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概要編集

ビワハヤヒデは日本の元競走馬、元種牡馬で、1990年代前半にJRAで活躍した。

主な勝鞍は菊花賞1993年)、天皇賞(春)1994年)、宝塚記念(1994年)など。

年度代表馬および最優秀4歳牡馬(1993年)、最優秀5歳以上牡馬(1994年)。


父はシャルードアメリカ産)。母はパシフィカスイギリス産)。母の父はノーザンダンサーカナダ産)という血統の、イギリスからの持込馬(母馬が仔馬を宿した状態で輸入され、日本国内で産まれた馬)。

1歳下の半弟(父・ブライアンズタイム)に三冠馬ナリタブライアンがいる。


※現役時代の馬齢およびレース名は旧表記で記述。

※当馬をモデルとするウマ娘については、「ビワハヤヒデ(ウマ娘)」の記事を参照。


ヒーロー列伝No.38編集

鮮やかに、ひたむきに。


その走りが、父を、母を、この世に知らしめた。

との対決は夢に終わった。

レースではつねに堂々たる主役を演じてきた。

ビワハヤヒデ、強さとひたむきさを

あわせもつ、芦毛のヒーロー。


JRA CM「THE LEGEND」編集

'94年、宝塚記念。

ファン投票で集まった14万8768の期待。

その馬にとっては重圧ではなく、自信だった。

愛されるから強いのか、あるいはその逆か。

5馬身差の余裕。ビワハヤヒデ。

真の強さはスリルすら拒む。

灼熱のグランプリへ、宝塚記念。

(宝塚記念編より)


名馬の肖像編集

大輪として咲け


うつむくな

肩を落とすな

立ち止まるな

花はいつか咲く


だからそれまでは

ゆるまず進め

全力で挑め

おごらず戦え


そうすれば君は

いまに大輪となる


≪2018年菊花賞≫


経歴編集

1990年、ビワハヤヒデを胎内に宿して輸入されたパシフィカスは検疫許可が遅れ、出産予定日が迫っていたため福島県伊達郡桑折町早田牧場本場に運ばれ、3月10日、ビワハヤヒデを出産。

このため日本の競走馬としては珍しい福島県産馬となった。

その後すぐ早田牧場新冠支場に移動した。


生後1ヶ月で中島勇が購買し馬主となった。

2歳の秋に牧場の柵にぶつかり、折れた木が足に刺さる事故に遭う。幸いにも競走能力には影響は出なかったが、一歩間違えば予後不良になりかねなかった。


3歳春に栗東トレーニングセンター浜田光正厩舎に入厩した。

馬名は、冠名の「ビワ」と「速さに秀でる」から「ビワハヤヒデ」と付けられた。(他に「早田牧場の秀才」にも掛けている)


1992年/3歳編集

1992年9月の阪神競馬場で行われた新馬戦でデビュー。鞍上は岸滋彦

新馬戦を10馬身以上の大差で圧勝し、続くもみじステークスもレコードを叩き出す圧勝。

3戦目は初めての重賞となるデイリー杯3歳ステークス(GⅡ)だったが、ここも危なげなく勝利しデビューから3連勝。

翌年のクラシックの最有力と目されるようになる。


朝日杯3歳ステークス ~若駒王者への道~編集

3歳王者を決める朝日杯3歳ステークスでは、圧倒的な1番人気に推された。

しかし最後の直線で外国産馬エルウェーウィンに敗れ、初黒星を喫した。


1993年/4歳編集

共同通信杯 ~岸から岡部へ~編集

4歳シーズンの初戦は共同通信杯(GⅢ)。前走の朝日杯で敗れたにもかかわらず圧倒的な1番人気に推されるも、マイネルリマークを捕らえることが出来ず2着。

このレースの後、中島オーナーからのクレームを受けて岸は鞍上から降りることとなり、紆余曲折を経て、名手・岡部幸雄に代わることとなった。

次走の皐月賞トライアル・若葉ステークスは単勝1.3倍の圧倒的人気に応える勝利。

当初岡部はハヤヒデへの騎乗にはあまり前向きではなく、ハヤヒデに乗るのは1回限りと考えていたが、当時岡部がコンビを組んでいた馬(マチカネタンホイザトウカイテイオーなど)が怪我や病気で相次いで休養状態に入っていたことあり、結局引退までコンビを組むこととなった。


皐月賞 ~三強揃う~編集

皐月賞(GⅠ)では弥生賞(GⅡ)を勝利したウイニングチケット(柴田政人騎乗)に次ぐ2番人気だった。

レースは最後の直線で伸びが苦しいウイニングチケットを尻目に逃げ切りを図ったが、外から大きく伸びてきたナリタタイシン(武豊騎乗)にゴール直前で差され、2着に敗れた。


このナリタタイシンの勝利により、3頭は「新・平成三強」または3頭の頭文字を取り「BNW」と呼ばれるようになる。


日本ダービー ~熱狂の2分25秒~編集

第60回東京優駿(日本ダービー)(GⅠ)では、1番人気にウイニングチケット(3.6倍)、2番人気にビワハヤヒデ(3.9倍)、3番人気にナリタタイシン(4.0倍)と完全にBNWが三強というムードが漂っていた。

最後の直線はBNWの勝負となったが、ウイニングチケットに敗れてまたしても2着に終わる。ウイニングチケット鞍上の柴田政人は通算19回目の挑戦でダービー初勝利を果たした。


惜敗続きの春シーズンを終え、夏は栗東TCで鍛え直すこととなった。

浜田調教師は前年の二冠馬ミホノブルボンに倣い、週6日2回ずつだった坂路調教を水・金・日曜日に3回に増やすことにした。ミホノブルボン(毎日4回)よりは楽なものだったが、ビワハヤヒデは嫌がっていた。

夏が終わる頃にはビワハヤヒデは見違えるほど逞しくなっていた。また、岡部騎手の提案で、今まで付けていたメンコを外すことにした。


秋シーズン初戦となった神戸新聞杯(GⅡ)ではネーハイシーザーを抑えて勝利し、最後の三冠レース・菊花賞に駒を進めた。


菊花賞 ~菊の舞台で無念を晴らす~編集


ナリタタイシンが肺出血の影響で本調子でない中、ウイニングチケットとビワハヤヒデの一騎打ちの様相となった。

最終コーナー前で先頭に立つと、後続を5馬身突き放す圧勝で、念願のGⅠタイトルを手に入れた。

2着は後にステイヤーズステークス(GⅡ)を制するステージチャンプで、ウイニングチケットは3着。

ナリタタイシンは最下位かと思われたが、ネーハイシーザーがレース中に心房細動(心臓発作の一種)を起こしたことで、最下位は免れた。


有馬記念 ~帝王との対決~編集

年末の第38回有馬記念は14頭中8頭がGⅠ馬という錚々たる顔触れが揃った。

4歳組はビワハヤヒデとウイニングチケットの他に、桜花賞優駿牝馬(オークス)の二冠を獲った牝馬ベガ、朝日杯でビワハヤヒデに勝ったエルウェーウィンがいた。

迎え撃つ古馬達も、前年優勝馬のメジロパーマー、ミホノブルボンとメジロマックイーンの快挙を阻んだライスシャワー、当年のジャパンカップを制したせん馬レガシーワールド、そして「皇帝」シンボリルドルフの息子で前年の有馬記念以来、実に1年ぶりの出走となるトウカイテイオーがいた。


初めて古馬と戦うビワハヤヒデは、これまでのレースがすべて2着以内という安定感を買われて1番人気に推された。

最後の直線で先頭に立ったが、残り200mのところでトウカイテイオーに追い抜かれ2着。「奇跡の復活」の引き立て役となってしまった。

なお、トウカイテイオーは前年には岡部が騎乗しており、岡部は元相棒に敗れる形となったが「テイオーなら仕方ない。勝ったのがテイオーで良かった。」というコメントを残した。


全成績が2着以内という安定感が評価され、安田記念を連覇し天皇賞(秋)を制したヤマニンゼファーを抑えて、ビワハヤヒデは年度代表馬に選ばれた。


1994年/5歳編集

古馬となったビワハヤヒデは、ナリタタイシン・ウイニングチケットを圧倒していく。

さらに弟ナリタブライアンも前年に朝日杯を優勝し、三冠への道を邁進する。


初戦の京都記念(GⅡ)は7馬身差をつける圧勝劇を見せた。


天皇賞(春) ~兄貴も強い!~編集

この年の天皇賞(春)は本来の京都競馬場が改修工事のため、阪神競馬場で代替開催された。

レースは最後の直線で一気に先頭に立つと、追い縋るナリタタイシンを振り切りGⅠ2勝目を飾る。


実況を担当した杉本清は、「弟ばかりを注目するマスコミに対して、兄貴だって強いんだぞという気持ちが出た。」と語っている。


宝塚記念 ~5馬身差の余裕~編集

春のグランプリ・宝塚記念でも圧倒的な1番人気に推されたビワハヤヒデは、アイルトンシンボリに5馬身差(当時レース史上1位タイの着差)を付ける圧勝でGⅠ3勝目を飾った。

当年の日本ダービーを制したナリタブライアンとの兄弟対決を見たいという風潮は、日増しに強くなっていった。


秋初戦となるオールカマー(GⅢ、翌年よりGⅡ)はウイニングチケットと半年ぶりに対決となったがこれにも勝利し、デビューからの連対記録を15に伸ばした。


天皇賞(秋) ~府中に潜む魔物~編集

秋の天皇賞も1番人気で迎えたビワハヤヒデ。しかし岡部は動きにキレがないのを感じた。

その懸念通りレース中に屈腱炎を発症し、一度も先頭に立つことなくネーハイシーザーの5着に敗れ、デビュー以来の連対記録はついに15で止まった。

昨年の菊花賞で最下位のネーハイシーザーに、引導を渡される形となった。


引退編集

天皇賞から3日後の11月2日に、同じく天皇賞で屈腱炎を発症し8着に終わったウイニングチケットと共に引退することが発表された。

これにより、ナリタブライアンとの兄弟対決は実現しないままに終わる。


引退後編集

ビワハヤヒデが引退して4日後の菊花賞でナリタブライアンが勝利し、シンボリルドルフ以来10年ぶり、平成になって初の三冠馬となった。

この菊花賞で杉本清は「弟は大丈夫だ!」と何度も連呼した。


春の活躍が評価され、最優秀5歳以上牡馬に選ばれた。


引退後は1995年より種牡馬となるも、目立った産駒はなかった。

1997年に半弟のナリタブライアンも種牡馬入りしたが、翌年病死したため目立った産駒はなかった。


2005年に種牡馬を引退。

功労馬として日西牧場で余生を送っていたが、2020年7月21日、老衰のため30歳で死去した。

近藤唯の追悼ツイート

なお、同年2月には半弟のビワタケヒデ、4月にはライバルのナリタタイシンも死去。


余談編集

  • 頭が大きく、首が太く短く、ずんぐりとした体形で、それをよくネタにされた。
  • 芦毛馬だが、顔が胴体より先に白くなっていた。
  • 見た目のチャーミングさから女性ファンが多く、「ウイニング競馬」(テレビ東京)のMCを務めた井森美幸も最も好きな馬として挙げている。
  • 母のパシフィカスは早田光一郎が惚れ込んで繁殖牝馬として購入したが、既に胎内にいたビワハヤヒデには実績のないシャルードが父だったので全く期待していなかった。ビワハヤヒデの活躍で1993年にシャルードも種牡馬として輸入されたが、活躍馬を出すことなく1995年1月に病死した。
  • 1994年当時、天皇賞(秋)は1番人気が勝てないというジンクスがあった。
結果
1985シンボリルドルフギャロップダイナの強襲に屈し2着。
1986ミホシンザンサクラユタカオーの3着に敗れた。
19871番人気のニッポーテイオーが優勝。
1988オグリキャップタマモクロスの2着に敗れた。
1989オグリキャップはスーパークリークとの競い合いの末、クビ差で2着。
1990オグリキャップは直線で伸びを欠き、ヤエノムテキの6着に敗れた。
1991メジロマックイーンが1位入線するもスタート直後の斜行が進路妨害とされ最下位に降着。繰り上がりでプレクラスニーが優勝した。
1992トウカイテイオーメジロパーマーダイタクヘリオスの競り合いによるハイペースにのまれて最終直線で失速。レッツゴーターキンの7着に終わった。
1993ライスシャワーはヤマニンゼファーの6着に敗れた。
1995ナリタブライアンはサクラチトセオーの12着に敗れた。
1996サクラローレルバブルガムフェローの3着に敗れた。
1997バブルガムフェローはエアグルーヴの2着に敗れた。
1998サイレンススズカは競走中の骨折により予後不良となった。優勝はオフサイドトラップ
1999セイウンスカイスペシャルウィークの5着に敗れた。
20001番人気のテイエムオペラオーが優勝。
2001テイエムオペラオーはアグネスデジタルの2着に敗れた。
2002テイエムオーシャンシンボリクリスエスの13着に敗れた。

主なライバル馬編集

ナリタタイシン ウイニングチケット ネーハイシーザー


関連イラスト編集

ビワハヤヒデ


関連タグ編集

中央競馬 競走馬 サラブレッド

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