生涯
生い立ち
父ブレイヴェストローマン(Bravest Roman)は本馬の他にマックスビューティやオグリローマンを輩出。
母のトウカイミドリの血統は母系を遡っていくと、日本史上初のダービー牝馬ヒサトモに行き当たる。(自身の母母母母母がヒサトモ)。
翌年に生まれた半妹のトウカイナチュラル(父ナイスダンサー)は本馬より先に繁殖入りし、1988年にシンボリルドルフとの仔を産んだ。この仔馬こそ、クラシック二冠などGⅠを4勝し、最終的には顕彰馬に選ばれたトウカイテイオーである。
つまり、トウカイローマンはトウカイテイオーの伯母にあたることになる。
競走馬時代
※現役時代の馬齢は2000年以前の旧表記で記載する。
3歳~4歳(1983年~1984年)
1983年11月26日の中京競馬場新馬戦(ダート1000m)でデビューし2着。中2週で出た未勝利戦を勝利。
翌1984年の条件戦も勝利してオープン入りを果たす。
5戦目はこの年に新設されたオープン競走のチューリップ賞(1994年にGⅢ、2018年にGⅡに昇格)に出たが、ウラカワミユキ(ナイスネイチャの母)の8着に敗れた。
チューリップ賞での惨敗から、桜花賞は22頭立ての18番人気という低さだったが、ダイアナソロンの4着に入る。
そして、9番人気で迎えた優駿牝馬(オークス)ではダイアナソロンとのマッチレースになったが、最終的に1と3/4馬身を付けて勝利。騎乗した岡冨俊一にとってもこれが初(にして結果的に唯一)のGⅠ勝利をプレゼントした。
しかし、その後のトウカイローマンは、2年間勝利から遠ざかる。
5歳以降(1985年~1987年)
古馬になった1985年は芝にダートにマイルに中距離と様々な馬場や距離、競馬場を転戦したがどれも勝利には結び付かず、この年を最後に岡冨は降板となった。
6歳になった1986年は1戦ごとに騎手を変えて走り、的場均と組んだジューンステークス(OP)でオークス以来2年ぶりの勝利を挙げた。
陣営はこの年を以て引退し繁殖入りさせようとしたが、「もう1年だけ走らせたい」として現役続行となった。
なお、この時に現役を引退した同期の三冠馬シンボリルドルフの種付け権利があったが、トウカイローマンが現役を続行したことで、代役として交配されたのが半妹のトウカイナチュラルであり、この年に受胎して産んだのが、「帝王」トウカイテイオーだった。
もしも、予定通りにトウカイローマンに種付けされていればトウカイテイオーはこの世に生まれなかったことになるため、結果的にはこの判断がプラスに働いた形となった。
そして、現役最後の年となる7歳(1987年)シーズンでは、この年にデビューした武豊と小倉記念(GⅢ)で初めてコンビを組み5着に入ると、続く京都大賞典(GⅡ)を6番人気ながら勝利。これが、武豊にとって初めての重賞勝利となった。
その後、ジャパンカップ(武豊)と有馬記念(大崎昭一)は共に11着に終わり、これを最後に引退。
なお、有馬記念に出走したことで、ヤマノシラギク以来史上2頭目となる、JRA全10場出走を達成した。
繁殖牝馬時代
現役引退後は繁殖入りし、初年度は改めてシンボリルドルフと交配し、トウカイテイムス(トウカイテイオーから見て従弟にあたる)を産んだが、25戦0勝に終わった。
その後も2003年までに合計11頭産んだが、妹トウカイナチュラルの成績には遠く及ばなかった。(トウカイナチュラルはトウカイテイオーの他にもトウカイオーザを産んだ)
関連タグ
トウカイテイオー:甥