マティリアル
まてぃりある
※年齢は旧馬齢表記(現表記+1)とする。
父パーソロン、母父スピードシンボリという皇帝シンボリルドルフと同じような血統構成のシンボリ牧場生産の競走馬。
幼少時から活躍に期待が集まり、シンボリ牧場所有の牡馬は冠名として「シンボリ」を付与するのが通例だが、将来の海外レース出走を見据えて冠名のない「マティリアル」とした。
マティリアルがシンボリ牧場所有馬として登録されたのは美浦トレセンの田中和夫調教師がマティリアルの素質に惚れ込んで自身の管理馬とするべく馬主を探し、さくらコマース(サクラスターオー・サクラチヨノオー・サクラバクシンオーなどの馬主)会長の全演植氏に購買を勧めるも交渉が決裂。シンボリ牧場が馬主となって田中厩舎に預ける事を約束したという経緯があるため。
1986年秋の東京新馬戦で鞍上に岡部幸雄を迎えてデビューし勝利を収める。しかし続く府中3歳ステークスでは3着に敗れ、脚部不安のためレース後放牧に出された。
年明け後1987年2月の寒梅賞で復帰し1番人気に応えて見事勝利。
3月には皐月賞に向けてスプリングステークスへ出走。メリーナイス・ゴールドシチー・トチノルーラー・モガミヤシマなどの錚々たる面々が出走する中、マティリアルは1番人気に推される。レース中岡部騎手が後方に控える作戦をとったため、残り200mで7番手という位置で誰もがもう無理だと思った瞬間、先行勢の競り合いから1頭バナレットが抜け出した直後にこれを一気に差し切ってアタマ差先着&レコード勝利を収めた。レース後、岡部は「ミスターシービーのような勝ち方だったね」と述べている。
本番の皐月賞でも1番人気に推されるが、サクラスターオーの3着に終わる。レース後、シンボリ牧場へと放牧に出されたが、マティリアルは環境の変化に敏感でシンボリルドルフで上手く行ったやり方は彼には合わなかった。その事に和田オーナーは気づいておらず、日本ダービーでも1番人気に推されるも見せ場を作ること無くメリーナイスの18着に沈んだ。
ダービー後もシンボリ牧場へ放牧に出されたが、環境の変化に敏感なマティリアルはストレスをためるばかり。美浦に戻った後も調子は戻らず、セントライト記念では7着に終わる。菊花賞では鞍上を岡部幸雄から柴田政人に交代し、4番人気に推されるもサクラスターオーの13着に沈んだ。
長期休養を経て1988年3月の中山記念で復帰。しかし調子は戻らず6着に終わった。
以後も出走・敗北・シンボリ牧場で放牧/調整を繰り返すが、有馬記念の敗北をきっかけに和田オーナーはマティリアルに対する熱意を失ったようで、田中師がここで「調教の中身を任せて欲しい」とオーナーへ進言。オーナーはこれを了承し、復帰後はマイル路線へ進ませ、初戦となった1989年6月のパラダイスステークスで4着入り後はローカル開催(府中・中山・京都・阪神以外の中央競馬の競馬場のこと)へ転戦。7月は福島の七夕賞を、8月は新潟の関屋記念で復調の気配を見せ、秋初戦は中山の京王杯オータムハンデキャップ(現・京成杯オータムハンデキャップ)では鞍上に岡部幸雄を迎えて出走させることを決めた。
そして迎えた運命の京王杯オータムハンデキャップ。1番人気に推され、いつもとは違い先行策をとり、最後の直線で先頭に立つとそのまま押し切ってゴール。スプリングステークス以来2年半ぶりに勝利を収めたが、その直後場内に何かが折れる音が響くと同時にマティリアルの歩様が突如乱れ、岡部騎手が慌てて下馬。診断の結果右前第一指節種子骨の複雑骨折と診断され、普通は予後不良として安楽死の措置が取られる重症だったが、血統と素質を惜しんだオーナーの意向で治療が決定。手術が行われて一度は快方に向かうも3日後容態が悪化。痛みとストレスで出血性大腸炎を発症し、半狂乱になりながら下血しもがき苦しみ、安楽死の決定が下されるもその準備が整った頃には息絶えていたという。
同世代のゴールドシチー・サクラスターオーが同じように悲劇の早逝を遂げていることから87世代は時に悲劇の世代とも呼ばれる。