概要
主な勝ち鞍は京都新聞杯(1984年)、鳴尾記念(1985年)、阪神大賞典(1985年)、サンケイ大阪杯(1987年)など。
同期のシンボリルドルフにクラシックで真っ向勝負を挑んだが勝てなかった。
気性が悪く斜行癖があり、日本競馬で降着制度が導入されるきっかけとなった。
プロフィール
略歴
1981年
3月20日、オーナーブリーダーだった西山牧場で誕生。
父のダイコーターは1965年菊花賞優勝馬で、外国産種牡馬が席捲する中、ホウシュウミサイル、サクラエイリュウ、キタノリキオー、プレジデントシチーなどを輩出し内国産種牡馬の雄として知られた。
母のミスホマレシローは牝系で宮内庁下総御料牧場がイギリスから購入したダイオライトに繋がる古い血統である。
1983年
栗東の伊藤修司厩舎へ入厩。
1984年
1月22日、伊藤清章騎手を鞍上に京都競馬場の新馬戦(ダート1700m)でデビューして1着。
2月11日、飛梅賞(400万下)に出走しリップコードの6着に敗れた。
2月26日、クロッカス賞(400万下)に出走しヤマトライジンの5着に敗れた。
4月15日、皐月賞(GⅠ)に出走しシンボリルドルフの6着に敗れた。
5月6日、NHK杯(GⅡ)に出走しビゼンニシキの4着に敗れた。
5月27日、東京優駿(GⅠ)に出走しシンボリルドルフの5着に敗れた。
7月1日、札幌記念(GⅢ)に出走しローラーキングの5着に敗れた。
9月30日、神戸新聞杯(GⅢ)に出走しダイゼンシルバーの2着に敗れた。
10月21日、京都新聞杯(GⅡ)に出走し1着。重賞初勝利。
11月11日、菊花賞(GⅠ)に出走しシンボリルドルフの3着に敗れた。
12月2日、愛知杯(GⅢ)に出走しキクノペガサスの8着に敗れた。この年は13戦と使いづめであった。
1985年
3月10日、鳴尾記念(GⅡ)で始動し1着。
3月31日、サンケイ大阪杯(GⅡ)に出走しステートジャガーの7着に敗れた。
4月29日、天皇賞(春)(GⅠ)に出走しシンボリルドルフの4着に敗れた。
9月15日、朝日チャレンジカップ(GⅢ)に出走し1着で入線するがエーコーフレンチへの進路妨害(斜行)により失格(優勝はワカオライデン)。伊藤清章騎手は騎乗停止。
10月6日、田原成貴騎手に乗り替わって京都大賞典(GⅡ)に出走しヤマノシラギクの2着に敗れた。
10月27日、天皇賞(秋)(GⅠ)に出走しギャロップダイナの12着に敗れた。
12月1日、伊藤清章騎手に乗り替わって阪神大賞典(GⅡ)に出走し1着。
12月22日、有馬記念(GⅠ)に出走しシンボリルドルフの3着に敗れた。
1986年
1月19日、日経新春杯(GⅡ)に出走しフリートホープの4着に敗れた。故障により休養に入る。
1987年
3月15日、1年2ヶ月の休養明けで阪神大賞典に出走し、スダホークの8着に敗れた。
4月5日、田原成貴騎手に乗り替わってサンケイ大阪杯に出走し1着。
4月29日、天皇賞(春)に出走しミホシンザンにハナ差の2着に入線するが、アサヒエンペラーへの進路妨害(斜行)により失格(アサヒエンペラーが繰り上がりで2着)。天皇賞での失格は議論を呼び、「妨害馬がレースで発揮した能力は最大限尊重すべき」という観点から、加害馬が被害馬に先着した場合、被害馬の次の着順に繰り下げとなる降着制度が導入されるきっかけとなった。田原成貴騎手は騎乗停止。
6月14日、宝塚記念(GⅠ)に出走しスズパレードの3着に敗れた。故障により引退。
1988年
故郷の西山牧場で種牡馬となる。優秀な牝馬を宛がわれたが、気性難でデビューできない産駒が多く、活躍馬は出なかった。
1997年
種牡馬登録は継続したが種付けを行うことはなく、実質的には引退。
2011年
12月31日、老衰による心臓麻痺により死去(30歳)。
余談
- 自分の影に驚くことからシャドーロールを使用していた。
- 1987年の天皇賞(春)のパトロールフィルムには影に驚いてジャンプするニシノライデンが写っていた。
- 1987年の天皇賞(春)については「まっすぐ走ればニシノライデンが優勝だった」という声もあるが、田原成貴騎手は「真っ直ぐ走るより斜めに走ってた方が調子が良かった」と語るほか、その気性の悪さは「あれ(ニシノライデン)は根性ねじ曲がってたな。」とまで評している。