ。4コーナーで前を行くキタノコマヨシの逃げが鈍ると、他馬が外に膨れ出し、大崎騎手はカツトップエースをラチ沿いに導いた。ここまで最短距離を走ったとはいえ府中の直線は長く、バテかけたところにサンエイソロンが馬体を合わせてきて2頭並んでゴール。長い写真判定の結果、20cmの差でカツトップエースが1着。

カブラヤオー以来6年ぶりに春の2冠馬が誕生した。大崎騎手は史上初の2度目のダービー制覇となった。

休養のため北海道に戻る。

8月、シンザン以来の三冠馬を目指し調教中に屈腱炎を発症し、菊花賞を回避。温泉治療や放牧で再起を図るが回復しなかった。


1982年

8月、引退が決定。


1983年

総額1億5000万のシンジケートが組まれ、西幌別東部種馬センターで種牡馬入り。初年度は33頭、翌年は39頭の繁殖牝馬を集めた。


1986年

初年度産駒の成績が振るわず、種付け頭数は激減。


1990年

種牡馬シンジケートは解散。

8月、JRAに功労馬として買い上げられた。13歳とまだ若かったことから日高育成牧場・ハッタリ分場にて種牡馬になる機会を待つ。

ラッキールーラプレストウコウと共に韓国馬事会に種牡馬として寄贈され、元堂牧場高陽市)に繋養された。


1991年

春、済州島にて種付けを行った。秋になって股関節炎が悪化。

10月16日、衰弱死。韓国では5頭の産駒を残し、勝ち上がったのは1頭。


余談編集

  • サンエイソロンも同郷(様似町)であった。ダービーの出走時刻になるとテレビ観戦のため町から人の気配が消えた。そして様似町出身の2頭が、並んでゴール板を駆け抜けた。
  • 彼の死から7年後、同じ道を辿った馬が現れる(サニーブライアン)。

関連タグ編集

競馬 競走馬 82世代

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