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それこそが事実
受け入れがたい結果や
思いがけない敗戦に
言い訳を探していないか
運がなかったとか
これは何かの間違いだとか
間違っていたのは君だ
相手を見くびっていたのだ
認めればいいじゃないか
ただ単純な事実として
アイツが強かったのだと
≪「名馬の肖像」2019年皐月賞≫
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※現役時代の馬齢は2000年までの旧表記で記載。
生涯
父はナリタブライアンと同じくブライアンズタイム。母はサニースイフト。母の父はスイフトスワロー。母の全兄(伯父)は第54回日本ダービー(1987年)で2着に入ったサニースワロー。六代母には下総御料牧場の基礎輸入牝馬である星谷がいる。
騎手は全10戦一貫して、サニースワローと同じ大西直宏が務めた。
1996年(3歳)
しかし、2戦目の百日草特別は5着。初の重賞である府中3歳ステークス(GⅢ。現・GⅡ東京スポーツ杯2歳ステークス)は7着。ひいらぎ賞も5着で、この年は4戦1勝の成績に終わった。
1997年(4歳)
1月6日の若竹賞は2着だったが、中1週で挑んだジュニアカップを勝利して2勝目。
弥生賞(GⅡ)は3着に終わり、中2週の若葉ステークスも1番人気に推されながら4着に敗れた。なお、この若葉ステークスが生涯唯一の1番人気だった。
第57回皐月賞
ここまで8戦2勝、主な勝鞍がジュニアカップということもあり、サニーブライアンは11番人気のノーマークだった。1番人気はメジロライアンの仔で翌年に春の天皇賞を勝ったメジロブライトだった。
大外18番からスタートしたサニーブライアンは逃げ戦法を取ったが、途中掛かったテイエムキングオーに先頭を奪われる。しかし大西はそれをやり過ごして第2コーナーまで2番手に付けると、第3コーナーから再び先頭に立つ。最後には前走の若葉ステークスでサニーブライアンに勝ったシルクライトニングの追撃をクビ差で凌いで1着でゴールイン。
鞍上の大西にとってもこれが初のGⅠ勝利、サラブレッドの重賞も初めての勝利だった。(アラブ系種では’82年にアラブ大賞典(秋)をハイロータリーで制している)
1着のサニーブライアンが11番人気、2着のシルクライトニングが10番人気、そして3着には12番人気のフジヤマビザンが入り(メジロブライトは4着)、当時はまだ3連単や3連複がまだなかったにもかかわらず、単勝は5180円、馬連は51790円という大波乱のレースとなった。
その後、ダービートライアルのプリンシパルステークスへの出走を予定していた。
皐月賞を勝ったにもかかわらずトライアルを使おうとしたのは、太りやすい体質を調教助手が気にしていたためらしい。
しかし競馬評論家の大川慶次郎は「皐月賞を勝つほどの馬なら自分で体を作るはず」と批判し、鞍上の大西もハードローテだとして猛反対していた。
結局、調教中に未勝利馬に蹴られて怪我をしたことでトライアルは出走回避となり、ダービーへ直行した。
第64回日本ダービー
晴れてGⅠ馬となったサニーブライアンだったが、世間からはフロック(まぐれ)だと思われ、日本ダービーでの単勝は6番人気だった(元々は7番人気だったが、シルクライトニングが当日に故障して出走除外となったため繰り上がり。1番人気は再びメジロブライト)。
皐月賞は追込み馬同士が後方で牽制し合って仕掛けが遅れただけで、直線の長い東京競馬場ではメジロブライトのロングスパートからは逃げきれないと考えられたのである。
皐月賞馬がダービーでここまで不人気なのは異例なことだが、これに対して大西はこう言った。
「1番人気はいらない。1着が欲しい」
そして始まったレース。
サニーブライアンは逃げ馬に不利な大外枠だったが、大西としては他の馬に囲まれにくい絶好の枠だった。
スタート直後こそ後に伝説の逃げ馬となるサイレンススズカが先頭に立ったが、サニーブライアンが大外から内に切り込みつつ急加速して先頭を奪う。
大西が事前に「サイレンススズカがいようと関係ない。何が来ようと逃げる!」と宣言して牽制していたため、スズカの上村騎手は逃げ馬同士での潰しあいを避けて控える作戦に出た。(実際にはサイレンスズカが張り合ってきたら控える方針だった)
しかしこれによって、前に行きたがるスズカは鞍上との折り合いを欠いてしまう。
その他の有力馬はほとんどが追い込み脚質。
競り合う馬がいなくなったサニーブライアンはややスローペースに落とし、余力を持ったまま逃げ続ける。
そして最終直線で後続を突き放し、13番手から追い込んで来たシルクジャスティスに1馬身差を付けて1着でゴールイン。
フジテレビで実況した三宅正治は「これはもう!フロックでも何でもない!二冠達成!!」と叫んだ。
その後
ダービー後の勝利者インタビューにて、大西は三冠目となる菊花賞への意気込みを見せ、距離が伸びる菊花賞でも同じように逃げるかと訊かれ「逃げます」と即答した。
しかし、日本ダービーの最中に故障していたことが判明。菊花賞には出られず三冠の夢は潰えた。
年が明けた1998年に復帰し、アメリカジョッキークラブカップ(GⅡ)に出る予定だったが、今度は調教中に屈腱炎を発症してしまう。
結局復帰の目処が立たずそのまま引退し種牡馬となった。
種牡馬としては初年度産駒のカゼニフカレテが愛知杯(GⅢ)を勝ち、2年目のグランリーオが中日新聞杯(GⅢ)を勝ったが、GⅠ勝利馬は出なかった。産駒の中央重賞勝鞍は2つとも中京競馬場の重賞だった。
しかし産駒の勝ち上がり率は高く、特に地方競馬ではかなりの勢いで勝ち馬を出していた。
同じブライアンズタイム産駒のマヤノトップガンと種牡馬入りした時期が被ってしまい、良い繁殖牝馬が回ってこなかったことも、中央で大物を出せなかった理由と思われる。
2007年に種牡馬を引退してからはセン馬となり北海道の浦河町で余生を送っていたが、2011年3月3日に疝痛のため17歳で死去した。
2006年に騎手を引退した大西は、ブログで思いを綴っている。→ありがとう、サニーブライアン
「20世紀の名馬100」は第28位にランクインした。
その他
サニーブライアンはスタートダッシュが苦手であり、これは逃げ馬としては本来致命的だった。
大西が逃げ戦法を取ったのは、切れ味は無いがバテないスタミナがあること、即座にペースを切り替える折り合いの良さなどから、多少強引にでも先頭を取った方が良いと判断したためである。
皐月賞前まで引退が囁かれていた大西はこの二冠達成がきっかけで騎乗依頼が大幅に増え、2004年にはカルストンライトオでスプリンターズステークスを勝っている。
ちなみに大西が得意なのは逃げではなく捲りだったようだが、GIを制覇したこの2頭はどちらも逃げ馬だった。
世間からほとんど相手にされていない状態で二冠を取り、注目が集まったところでそのまま引退する形になってしまったため、結局どの程度強い馬だったのかよく分からない面もある。
しかしサニーブライアンが日本ダービーで下した馬たちはその後大活躍しており、2着のシルクジャスティスは年末の有馬記念を勝利し、3着のメジロブライトは上記の通り翌年(1998年)の天皇賞(春)を勝った。
さらに7着には菊花賞を勝ったマチカネフクキタルがおり、そして9着には覚醒する前のサイレンススズカがいた。
これらの馬達を相手に二冠を獲ったことで、「サニーブライアンはやっぱり強かったのではないか」という声も挙がっている。
強みが折り合いの良さとスタミナであり、ライバルたちに3000mの長距離を主戦場にしているものが少なかったことと相まって、菊花賞を勝つ可能性はそれなり以上に高かったんじゃないかとも言われている。
さすがに二冠達成後の菊花賞ともなればノーマークとはいかなかっただろうし、夏の上がり馬マチカネフクキタルの勢いも凄まじかったが、大西もそれに対抗してあらたな策を練っていたかもしれない。
なおサニーブライアン以降、日本ダービーを逃げで勝った馬は現れていない。
関連タグ
カツトップエース:1981年の二冠馬で、低人気を覆して皐月賞と日本ダービーを勝ち、故障のためダービーを最後に引退したという経歴が酷似していることから、サニーブライアンは「カツトップエースの再来」と呼ばれた。