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ナリタブライアン

なりたぶらいあん

日本中央競馬会(JRA)に所属していた競走馬・種牡馬(1991-1998)。主な勝ち鞍は1993年の朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)、1994年の牡馬クラシック三冠(皐月賞・東京優駿(日本ダービー)・菊花賞)・有馬記念。中央競馬史上5頭目のクラシック三冠馬であり、「シャドーロールの怪物」の異名で知られている。
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94年 菊花賞

ナリタブライアン 七馬身差の衝撃

群れに答えなどない

―2011年JRA菊花賞CMより


※本馬をモチーフとする『ウマ娘 プリティーダービー』のキャラクターについてはナリタブライアン(ウマ娘)の記事を参照。


(※この記事では、馬齢表記に旧表記(現馬齢+1歳)を用います。)

誕生~3歳時代まで編集

1991年5月3日、早田牧場新冠支場で誕生した。(いわゆる94世代。)

父は後にGⅠ4勝のマヤノトップガンやクラシック2冠馬サニーブライアン等を輩出したブライアンズタイム、母はGⅠ馬ビワハヤヒデを産んだパシフィカス、母の父は史上最高の種牡馬とも呼ばれたノーザンダンサーという超良血馬だった。

初期調教の段階から、調教にあたったスタッフに「半兄のビワハヤヒデをはるかに超える素質を感じた」と言わしめるなど、後の活躍を予感させる幼少期を過ごした(ビワハヤヒデは引退レースを除き全てのレースで2着以内に入っており、15連続連対という大記録を残した文句なしの名馬である)。

しかし、水たまりに驚いて騎乗者を振り落すなど、かなり臆病な性格でもあった。

その後、牧場を訪れた山路秀則氏に購入され、彼の持ち馬となった。


1993年5月に栗東・大久保正陽調教師の厩舎に入厩。

冠名の「ナリタ」と、父のブライアンズタイムの名前からとって「ナリタブライアン」と名付けられた。

主戦は南井克巳騎手に決定した。

その後南井がナリタブライアンに初めて乗った際、彼は「体の前半分が落ちて、その後でギューンと前へ動く。この感じ、前に一度だけ体験したことがある。オグリキャップに追い切りで乗った時と同じだ。うわあ、スゴい。」と思ったという。

そして、1993年8月に函館競馬場の新馬戦でデビューする。

ここでは2着だったものの、2度目の新馬戦では9馬身差をつけ圧勝した。


しかし、初重賞となったGⅢ函館3歳ステークスでは、2番人気に推されながら6着と、掲示板にすら載れず。

間に挟んだ条件戦のきんもくせい特別こそ勝利するが、さらに次のGⅡデイリー杯3歳ステークスでも3着に敗れてしまった。

この敗退は、小さい頃から見せていた臆病さが原因であると言われた。

自分の影におびえてしまい、思うように力が発揮できなかったのである。

この欠点の対策として、ナリタブライアンにはシャドーロールが装着された。シャドーロールとは、競走馬の鼻の上あたりにつけられる馬具であり、ナリタブライアンのような臆病な馬がレースに集中できるように下側の視界をふさぐための物である。


こうして弱点を克服したナリタブライアンは、オープン特別の京都3歳ステークスに出走。

1番人気に応え、京都競馬場芝1800mのコースレコードを1.1秒も上回るレコードタイムで勝利した。

そして、初めてのGⅠとしてナリタブライアンが挑んだのが、3歳馬の王者決定戦とも言える朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)であった。

ここで単勝オッズ3.9倍の1番人気に推されたナリタブライアン。

序盤は中団待機で、第3コーナーで仕掛けはじめて先頭に立ち、そのまま2着に3馬身半の差をつけて快勝。

早くもGⅠを制覇し、見事3歳馬の頂点に立ったのであった。

そしてナリタブライアンは、1993年のJRA最優秀3歳牡馬に選出された。

4歳時代編集

年が明けてもナリタブライアンの快進撃は止まらず、GⅢ共同通信杯4歳ステークス、皐月賞トライアルのGⅡスプリングステークスと、前年から数えて重賞3連勝を記録し、この年のクラシック最有力候補として取りざたされるようになっていた。


スプリングステークスでの出走権を手に、皐月賞へと挑んだナリタブライアン。それまでの快進撃もあってか、単勝オッズ1.6倍の一番人気に推された。

そしてレースでも、直線で一気に抜け出し1着でゴール。

クラシック1冠目を勝利で飾り、同時に中山芝2000mのコースレコードも更新した。


その勢いのまま臨んだ日本ダービー

さらに人気は高まり、単勝オッズ1.2倍という驚異的な人気を得た。

本番でも、上がり3ハロン36.2秒とレース中最速のペースでまくり、2着のエアダブリンに5馬身もの差をつけて圧勝。

クラシック2冠を達成し、3冠に向けての期待は日に日に高まっていた。

なお、1988年〜本年まで朝日杯を勝ち抜き3歳王者(現・2歳王者)となり更にダービーまで制覇した競走馬は隔年で出ていた(サクラチヨノオーアイネスフウジンミホノブルボン)が、この年のナリタブライアンを最後に2022年にドウデュースがダービー制覇するまで実に28年間途絶えることとなった(2歳G1で括るならば、2007年のウオッカは阪神JFを、2020年のコントレイルホープフルステークスを制した上でダービー制覇している。ただし、前者は牝馬のダービー制覇、後者は史上初の2歳G1含む無敗三冠&父子共に無敗三冠達成の方が偉業としてクローズアップされるため、あまり認識はされていない)。


夏になると、ナリタブライアンは避暑のために函館・札幌競馬場で調整がなされた。

通常、出走予定のない馬はローカル競馬場の馬房に入る事は出来ないが、ナリタブライアンの場合はそれまでの実績を考慮し、特別に許可が出された。

しかし、ナリタブライアンはここで大きく体調を崩してしまい、一時期は菊花賞の回避も検討された程であるという。


秋になり、ナリタブライアンは当時菊花賞トライアルだったGⅡ京都新聞杯(現在は春に開催)へ参戦。単勝オッズは1.0倍という、とんでもない人気を博した。もちろん1番人気である。

しかし、夏場の体調不良もあり、「ブライアンが負けるならここ」とも言われていた。

その予感は的中してしまい、3番人気のスターマンに差し切られ2着となってしまう。

しかし、本番では体調は万全と判断されたのか、それとも3冠馬誕生への期待か、単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持された。


そして始まった、第55回菊花賞。

ナリタブライアンは体調面での不安など全く感じさせず、兄ビワハヤヒデのタイムをさらに更新する3.04.06のレコードタイムを叩きだし、優勝。

2着のヤシマソブリンに7馬身差をつけての圧勝であった。メイヂヒカリ以来の史上2頭目のGI3階級(短距離・中距離・長距離)制覇達成でもあった(現代競馬では唯一)。

こうしてナリタブライアンは、ついに史上5頭目となるクラシック3冠馬の栄光を手にしたのである。

1994年11月6日 京都競馬場

実況:杉本清(関西テレビ)

このレースでの「弟は大丈夫だ!」は杉本アナの名実況の一つに数えられる。


次走のグランプリレース、GⅠ有馬記念は、古馬との初対決となった。

「最強のステイヤー」との呼び声も高かったライスシャワー、重賞6連勝中の牝馬ヒシアマゾンなど、並み居る強豪たちを抑え一番人気に支持された。

そしてレースがスタート。

このレースでは、愛すべきバカことツインターボがいつも通りの大逃げ。

そして第4コーナーで、ツインターボがいつも通りの逆噴射。

               「ツインターボの先頭はここで終わり!」

・・・ともかく、その好機を逃さず、先頭へ立ったナリタブライアン。

そのまま追いすがる強豪らを抑え、3馬身差をつけて圧勝。

見事、4歳にして4冠を達成したのである。

ちなみにこのレースでは、ナイスネイチャの有馬記念4年連続3着という珍記録がライスシャワーに阻まれていたりもする。流石レコードブレイカー。

5歳時代編集

古馬となったナリタブライアンは、天皇賞(春)へ向けて、GⅡ阪神大賞典へ出走。

1番人気に応え7馬身差で圧勝し、さらなる活躍が期待されていた事だろう。


ところが、ここでナリタブライアンの身に、思いもよらぬ悲劇が訪れた。

天皇賞への調整中に、右股に関節炎を発症してしまったのだ。

この故障により天皇賞(春)への出走は断念され、春シーズンを丸々休養に充てる事となった。


その後ナリタブライアンは、秋のGⅠ天皇賞(秋)へと出走した。

1番人気に推されたものの、病み上がりという事もあって強い調教が行われておらず、体調面や仕上がりを不安視する声もあった。

おまけに、主戦の南井騎手がこのレースの2週間前に落馬し、右足関節脱臼骨折を発症し、騎乗が不可能になるというアクシデントまで発生していた。


そこでライスシャワーの主戦であった的場均騎手を代打に本番を迎えるも、不安は的中。ナリタブライアンはレース終盤に失速し、12着と惨敗してしまったのである。

その後、「ブライアンが元気なうちに(武に)勝たせてあげたい」という大久保調教師たちの意向もあり武豊騎手を鞍上に交替させた上で、ジャパンカップ、有馬記念に出走するも、それぞれ6着と4着に敗れる。


結局5歳シーズンは重賞1勝のみで幕を閉じてしまうが、成績自体は上向いてきており徐々に復活してきてはいた。

引退編集

年明け初戦の1996年阪神大賞典では、前年2戦から続いて武騎手を鞍上に迎えつつ、有馬記念で苦杯を舐めさせられたマヤノトップガンとの戦いをアタマ差制し1着。実に1年ぶりとなる勝ち星を挙げ、歴史に残る名勝負と謳われた。


しかし本番のGⅠ天皇賞(春)では、主戦の南井騎手が復帰するもサクラローレルに2馬身半の差をつけられて敗北してしまった。


次の目標がグランプリレースの宝塚記念に決定したナリタブライアンだったが、この時点で宝塚記念の前に1レース使うという予定が立てられた。

そして決まったナリタブライアンの次走は、なんとこの年からスプリントGⅠへと昇格した高松宮杯(現高松宮記念)。ナリタブライアンにとっては3歳以来のスプリント戦だった。

この出走選択は大きな波紋を呼び、ファンやマスコミからは抗議の声も上がっていた(兄・ビワハヤヒデの主戦である岡部幸雄騎手でさえも「あんなことしたら、せっかくの名馬に味噌を付けちゃうよ」と苦言を呈するなど競馬関係者からの批判も少なくなかった)。


そして、迎えた第26回高松宮杯。阪神大賞典以来、武騎手を鞍上にナリタブライアンは2番人気に推されたものの、結局4着に敗れてしまった。


その1か月後、ナリタブライアンは右前脚に屈腱炎を発症してしまう。

屈腱炎は一度発症すれば再発の可能性が非常に高い故障であり、競走馬にとっては致命的ともいえる怪我である。

大久保調教師は復帰を願っていたものの、結局引退が決定。

そのまま引退し、生まれ故郷である早田牧場傘下の種牡馬繋養牧場・CBスタッドで20億7,000万円の種牡馬シンジケート(1株3,450万円×60株)が組まれることとなった。

その後、京都競馬場と東京競馬場の2か所で引退式が催され、種牡馬デビュー年である1997年には81頭もの種付け依頼が集まり、更には顕彰馬に選出された。


しかし、1998年6月、突如ナリタブライアンに病魔が襲った。

ブライアンが時々唸り声を上げては時々前足を掻いてはお腹周りをしきりに気にする仕草を見せていたところを牧場スタッフが発見した。ブライアンは疝痛を起こしていたのである。獣医が診察したところ、腸閉塞を起こしていることが判明したため、直ちに緊急の開腹手術が行われ、癒着していた部分を取り除いたことで一旦は快方に向かったかのように思われた。

ところが、同年9月26日午後から再び疝痛が起き、今度はお腹を気にする仕草を見せた後に倒れ込んでしまった。ブライアンはすぐさま動物病院に搬送され、直ちに手術が行われるも、既に腸がねじれている上に胃が破裂しており、完全に手遅れであった。その翌日である9月27日昼頃、そのまま安楽死の処置が取られた。8歳という歴代のクラシック3冠馬の中では最も短い生涯であった(2024年時点で存命のオルフェーヴルコントレイルを除く。逆に最長寿は1964年の3冠馬シンザンで1996年に35年の天寿を全うした)。

この年も106頭もの牝馬との交配が試みられるなど種牡馬としての活躍が期待された中での早すぎる死であった。

結局、ブライアンの子供たちはわずか2世代のみとなった。オープン戦や新馬戦などでは好成績を見せていたことからファンからは大きく期待されたものの、結果的にその中から重賞を勝つ馬は現れず、後継種牡馬は1頭も遺すことが出来なかった。これは2024年現在コントレイル産駒の種牡馬入りが未定であることを除けば歴代クラシック3冠馬としては唯一となる。

しかし、数少ない娘たちの数頭は繁殖牝馬となり、ブライアンを母父に持つ馬も150頭ほど中央と地方で出走するようになった。このうち中央重賞馬としてオールアズワン(父ネオユニヴァース)とマイネルハニー(父マツリダゴッホ)の2頭が出たものの、いずれも3歳以降は優れた戦績を残せず繁殖入りすることはできなかった。そして、母父ブライアンの牝馬のうち、数頭も繁殖入りこそしているものの、中央を大きく沸かせるほどの大物は2024年現時点では出せていない。


勝利したレースでは、ほとんどの場合3馬身以上の差をつけての圧勝。

レコードタイムも3度更新しており、歴史的な名馬である事に疑いの余地を挟む事は出来ない。

しかし古馬となってからは故障の後遺症もあり年に重賞1勝ずつの計2勝のみと、完全復活はならないまま引退となった。


3冠という栄光から一転、後遺症に苦しみ精彩を欠いた古馬時代と、あまりにも早すぎる死。

ナリタブライアンは、史上最も悲劇的な3冠馬となってしまったのかもしれない。



その後編集

JRAが世紀末である2000年に行った人気投票「20世紀の名馬大投票」にて1位に輝いた。


ブライアンの死後、早田牧場はブライアンに対する哀悼を示すため、晩年のブライアンが過ごしていた馬房を他の馬に使わせることをしなかったという。

ブライアンの亡骸はCBスタッド敷地内に埋葬され、早田牧場の手で立派な墓石が建てられた。墓石には、山路オーナーや大久保調教師、武騎手などの関係者による追悼コメントが刻まれている。


また、ブライアンの三回忌である2000年には、ブライアンの墓のそばに「ナリタブライアン記念館」が設立。ブライアンが勝利した際の優勝レイ・トロフィーなどの記念品のみならず、在りし日のブライアンを収めた記念写真や秘蔵写真、ブライアンが身につけていたゼッケン蹄鉄などの馬具類、そしてトレードマークであったシャドーロールの実物が展示され、館内ではブライアンが出走した当時の実況映像が上演されていた。早田牧場倒産後も2008年の閉館までは別の企業の支援を受けつつ営業が続けられた。

現在、ブライアン記念館の建物は別法人である優駿スタリオンステーションに買収され、オグリキャップなどに関するものに展示物を入れ替えた上で「優駿記念館」として営業が続いている。

ブライアン記念館閉館後もブライアンの墓はそのまま同じ場所に残され、今でも彼の墓にはブライアンのファンを中心に多くの人々の訪問が絶えず、花やニンジンが供えられている。

なお、ブライアン記念館で展示されていた品物の一部は、新冠町道の駅で移設展示されている。


競走成績編集

3歳時編集

3歳新馬 2着

3歳新馬 1着

函館3歳ステークス(GⅢ) 6着

きんもくせい特別 1着

デイリー杯3歳ステークス(GⅡ) 3着

京都3歳ステークス 1着

朝日杯3歳ステークス(GⅠ) 1着

4歳時編集

共同通信杯4歳ステークス(GⅢ) 1着

スプリングステークス(GⅡ) 1着

皐月賞(GⅠ) 1着

東京優駿(日本ダービー)(GⅠ) 1着

京都新聞杯(GⅡ) 2着

菊花賞(GⅠ) 1着

有馬記念(GⅠ) 1着

5歳時編集

阪神大賞典(GⅡ) 1着

天皇賞(秋)(GⅠ) 12着

ジャパンカップ(GⅠ) 6着

有馬記念(GⅠ) 4着

6歳時編集

阪神大賞典(GⅡ) 1着

天皇賞(春)(GⅠ) 2着

高松宮杯(GⅠ) 4着

ナリタブラリアン編集

ナリタブラリアンは、かつてテレビ朝日系列で放送されていた番組「さんまのナンでもダービー」で活躍した芦毛ポニー。本名はオパール。

元ネタはもちろん、この項目で記述してきたナリタブライアン。

主戦騎手は森安輝正。ナリタブライアンにあやかり、赤いシャドーロールをつけている。

当初はかわいい普通のポニーだったはずだが、森安騎手の調教によって、気が付いたら立派な競走馬に成長し、ゲストの井崎修五郎氏に「ズルいよこれ~、1頭だけ全然違うじゃん」と言わしめた。

その強さはとんでもないものであり、第一回明石家優駿さんまダービーでは海外の強豪(?)サンデーサイザンスらを退け圧勝。

まさにポニー競馬界の「シャドーロールの怪物」となった。

というか、走りがどう見てもポニーというよりサラブレッドのそれである。

多分、史上最強のポニーであろう。後に去勢され、セン馬となっているらしい。

2005年頃この世を去った。


ヒーロー列伝No.40編集

皐月賞31/2馬身、

ダービー5馬身、

菊花賞7馬身。


1分59秒0、当時のコースレコードを塗り替えた皐月賞。

4コーナー、大外を回り先頭に立ち余裕で突き抜けたダービー。

史上5頭目の三冠馬誕生は、ただ唖然とするばかりの菊花賞。

漆黒の馬体に純白のシャドーロール。未踏の王道で風を追い続ける。


名馬の肖像2018年朝日杯編集

影を越えて行け


自分の影にすら

ひるむ心の弱さは

もう過去の話。


偉大な兄

影を追う挑戦者にも

とどまってはいない。


無頼なる闘士よ

真の姿を見せろ!

あまた敵どもの

影を踏み越えて行け!


関連タグ編集

競馬 競走馬 顕彰馬 三冠馬

南井克巳 武豊 的場均

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