概要・沿革
日本中央競馬会(JRA)の開催する重賞レース(GⅡ)。1953年創設。現在は一部の例外年を除き、毎年3月に阪神競馬場・芝3000m(4歳以上)で争われる。
創設当初は主に12月下旬に開催され、暮れの関西競馬を彩る名物レースであったが、第35回(1987年)から3月開催に移動された。
また距離についても、当初は2000~2200mの中距離戦だったが、第13回(1965年)以降長距離戦に改められ、現在は3000mで行われている。
最も長距離のGⅠ競走である、ゴールデンウィークの天皇賞・春(3200m)の前哨戦としての意味合いを持つため、既にGⅠ獲得経験があるような有力なステイヤーの出走も多い。
またこのレースの1着馬(地方競馬所属馬は2着以内)には春天の優先出走権が与えられるため、力をつけ天皇楯を狙ってのし上がりを図る馬たちも数多く集まる。
かつて1番人気馬が1991年から2007年まで17年連続連対するなど、中央競馬の重賞で最も堅いレースと言われていた。2008年からの近年は、ステイヤーが減ってきたり春の天皇賞ではなく大阪杯や宝塚記念を最大目標にする傾向になってきたためか、荒れる事もあり昔ほど物凄く堅いレースではなくなった。
1953年(第1回):創設。阪神競馬場・芝2000m、12月開催。4歳以上(現在の3歳以上)のハンデキャップ戦だった。
1957年(第5回):この年から2200mに変更。
1965年(第13回):この年から3100mに変更。
1974年(第22回):この年から3000mに変更。
1984年(第32回):グレード制定でGⅡに格付けされる。
1987年(第35回):3月に開催を変更、同時に出走資格を古馬限定とする。
競走条件
出走資格: サラ系4歳以上
JRA所属馬
地方競馬所属馬
外国調教馬(優先出走)
負担重量:別定
優先出走権付与
天皇賞(春)のステップ競走に指定されており、地方競馬所属馬は天皇賞(春)の出走候補馬(3頭まで)に優先出走が認められている。また、地方競馬所属馬は本競走で2着以内の成績を収めた馬に天皇賞(春)の優先出走権が与えられる。
中央競馬所属馬は、1着馬に優先出走権が付与される。
歴代優勝馬
1987年(第35回)スダホーク
1988年(第36回)タマモクロス・ダイナカーペンター ※同着優勝
1989年(第37回)ナムラモノノフ
1990年(第38回)オースミシャダイ
1991・92年(第39・40回)メジロマックイーン ※2連覇
1993年(第41回)メジロパーマー
1994年(第42回)ムッシュシェクル
1995・96年(第43・44回)ナリタブライアン ※2連覇
1997年(第45回)マヤノトップガン
1998年(第46回)メジロブライト
1999年(第47回)スペシャルウィーク
2000年(第48回)テイエムオペラオー
2001・02年(第49・50回)ナリタトップロード ※2連覇
2003年(第51回)ダイタクバートラム
2004年(第52回)リンカーン
2005年(第53回)マイソールサウンド
2006年(第54回)ディープインパクト
2007年(第55回)アイポッパー
2008年(第56回)アドマイヤジュピタ
2009年(第57回)アサクサキングス
2010年(第58回)トウカイトリック
2011年(第59回)ナムラクレセント
2012年(第60回)ギュスターヴクライ
2013~15年(第61~63回)ゴールドシップ ※3連覇
2016年(第64回)シュヴァルグラン
2017年(第65回)サトノダイヤモンド
2018年(第66回)レインボーライン
2019年(第67回)シャケトラ
2020年(第68回)ユーキャンスマイル
2021・22年(第69・70回)ディープボンド ※2連覇
2023年(第71回)ジャスティンパレス
2024年(第72回)テーオーロイヤル
著名なレース
キーストン最後のレース
第15回(1967年12月17日)
1965年の日本ダービー馬キーストンは、現役最後のラストランを有馬記念ではなく、地元関西で当時12月に施行されていた阪神大賞典を選んだ。5頭立てという少数レースかつ唯一の八大競走優勝馬ということもあり堂々の1番人気に支持され、レースではキーストンはいつものように逃げをうち、快調に先頭を走っていた。しかし最終コーナーを回って最後の直線でスパートをかけたとき、キーストンは故障を発生してしまう。左前脚を完全脱臼したキーストンは前のめりに転倒。鞍上の山本正司も落馬によって一時期意識を失った。
しかしキーストンは残った三本の足でなんとか立ち上がると、後方に落としてしまった騎手の山本のもとにわざわざ近づき、その鼻面を寄せた。
ここで一時意識を取り戻した山本は、キーストンの顔がすぐ近くにあるのに気づき、起こして貰いながら涙ながらに無我夢中でその頭を抱いた。それからスタッフにキーストンのことを任せると、山本は再び意識を失った。
キーストンの診断は予後不良・安楽死だった。山本が再び目を覚ますとキーストンは安楽死の措置が執られた後であった。当時の関西テレビアナウンサーである松本暢章は半分涙声になりながらその状況を伝えた。当時は今と比べて風紀が悪く、荒れた観客が多かったという競馬場も、騒然かつ異様な空気に包まれており、痛々しい素振りで山本に近づくキーストンを見た観客が感極まって「もう歩くな!」とこぞって呼びかけていたほどだった。
同着優勝
第36回(1988年3月13日)。
最終直線、内にダイナカーペンター、外にマルブツファーストと前を塞がれたタマモクロスが2頭の間に身体をねじ込み、3頭ほぼ一線でゴール。写真判定の結果、タマモクロスとダイナカーペンターの同着1位となった。
JRA重賞での同着優勝は稀に例があるが、1980年代はこの1例のみである。
タマモクロスはこの勝利の後、天皇賞(春)、宝塚記念を制し、天皇賞(秋)でのオグリキャップとの「芦毛頂上決戦」をも制して天皇賞春秋連覇とGⅠ3連勝の偉業を達成、同年の年度代表馬に選出されることになる。
一方、ダイナカーペンター騎乗の加用正も、タマモクロスに加え前年の有馬記念馬メジロデュレン、2連覇を狙うスダホークなど有力馬の揃う中、逃げを打った上でスローペースに落として後方で他馬が牽制し合う状況を作り出し、まんまと5番人気から重賞勝ちを挙げたこのレースを会心の騎乗として振り返っている。
ナリタブライアン vs マヤノトップガン
第44回(1996年3月9日)。
ブライアンズタイム産駒の2頭が激闘を繰り広げ、GⅡながら中央競馬における名勝負の1つとして、後年JRAのCMなどにも使われたレースである。
1994年の三冠馬ナリタブライアンは前年覇者。しかし、前年の同レース後に股関節炎を発症して治療に入り、復帰後は天皇賞秋・ジャパンカップ・有馬記念とそれまでの圧倒的強さが嘘のように精彩を欠いていた。
一方、1世代下のマヤノトップガンは調整遅れから1995年のクラシック戦線に出遅れるも、三冠目の菊花賞をレコード勝ちすると有馬記念も6番人気からの制覇。まさに急襲をかける戦闘機のごとく現れた昇り調子の馬であり、有馬で敗れたブライアンの復活はなるのか、それともトップガンが再び三冠馬を下し世代交代を決定づけるのか、競馬ファンの注目を集めた。当日人気もトップガン2.0倍、ブライアン2.1倍と拮抗していた。
レースはスローペースで進行。道中中位で進行したトップガン(田原成貴)は第3コーナーでロングスパートを開始。これを見てブライアン(武豊)もギアを上げ追走、第4コーナーの時点でこの2頭のマッチレースが始まった。
400mにわたり2頭は並走、後続をどんどん突き放していったが、最後はブライアンがクビ差で激闘を制した。3着馬とは9馬身が空いていた。
大いに盛り上がった競馬ファンやマスコミとは裏腹に、騎手2人は冷静だった。田原はどちらの馬もあくまで天皇賞・春の前哨戦で100%の仕上げではなかったとした上で「ブライアンは全く本調子ではなかった(それでも勝てなかった)」「自分の仕掛けが早すぎた。もう1・2呼吸我慢できれば勝てていた」とレース運びを悔やんでいる。一方武も、「勝つには勝ったが、全盛期のブライアンの姿を引き出すことはできなかった」と述べている(結果的に、これがナリタブライアンの現役最後の勝ち鞍となった)。
オルフェーヴルの珍走
第60回(2012年3月18日)。
競馬ファンの間で阪神大笑点とも称される珍レース。
勝馬は3番人気の4歳馬ギュスターヴクライ(福永祐一)。前年はクラシックに出場できず、この年の2月にやっとオープン馬に昇格できた彼にとっては会心の重賞制覇だった。
しかし、このレースの主役は2着のオルフェーヴル(池添謙一)だった。前年破竹の勢いで三冠馬に輝き、有馬記念でも豪快な末脚で3歳にしてグランプリ制覇、「4冠馬」となった彼の新年始動戦。当然のように単勝1.1倍の圧倒的1番人気、馬券予想は2着3着当ての様相を呈していた。
……だがオルフェーヴルはあの猛獣ことステイゴールド産駒、そして新馬戦と菊花賞の三冠達成後の2度、レース後に池添を振り落とした暴れ馬である。このレースでオルフェはその猛獣血統と暴れ振りを遺憾なく発揮することになる。
レースは3000mという距離を差し引いてもかなりトロトロとした展開で始まり、3番手付近につけたオルフェは池添がなだめながら進行するも明らかに焦れていた。1000m手前、あまりのペースの遅さを察した前年覇者ナムラクレセント(和田竜二)が一気に外からまくり先頭に立つ。
すると、他の馬にスーッと簡単に抜かせたことがオルフェの気に障ったらしい。池添の抑えもきかずナムラクレセントを抜きにかかり、向こう正面で捉えて先頭に立つ。そして第3コーナー、突如オルフェーヴルが外に向かって逸走し、失速し始めた。「どうした!?」「まさか故障か!?」と場内はどよめいた。
この動きについては、掛かったオルフェーヴルを抑えようとする池添の指示にやる気をなくしたとも、オルフェーヴルが向こう正面でレース終了と距離を勘違いしており、今日も圧勝だ、さて池添のヤツをまた振り落としてやるか、と外ラチ側に向かったのではないか、という分析もある。ところが、どんどん自分を抜いていく馬群を視界に見つけたオルフェは、まだ続いてたのか!とばかりに再加速を始めた。一旦ほぼ失速した馬とは思えない加速力で、ブチ切れ気味に大外からどんどん馬群を抜き去り先頭に迫る。結局、ロスなく走ったギュスターヴクライには半馬身届かぬ2着。
だが、速度ロスに加えて逸走で100mは余分に走っていたとみられ、それでも2着である。あさっての方向で次元の違う能力を見せつけたが、負けたことには違いなく、レース後の池添は「ファンに申し訳ない」と恐縮しきりだった。
一方で最終直線ではオルフェーヴルに抜かれた馬の騎手が揃ってオルフェーヴルを二度見。同レースでオウケンブルースリに騎乗していた安藤勝己は「戻ってきたー!」と叫び、勝ったギュスターヴクライに騎乗していた福永はゴール後にオルフェーヴルを二度見の後大爆笑した。
なお、最終直線で思いっきり内に斜行したことでレース審議、失格や降着は免れたが池添には過怠金10万円。そしてオルフェーヴルは大逸走により、史上初の『平地調教再審査を課された三冠馬』になるというオチがついた。
ゴールドシップ3連覇
第63回(2015年3月22日)
このレースで唯一の3連覇を達成しているのがゴールドシップである。
2013年には、実況者が前年のオルフェーヴル(ゴルシと同じくステマ配合である)の逸走に触れて不穏な空気を漂わせるのを他所に、得意の最後方からのロングスパートでごぼう抜き。
2014年は2番手追走から4角で楽々抜け出す母父メジロマックイーンを思わせる走り、どちらも役者が違うぜと言わんばかりの盤石のレースで2連覇を果たしていた。しかし、肝心の天皇賞・春は2度フェノーメノに屈し、天皇楯には手が届かずにいた。
2015年の同レースは道中中位で進行。2周目向こう正面から仕掛け、4角で先頭、最終直線で牝馬デニムアンドルビーの追走を受けるもこれを退け、見事3連覇を達成した。
とにかくゴールドシップはこの阪神競馬場に相性が良かったのである。この阪神大賞典3連覇の時点で、同コースでは7戦(すべて重賞)で1着6回・2着1回という素晴らしい成績を残していた。
阪神大賞典3連覇の勢いを駆って向かった5月3日の春天、ゴールドシップは三度目の正直でついに天皇楯を手にした。草葉の陰で母父マックイーン、そしてさらに先祖のメジロティターンやメジロアサマも喜んだことだろう。
次のレースは6月28日、前馬未踏の芝同一GⅠ3連覇がかかった宝塚記念である。舞台は得意の阪神、ついに天皇賞も獲った今のゴルシならいける!……みんなそう思っていたんです。