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シンボリ牧場
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千葉県成田市に本社を置く競走馬の生産牧場及び馬主。

概要

正式名称は「シンボリ牧場有限会社」。

千葉県成田市に本社・本場を置く競走馬の生産牧場

競走馬を自身で生産し、その馬主になって出走させるオーナーブリーダー(馬主兼生産者)として知られる。勝負服の柄は緑・白襷・袖赤一本輪。

冠名はシンボリだが、かつて牝馬にはスイートを使用していた。またマティリアルのように海外出走を見据えて冠名を付けなかった馬もいる。

来歴

1921年、和田孝一郎が成田市に前身となる新堀牧場を開場。

1935年、サラブレッドの生産を始める。下総御料牧場の優秀な種牡馬繁殖牝馬を導入。

1940年、中山四歳牝馬特別(現在の桜花賞)をタイレイが勝ち、初のクラシック制覇。

1953年、活馬輸入規制が緩和される。イギリス留学から帰国し、2代目代表となった和田共弘は真っ先に欧米へ出向いて種牡馬や繁殖牝馬を購入し、ヨーロッパ流の配合や育成を実践。

1964年、種牡馬パーソロン北野豊吉メジロ牧場)と共同購入。

1969年、スピードシンボリ凱旋門賞に出走。

1984年、シンボリルドルフが無敗でクラシック三冠を達成。

1985年、シリウスシンボリの騎手乗り替わりに端を発した転厩騒動で厩務員組合から糾弾される。共弘はトラブルメーカーとして各厩舎(特に関東の厩舎)から忌避されるようになり、日本の競馬への意欲を失い、海外に100頭以上の競走馬を所有。シンボリ牧場を廃業して霊園にすることを検討していた。

1994年、和田共弘が死去。息子の孝弘がコンピューター会社を退職して跡を継ぎ、共弘の不始末について各方面に頭を下げて回った。それでも関係修復に至らなかった厩舎や関係者も多々存在した。最終的に共弘氏の全盛期に開業していなかった新進気鋭の調教師や預託実績のなかった厩舎との関係を構築。アメリカ流の配合や血統を導入し復活への歩みを始めることになる。

1999年、シンボリインディNHKマイルカップに勝利し、シンボリ牧場に14年ぶりのGⅠ勝利をもたらす。この年アメリカのシンボリ牧場で誕生したシンボリクリスエスは日本で競走馬、種牡馬として活躍することとなる。

2019年、和田孝弘が死去。息子の吉弘が社長となる。

主な生産馬

サクラショウリ シリウスシンボリ シンボリインディ シンボリクリエンス シンボリクリスエス シンボリルドルフ スイートネイティブ スピードシンボリ タイレイ ハククラマ メジロアサマ マティリアル

余談

  • 生産馬を自己所有するだけでなく、他のオーナーに売却することもあった。メジロアサマツルマルツヨシサクラショウリなどがいる。また、マティリアルも幼駒時代に調教師を介して全演植氏と購買交渉が行われたが条件面で破談になっている。
  • スピードシンボリ、シンボリルドルフ、シリウスシンボリ、シンボリクリスエスはシンボリ牧場にとっての代表的な競走馬。特にスピードシンボリは海外レースの先駆者であり、シンボリルドルフは史上初の無敗三冠を達成するなど日本競馬を代表する競走馬として知られ、シリウスシンボリは日本生産馬初の凱旋門賞挑戦を行い、シンボリクリスエスは種牡馬として大きな成功を収めた。
  • オジュウチョウサンの調教師はシンボリ牧場の分家ともいえる和田牧場出身。放牧先も和田牧場に出されており、和田牧場とシンボリ牧場のスタッフによって状態を整えられている。そしてオジュウチョウサンは『障害界の絶対王者』と称され、シンボリ牧場は事実上『日本競馬における2頭の絶対』を手掛けた牧場と言える。

概要

正式名称は「シンボリ牧場有限会社」。

千葉県成田市に本社・本場を置く競走馬の生産牧場

競走馬を自身で生産し、その馬主になって出走させるオーナーブリーダー(馬主兼生産者)として知られる。勝負服の柄は緑・白襷・袖赤一本輪。

冠名はシンボリだが、かつて牝馬にはスイートを使用していた。またマティリアルのように海外出走を見据えて冠名を付けなかった馬もいる。

来歴

1921年、和田孝一郎が成田市に前身となる新堀牧場を開場。

1935年、サラブレッドの生産を始める。下総御料牧場の優秀な種牡馬繁殖牝馬を導入。

1940年、中山四歳牝馬特別(現在の桜花賞)をタイレイが勝ち、初のクラシック制覇。

1953年、活馬輸入規制が緩和される。イギリス留学から帰国し、2代目代表となった和田共弘は真っ先に欧米へ出向いて種牡馬や繁殖牝馬を購入し、ヨーロッパ流の配合や育成を実践。

1964年、種牡馬パーソロン北野豊吉メジロ牧場)と共同購入。

1969年、スピードシンボリ凱旋門賞に出走。

1984年、シンボリルドルフが無敗でクラシック三冠を達成。

1985年、シリウスシンボリの騎手乗り替わりに端を発した転厩騒動で厩務員組合から糾弾される。共弘はトラブルメーカーとして各厩舎(特に関東の厩舎)から忌避されるようになり、日本の競馬への意欲を失い、海外に100頭以上の競走馬を所有。シンボリ牧場を廃業して霊園にすることを検討していた。

1994年、和田共弘が死去。息子の孝弘がコンピューター会社を退職して跡を継ぎ、共弘の不始末について各方面に頭を下げて回った。それでも関係修復に至らなかった厩舎や関係者も多々存在した。最終的に共弘氏の全盛期に開業していなかった新進気鋭の調教師や預託実績のなかった厩舎との関係を構築。アメリカ流の配合や血統を導入し復活への歩みを始めることになる。

1999年、シンボリインディNHKマイルカップに勝利し、シンボリ牧場に14年ぶりのGⅠ勝利をもたらす。この年アメリカのシンボリ牧場で誕生したシンボリクリスエスは日本で競走馬、種牡馬として活躍することとなる。

2019年、和田孝弘が死去。息子の吉弘が社長となる。

余談

  • 生産馬を自己所有するだけでなく、他のオーナーに売却することもあった。メジロアサマツルマルツヨシサクラショウリなどがいる。また、マティリアルも幼駒時代に調教師を介して全演植氏と購買交渉が行われたが条件面で破談になっている。
  • スピードシンボリ、シンボリルドルフ、シリウスシンボリ、シンボリクリスエスはシンボリ牧場にとっての代表的な競走馬。特にスピードシンボリは海外レースの先駆者であり、シンボリルドルフは史上初の無敗三冠を達成するなど日本競馬を代表する競走馬として知られ、シリウスシンボリは日本生産馬初の凱旋門賞挑戦を行い、シンボリクリスエスは種牡馬として大きな成功を収めた。
  • オジュウチョウサンの調教師はシンボリ牧場の分家ともいえる和田牧場出身。放牧先も和田牧場に出されており、和田牧場とシンボリ牧場のスタッフによって状態を整えられている。そしてオジュウチョウサンは『障害界の絶対王者』と称され、シンボリ牧場は事実上『日本競馬における2頭の絶対』を手掛けた牧場と言える。

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