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シリウスシンボリ

しりうすしんぼり

日本の競走馬(メイン画像左)。ダービー馬でその後2年にわたり海外遠征をおこない、日本馬による長期海外遠征の先駆者となった。
目次 [非表示]

誘導

  1. 競走馬(85世代
  2. 1をモチーフとしたウマ娘プリティーダービーに登場するウマ娘(メイン画像右)。→シリウスシンボリ(ウマ娘)

こちらでは1に関して解説をする。2に関してはリンク先のタグを使用する事を推奨。


概要

性別
生没年1982-2012(享年30)
英字表記Sirius symboli
血統父:モガミ/母:スイートエプソム/母父:パーソロン
毛色鹿毛
生産者・馬主シンボリ牧場/和田共弘
競走成績26戦3勝
主な勝ち鞍85年日本ダービー

1985年の日本ダービーを制覇した馬。

その後シンボリルドルフと共に海外遠征したがルドルフが体調不良で帰国したため単独で2年にわたり海外各国で転戦を続けた。

ダービーを制覇するなど素質馬であったが、モガミ産駒らしく気性が荒く、パドックで馬っ気を出していたり、ダイナアクトレスレジェンドテイオーを回し蹴りしたことがあった。


主戦騎手は加藤和宏であったが、馬主の和田共弘が加藤騎手の2度の騎乗ミスに対して不満を持ち、乗り換りを要請したため調教師の二本柳俊夫と対立。組合まで巻き込んだ厩舎移籍騒動へと発展してしまう。

騒動直後の若葉賞は鞍上岡部幸雄で勝利するも皐月賞には出られず。この理由については上述の騒動が尾を引いたという説(JRA60周年本)と、脚部不安によって回避したという説(優駿紙上)がある。

その後は当時の日本ダービーのトライアルレースであったNHK杯を脚部不安で回避している。


第52回日本ダービーでは、皐月賞を優勝したミホシンザンが骨折で回避したため、本命が不在だった。なお、鞍上は加藤騎手に戻っている。

レース当日は重馬場で、26頭が外側を回る中で、2着のスダホークに3馬身差を付けて優勝。シンボリ牧場は前年のシンボリルドルフに続いて2年連続でダービー馬を輩出した。


海外遠征

日本ダービー優勝後は、1985年7月13日に日本を旅立ち、約2年に渡って帯同馬・二本柳厩舎スタッフを一切伴わず1頭で欧州を転戦する。

(シンボリ牧場スタッフ・オーナーは少なくとも最初の数か月間同伴していたことが優駿紙上で確認されている)

海外では和田共弘氏がスピードシンボリ遠征の頃から親交のあった3つの厩舎にそれぞれ所属。


帯同馬や二本柳スタッフが来なかった原因に関しての詳細は不明だが、当時は海外遠征のノウハウがあまり蓄積されておらず帯同馬や慣れ親しんだスタッフが必要との認識が薄かったこと、本来はシリウスがシンボリルドルフの遠征帯同馬の予定であり、シンボリルドルフの遠征が急遽中止になった事も一因と考えられる。

ちなみにシリウスの欧州遠征応援ツアーが旅行会社で企画され月刊優駿誌上でも募集されていたが、二本柳厩舎のスタッフは誰一人応援には来ることはなかった。


2年間で14戦し勝ちはなかったが、通算で

G1...3着1回、4着1回、5着1回、着外3回

G2...4着1回、着外1回

G3...2着1回、3着1回、4着2回、5着1回、着外1回

となっており、1着にこそなれなかったものの堅実に幾度も掲示板に入っており1980年当時の日本競馬と海外競馬の隔絶した差や、母国からのサポートが乏しかった点を考えれば大健闘した戦績と言える。


海外を転戦してる間の1986年凱旋門賞では14着に終わる。なお、1着はダンシングブレーヴ(キングヘイローの父)であった。

1986年凱旋門賞ダンシングブレーヴ以外にも、ベーリング、シャーラスタニ、トリプティクなど錚々たるメンツが集い「史上最高のメンバーが揃った」と言われた地獄の第65回凱旋門賞であった事が彼の不幸と言えよう。


シンボリルドルフはアメリカ遠征の怪我で引退していなければ秋からヨーロッパに渡り、この年の凱旋門賞に出走する予定であった。

本来シンボリルドルフの帯同馬として遠征するはずだったシリウスとシンボリルドルフがヨーロッパで合流するかどうかは、永遠に不明となってしまった。


帰国後

1987年(旧6歳)秋に帰国し、毎日王冠から復帰。

7歳となった翌1988年も現役を続行するも、毎日王冠の2着が最高で、結局帰国後は一度も勝てないまま天皇賞(秋)で7着になったのを最後に骨折して引退した。

なお、同期の二冠馬であるミホシンザンとは一度も対戦がなかった。


他のモガミ産駒と同様に気性が荒く(ただし、後述するが1985年当時の証言とは食い違っている点に注意)

1988年の毎日王冠では、ダイナアクトレスレジェンドテイオー回し蹴りを喰らわせたことでも知られる。(その後レジェンドテイオーは競走除外に追い込まれた)


引退後

引退後はブリーダーズスタリオンステーションで種牡馬となるも、'96の京都4歳特別(京都新聞杯の開催時期移動に伴い廃止)2着からダービーに出走したオーシャンカレントが目立つくらいで重賞戦線を賑わす馬は残せなかった。

その後は当時種牡馬シンジケート会会長であり獣医師でもある沖田正憲社長の沖田牧場(北海道シンボリ牧場の隣の牧場)で余生を送る。


現役時は激しい気性で知られていたが、晩年は小さい子供にも顔を預けて甘えるような良いお爺ちゃんになっていたという。


ちなみに、現役時の気性が激しいという証言は出典なしでよく言われているが、1985年当時の優駿の取材や証言では

「デレデレした馬」(岡部騎手の証言)

「触ったら鼻を寄せて甘えてきた」(シリウスを運んだパイロットの証言)

「神経が太い、動じない馬」(岡部騎手、木村幸治氏)

などの証言や、

「和田共弘氏がシリウスの足もとにしゃがみこみながら語りかけている写真」(気性が荒い馬の傍でこんなことしたら危険です)などが残っている。


2012年4月8日に30歳で死去した。

死去した後、遺体はシンボリ牧場に引き取られシンボリ牧場の名馬たちが眠る墓に葬られている。

なお、その墓石に刻まれている名前にはスピードシンボリ、パーソロン、モガミ、シンボリルドルフ、シリウスシンボリ、シンボリインディが確認されている。

ただしシンボリ牧場は90年代から一般人の見学を禁止しているため、お墓参り・見学などは一切不可能であることに注意。

過去には某一口馬主クラブに入っていれば特典として見学ツアーがあったのだが、現在は関係者以外は一切入ることができないようになっている。

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