※現役時代の馬齢は2000年までの旧表記で記載する。
生涯
父ノーザンテースト、母アスコットラップ、母父エルセンタウロ。
3歳~5歳(1982年~1984年)
1982年7月24日、新潟競馬場での新馬戦でデビュー戦勝利を挙げるが、気性の激しい性格だったために騎手と折り合いを欠くレースが多く、成績は伸び悩んだ。
1983年のクラシックはミスターシービーが三冠を達成したが、ギャロップダイナはまだデビュー戦の1勝のみで、クラシックの舞台に立つことすら出来なかった。
古馬になった1984年2月にダート戦で2勝目を挙げ、以後はダートを中心に走り、5月から7月の3か月で3連勝を挙げ、条件馬へと上がる。
このシーズンは13戦走って5勝の成績を残した。
6歳(1985年)
この年から徐々に重賞にも顔を出すようになる。
初の重賞となるGⅢフェブラリーハンデキャップ(現GⅠフェブラリーステークス)は2着。
GⅡ京王杯スプリングカップは3着。初のGⅠ挑戦となった安田記念は5着。この2戦を勝ったのは、同期の「マイルの皇帝」ニホンピロウイナーだった。
札幌日経賞
安田記念後は札幌日経賞(ダート1800m、当時の札幌競馬場にはまだ芝コースはなかった)に参戦したものの、スタートでつんのめってしまい東信二騎手が落馬し競走中止。
しかし、向正面から徐々に進出し4角では先頭集団に取りつきハナを切っていたリキサンパワーを競り落として(実際には競走中止だが)先頭でゴールしその日の夜のニュースでも取り上げられた。
競走中止とはいえ、このレースがきっかけでギャロップダイナの中で「何か」が目覚めたのは事実であり道新杯をレコードで制し、後の2走を連続して2着し運命の第92回天皇賞を迎える。
第92回天皇賞
迎えた第92回天皇賞。
前年の三冠馬でこの年の春の天皇賞も勝利し、「皇帝」の名をほしいままにしていたシンボリルドルフが 、史上初の天皇賞春秋連覇を目指して参戦。
単勝オッズは1.4倍の圧倒的1番人気で、「ルドルフの春秋連覇は堅い」という雰囲気だった。
一方のギャロップダイナは13番人気とノーマークで、騎手はこれが初めてコンビを組む根本康広だった。
レースはシンボリルドルフが躓いて出遅れる。
最後の直線でルドルフが一時先頭に立つが、ウィンザーノットとニホンピロウイナーが襲い掛かる。
ルドルフはこれら2頭を退け再び先頭に立つも、その更に外からギャロップダイナが強襲し、ルドルフを交わして1着でゴールイン。
「あっと驚くギャロップダイナ!根本康広!」という、堺正幸アナウンサーの実況が物語るように、競馬場は異様な雰囲気に包まれた。
さらに当時のレコードタイムを更新すると「競馬に絶対はない」ということをまざまざと見せ付けられる一戦となった。ちなみに馬主で当時社台レースホースの代表だった吉田善哉らもギャロップダイナには期待していなかったのか、観戦は東京ではなく、同日京都競馬場で行われるスワンステークスに出走するシャダイソフィア(1983年桜花賞馬)の応援で京都におり、東京では善哉の次男である吉田勝己(のちのノーザンファーム代表)が「誰も行かないのはかわいそうだ」ということで一人だけ観戦していた。そのためギャロップダイナの表彰式での馬主として勝己が天皇楯を受け取ったが、一方で京都でのシャダイソフィアはレース中に故障、予後不良という明暗が起きてしまったという。
その後、ギャロップダイナはジャパンカップ7着、有馬記念5着とシンボリルドルフに雪辱されてしまい、「天皇賞の勝利はまぐれだ」と言われてしまっていた。
7歳(1986年)
7歳シーズンの初戦は東京新聞杯(GⅢ)で勝利。
続く京王杯スプリングカップは4着に敗れるも、安田記念はニホンピロウイナーが引退していたため1番人気に推され、それに応えてGⅠ2勝目を挙げた。
安田記念の後はなんとフランスへ遠征。
この当時はシンボリルドルフがアメリカで大敗し、それを最後に引退したこともあり、また前年のダービー馬シリウスシンボリも海外で勝利を挙げていないことから、ギャロップダイナでは無謀だと声もあった。
その結果はジャック・ル・マロワ賞は12着、ムーラン・ド・ロンシャン賞は10着に終わり、ギャロップダイナは帰国した。
帰国後は連覇を狙って天皇賞に出走したが、サクラユタカオーの4着、続くジャパンカップもジュピターアイランドの10着だった。
そして有馬記念を最後に引退を表明する。
この年の有馬記念は初の三冠牝馬メジロラモーヌも出走していたが、11番人気ながら最後は同じ社台のダービー馬ダイナガリバーの2着に入り、ギャロップダイナは引退した。
引退後
引退後は種牡馬入り。
種牡馬としての代表産駒は1992年のエプソムカップを制したマルマツエース。
2006年2月2日に老衰のため26歳で死去した。