マックスビューティ
まっくすびゅーてぃ
1984年
5月3日、北海道浦河町の酒井牧場で誕生。
父のブレイヴェストローマンはアメリカから輸入された種牡馬で、トウカイローマン、ランドヒリュウ、メイショウホムラ、オグリローマン、フジノマッケンオーなどを輩出。
母のフジタカレディは1900年代に小岩井農場に輸入されたタイランツクヰーンに連なる牝系の子孫で、マルゼンスキーと交配するはずが予定より早く発情がきてしまい、スケジュールの空いていたブレイヴェストローマンを種付けしたのだった。
母父のバーバーはイギリスから輸入されたプリンスリーギフト系の種牡馬で、カネミノブ、スルガスンプジョウなどを輩出。
誕生の翌週に伊藤雄二調教師が牧場を訪れて高く評価。伊藤師が管理する事となり、田所祐に馬主になってもらった。田所は仔馬の写真を見て美しいと感じ、「マックスビューティ」と命名した。
1985年
荻伏牧場で育成・調教が行われる。成長したマックスビューティーは美しい馬体と優れた心肺機能の持ち主だった。
1986年
7月13日、札幌競馬場の新馬戦でデビューの予定だったが、左前脚蹄球炎のため出走取り消し。
8月3日、柴田政人騎手を鞍上に函館競馬場の新馬戦でデビュー。初勝利を挙げた。
9月21日、函館3歳ステークス(GⅢ)で重賞初挑戦。不良馬場に足をとられ、ホクトヘリオスの4着に敗れた。
12月7日、南井克巳騎手に乗り替わりラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークス(GⅢ)に出走。ドウカンジョーの2着に敗れた。
1987年
2月21日、田原成貴騎手に乗り替わりバイオレットステークス(オープン)に出走し1着。
3月15日、チューリップ賞(オープン)に出走し1着。
4月12日、桜花賞(GⅠ)に出走。2着コーセイに8馬身差をつけて重賞初勝利。
5月3日、南井克巳騎手に乗り替わりサンケイスポーツ賞4歳牝馬特別(GⅡ)に出走し1着。
5月24日、田原成貴騎手に乗り替わり優駿牝馬(GⅠ)に出走し1着。秋へ向け休養に入る。
9月27日、牡牝混合の神戸新聞杯(GⅡ)に出走し1着。
10月25日、エリザベス女王杯(GⅠ)トライアルのローズステークス(GⅡ)に出走し1着。8連勝とし、昨年のメジロラモーヌに続く牝馬三冠への期待が高まった。
11月15日、エリザベス女王杯に出走。折り合いを欠き、タレンティドガールに差されて2着に敗れた。
12月27日、ファン投票2位で有馬記念(GⅠ)に出走するが良いところなく、メジロデュレンの10着に敗れた。
1988年
2月28日、マイラーズカップ(GⅡ)に出走しミスターボーイの3着に敗れた。
4月3日、サンケイ大阪杯(GⅡ)に出走しフレッシュボイスの8着に敗れた。
8月21日、函館記念(GⅢ)に出走しサッカーボーイの6着に敗れた。
9月18日、岡部幸雄騎手に乗り替わりオールカマー(GⅢ)に出走しスズパレードの7着に敗れた。
10月8日、武豊騎手に乗り替わりオパールステークス(オープン)に出走し1着。
10月30日、田島良保騎手に乗り替わりスワンステークス(GⅡ)に出走しシンウインドの9着に敗れた。
1989年
酒井牧場に帰り繁殖牝馬となる。
1990年
初仔のマックスジョリーが誕生。
1993年
欧米の最高級種牡馬の血を日本に導入したいという馬主の意向により、アイルランドに渡る。カーリアンやサドラーズウェルズと交配したが、産駒はいずれも牝馬だった。
1995年
アメリカに移される予定だったが、日本でサンデーサイレンス、ブライアンズタイム、トニービンが種牡馬として大成功を収めており、もはや海外にこだわる意義は薄れたとして日本に帰国することとなる。
2001年
2002年
2月27日、安楽死の措置が取られた(18歳)。
- 有馬記念の頃からマックスビューティは競馬に対しやる気を失ってしまい、田原騎手はその事を伊藤師に伝えたが、伊藤師は繁殖生活の事を考え何とか10勝させてやりたいと考えていたため確執が生じ、降りる事となった。その後、田原騎手が伊藤厩舎の馬に乗ることはなかった。