データ
生年月日 | 1984年2月20日 |
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英字表記 | Pay the Butler |
性別 | 牡馬 |
毛色 | 鹿毛 |
父 | ヴァルドロルヌ(Val de l'Orne) |
母 | プリンセスモルヴィ(Princess Morvi) |
母の父 | グロースターク(Graustark) |
競走成績 | 40戦5勝 |
没年月日 | 1991年7月1日(馬齢7歳/旧8歳) |
概要
ペイザバトラーは87世代の競走馬であり、1988年のジャパンカップ優勝馬。
馬名は訳すと「執事に給料払え」。
1984年2月20日、アメリカ・クロヴリーファーム(Clovelly Farms)生まれ。
デビューはフランスだったが、後に主戦場をアメリカに移した。
父ヴァルドロルヌは5戦4勝2着1回のフランスダービー馬。
母プリンセスモルヴィはアメリカのリボー系牝馬で、フランスで2勝を挙げている。
全弟リヴァーゴッド(River God)はイギリスGⅡ「クイーンズヴァーズ」の勝ち馬。
母父のグロースタークは8戦7勝2着1回の快速スプリンターにして名種牡馬。母父としても優秀で、米GⅠ3勝のサンシャインフォーエヴァー(Sunshine Forever)、日本で成功した種牡馬ブライアンズタイム等が産まれている。
フランス時代の管理調教師はジョン・フェローズ(John Fellows)→アラン・ファラウド(Alain Falourd)。
アメリカでは名トレーナーとして名高いロバート・フランケル(Robert J.Frankel)が管理していた。
主戦騎手については、フランス時代は乗り替わりが多く主戦と呼べる騎手はいない。
米国に移ってからはロビー・デイヴィス(Robbie Davis)が主戦を務めた、また、名手クリス・マッキャロン(Chris McCarron)がジャパンカップ2戦など計7戦に騎乗している。
フランス時代~落ちこぼれ~
1986年8月、父母の実績を背景にフランスでデビュー。しかし、走れど走れど全く勝てない…どころか連対すら出来ぬ有様。8連敗目を10着大敗で終えた後、初勝利は87年5月の9戦目。裏開催のストラスブール競馬場を選んでようやく…である。
しかし後が続かず、新馬からクラシックにかけての成績は14戦走ってこの1勝だけ。2着はなく3着2回。その間にフランスではなくドイツなら…とフランクフルト競馬場に遠征して重賞初出走(GⅡヘッセンポカル)を果たしたが、9着惨敗に終わった。
古馬になった88年の2戦目、4月の20頭立てオープン(ロンシャン競馬場)で2勝目をあげたが、3戦目に5着に敗れたところで馬主が諦めてペイザバトラーを手放し、購入した馬主エドモンド・ガン(Edmund A.Gann)氏に連れられて故郷に里帰りすることになった。
アメリカ移籍~這い上がれ~
アメリカデビュー戦は88年5月、ベルモントパーク競馬場のGⅡ「レッドスミスハンデキャップ」。15頭中5番人気だったが、故郷に帰ってきて発奮したのか、後にGⅠを勝つ重賞馬2頭を抑えて勝ってしまう。こうして、フランスの落ちこぼれだったペイザバトラーはいきなり重賞馬となった。
続く2戦目は同じくベルモントパークの「ポーリンググリーンハンデキャップ」でGⅠに初挑戦し、クールドリオン(Coeur de Lion)のクビ差2着と善戦。
更に4戦目のGⅠ「マンノウォーステークス」でもサンシャインフォーエヴァーの半馬身差2着と好走し、アメリカなら意外とやれることを証明した。
しかし流石に重賞続きとなると順調には行かず、GⅠ「ターフクラシックステークス」では同じくサンシャインフォーエヴァーの5着。6戦目はカナダ遠征でGⅠ「ロスマンズ国際ステークス」に出走し、9着。
こうしてアメリカで奮闘を続ける中、彼の運命を大きく変えるレースがやってくる。
第8回ジャパンカップ~一世一代の大勝負~
ペイザバトラー陣営はアメリカの競馬の祭典「ブリーダーズカップ」ではなく、日本のGⅠ「ジャパンカップ」への出走を決断する。
当時の日本競馬は史上最大の競馬ブームが起きており、その立役者である“葦毛の怪物”オグリキャップと、そのオグリキャップをも下して8連勝中の“白い稲妻2世”タマモクロスの「最強葦毛対決」第2ラウンドに湧いていた。
タマモクロスは前走の「天皇賞(秋)でオグリキャップを下してGⅠ3連勝、このレースに勝てば日本記録(当時)を更新する重賞7連勝となる。
一方のオグリキャップは笠松時代含む14連勝に重賞6連勝(当時日本記録タイ)と、未だGⅠ未勝利ながらその豪脚で注目を浴びており、GⅠ初勝利とタマモクロスへのリベンジがかかる。
他に、日本からは阪神3歳ステークス勝ち馬のゴールドシチー、前年の宝塚記念を制した古強者スズパレード、菊花賞と有馬記念を制したメジロデュレン、天皇賞(春)2着のランニングフリーが参戦。
海外からも史上初の凱旋門賞馬参戦と話題になったイタリア最強馬トニービンを筆頭に、南半球から豪州とNZのGⅠを9勝している“The Pride of Ellerslie”ボーンクラッシャー、2年連続出走の英セントレジャー&仏サンクルー大賞馬ムーンマッドネス、この年の英国際ステークス覇者シェイディハイツ等、錚々たるメンバーが集結。
その中にあってたかだか通算3勝、米GⅡ1勝馬にすぎないペイザバトラーは9番人気。全くと言っていいほど注目されていなかった。
しかし、このJCでペイザバトラーと初コンビを組むことになったクリス・マッキャロン騎手は、東京競馬場のレースビデオを集められるだけ集め、研究に没頭。天皇賞(秋)で死闘を演じたタマモクロスとオグリキャップを最大の敵と睨み、とくにタマモクロスの類稀なる瞬発力と勝負根性を封じ込めるべく入念に作戦を練った。
いざスタートすると、逃げ馬がいないこともあって、レースはメジロデュレンを先頭にスローペースの団子状態。ペイザバトラーは前半抑えて中段につけ、バックストレッチで最後方からタマモクロスが大外から徐々に上がってくるところに合わせ、そのすぐ内にピタリとついてペースアップしつつ、タマモクロスを外へ外へと押し出しながら並走。
府中の長い直線に入ると、ペイザバトラーはこれまでマークしていたタマモクロスから逃げるように、思い切って内へ内へと切り込んだ。
負けず嫌いのタマモクロスの力を完全に引き出さぬよう、並んでの叩き合いを避ける。このマッキャロン騎手の狙いはピタリとハマった。
ペイザバトラーは直線の外側から思い切った斜行で一気に内ラチめがけて突っ込み、距離が離れたところからタマモクロスを抜き去って先頭に立った。タマモクロスもなんとか馬体を合わせようと内に入っていくものの、後ろから来るトニービンの進路に割り込む形になることもあって馬体を合わせるには至らず、道中で折り合いを欠いてスパートが遅れたオグリキャップも届かない。
結果、ペイザバトラーはタマモクロスに1/2馬身、オグリキャップには1馬身と1/4の差をつけてゴールを駆け抜けた。その上がり4ハロンのタイムはオグリキャップより速く、タマモクロスに並ぶ14頭中最速タイの47.6秒を叩き出していた。
馬のポテンシャルを120%引き出し、レース展開を読み、マークすべきをマークし、その上で全ての馬を出し抜く。
このマッキャロン騎手の最高の騎乗がタマモクロスの年間連勝記録を止め、フランスのミソッカスだったペイザバトラーにGⅠ馬の栄光をもたらした。
(ただし、進路妨害には当たらないものの強引すぎる斜行だとして、マッキャロン騎手は戒告処分を受けている)
帰国後、12月のGⅠハリウッドターフカップは6着で88年を終えた。
5歳~あの輝きをもう一度~
ペイザバトラーはその後も米GⅠレースに出走し続けるが、パンアメリカンハンデキャップの2着が1度あったくらいで、フランス時代よりはマシなものの相変わらずパッとしない。秋に入ってGⅢで2着した後、GⅠオークツリー招待に出走。ここでは12ハロン(約2414m)のワールドレコード2:22.4を叩き出したホークスターに敗れたものの、2着と好走。
そして、陣営は今秋もブリーダーズカップではなく、ジャパンカップへの出走を決定。前年に引き続いてマッキャロン騎手とコンビを組んだペイザバトラーはここでも好走する。
第9回ジャパンカップ
日本総大将オグリキャップに加えてスーパークリークにイナリワンと、平成三強が揃い踏み。さらにマイルチャンピオンシップでオグリキャップと壮絶な叩き合いを繰り広げた安田記念馬バンブーメモリー、南関東三冠の女王ロジータ、安田記念でニッポーテイオーを破った豪脚のフレッシュボイスなど強敵揃い。
アメリカからはペイザバトラーに加え、前走で千切られたホークスターが、欧州からは凱旋門賞馬キャロルハウス、イタリアとドイツのGⅠを勝っている快速馬イブンベイが、オセアニアからNZの葦毛女王ホーリックスが参戦。
レースが始まるとイブンベイがハナを切り、ホークスターがこれに競りかけ、さらにインコースで好スタートを切ったホーリックスとオグリキャップが続いて、かつてないスピードで逃げていく。
具体的に言うと通過タイムが各距離のレコード(1600m:安田記念レコード 1800m:日本レコード 2000m:コースレコード 2200m:日本レコードと同タイム)という異常なハイペース。
そんな中、ペイザバトラーは前がタレてくるだろう後半勝負に賭け、後方で脚をためていた。
しかし…最終コーナーに入っても何故か前のペースが全く落ちない。特にオグリキャップとホーリックスの葦毛2頭は最後の直線に入っても全く脚が衰えず、後続を千切り、最後は壮絶な叩き合いの末にホーリックスがクビ差凌ぎきって勝利。その勝ち時計はJCレコードを2秒以上縮める2400mのワールドレコード2:22.2というメチャクチャなもので、JRAのCMでは「事件」とまで言われるほどの衝撃だった。
(このレコードは東京競馬場が改修されるまで破られることはなかった)
ペイザバトラーはというと後方から猛然と追い上げ、ホークスター、スーパークリークを差し切って3着に入った。タイムは2:22.7、上がり4ハロンは前年よりも0.4秒速い47.2秒(15頭中3位)と実に素晴らしいもの。
4着スーパークリークも同タイム2:22.7、5着ホークスターは2:22.9で、ペイザバトラー以外の後方待機策をとった馬は追い込みが間に合わず、逃げ潰れた6着イブンベイ(2:23.2)以下の着順となっていることが、如何にペイザバトラーが日本で強かったかということを証明している(だが、前2頭が色々おかし過ぎた)。
なお、このレースは15頭中13着のバンブーメモリーまでがJCレコードより速く、14着キャロルハウスがJCレコードタイ、最下位ロジータですらこの年のオークス(同じ東京芝2400m)の勝ちタイムを上回っていたという、まったくもって破天荒なものになった。
6歳~燃え尽きて~
ペイザバトラーは半年弱の休養をとった後、5頭立てのオープンレースで復帰し、88年JC以来約1年5ヶ月ぶりに勝利。これが現役最後の勝利となった。
その後GⅠ2回、GⅡ1回走っていずれも着外。10月に8頭立て特別戦で5着、そして引退レースとなった11月のオープンレースは4着だった。
生涯戦績
40戦5勝(日GⅠ1勝 米GⅡ1勝) 2着5回(米GⅠ4回 米GⅢ1回)
3着5回(米GⅠ2回 日GⅠ1回)
引退後
実績からみても引退後は厳しいものになるかと思われたペイザバトラー。だが、ジャパンカップでの好走をみた早田光一郎氏が購入し、日本のCBスタッドで種牡馬入りすることが出来た。こうして種牡馬として第2の馬生がスタート。初年度は58頭に種付けを行った。
しかしこれが87世代の運命なのか…ペイザバトラーは初年度の種付けを終えた1991年7月、事故で左後脚の靭帯を断裂してしまい、予後不良。なんと、自身の産駒が生まれる前にこの世を去ってしまった。
彼の産駒はわずか1世代43頭。数少ない産駒からは中央重賞2勝(GⅢ新潟記念、函館記念)&地方重賞2勝(東京3歳優駿牝馬、大井記念)をあげたパルブライト(牝馬)という活躍馬もいたが、後継種牡馬は誕生しなかった。
そのパルブライトはスペシャルウィークとの間に中央競馬4勝のサインオブゴッド(牡馬)を代表産駒として輩出。
同じくスペシャルウィークとの間に生まれたサンアイブライト(06世代 44戦1勝)は現役繁殖牝馬(2021年現在)であり、彼女の産駒がペイザバトラーの血を残してくれる…かもしれない。
関連タグ
オベイユアマスター…ペイザバトラーをモデルとしたウマ娘(ウマ娘シンデレラグレイ)