誘導
ウマ娘についてはメジロブライト(ウマ娘)へ
君の使命
その冠を
戴いたものが
果たすべき
つとめを知れ
刻むべき
歴史を知れ
臆するな
万来を乗り切る
たくましさを
君は持っている
- 名馬の肖像 2020年天皇賞(春)より
概要
父メジロライアン、母レールデュタン、母父マルゼンスキーという血統。
名前の由来はメジロ牧場の冠名「メジロ」+特急「かがやき」。
通算戦績25戦8勝、2着8回。
父のメジロライアンは1991年の宝塚記念勝ち馬で、同期のメジロマックイーン、メジロパーマーと共にメジロ牧場の誇る名馬であった。
しかし彼らの引退後、メジロ牧場は不調が続いており、メジロブライトも生まれたときは貧相な肉体から期待されていなかった。
1996年に函館競馬場でデビューしたときも最低人気だったが、それを覆して勝利する。
しかし勝ち時計は1800m戦にもかかわらず2分01秒6と、2000m並みの遅いタイムだったため、低評価は変わらなかった。
走破タイムは他の馬の動き(特に逃げ馬の有無)や芝の状態によって変わるものだが、当時はまだタイムの遅い馬を極端に低く評価する傾向があった。
だがメジロブライトはスタートで出遅れたにもかかわらず、函館競馬場の262mしかない最終直線で5頭をごぼう抜きしており、力の片鱗を見せていた。
続いてデイリー杯3歳Sの2着を経て、松永幹夫を鞍上にラジオたんぱ杯3歳S(当時GIII)と翌年の共同通信杯(GIII)を勝ち重賞2連勝。
これによって一躍クラシックの有力候補に踊り出て、1番人気で皐月賞へと出走する。
しかし有力馬同士が後方で牽制しあったこともあり、11番人気サニーブライアンら人気10番代の馬たちによる首位独占を許してしまい、4着。
それでも強力な末脚を発揮したこと、勝ったサニーブライアンがまぐれ勝ち扱いだったことから日本ダービーでは再び1番人気となる。
だがまたしてもサニーブライアンがペースを完全に掌握して逃げ切り、フロックでも何でもなく二冠を達成してしまう。
メジロブライトはマークしてきたシルクジャスティスにも差し切られ、3着に終わった。
サニーブライアンが屈腱炎で回避した菊花賞でもマチカネフクキタルの豪脚に屈し3着。
牝馬戦線では同じ父を持つメジロドーベルが二冠を達成したのに対し、ブライトは父同様に期待されながらクラシックは勝てなかった。
しかしステイヤーズS(芝3600m GII)にて後続を12馬身ぶっちぎり、クラシックの鬱憤を晴らすかのような大差勝ちを決める。このときは松永がスケジュール上の都合で騎乗ができず、代理で河内洋が騎乗。河内との相性の良さから陣営はコンビ継続を決定し、以降も河内が引き続き騎乗することとなった。
翌1998年にはAJCC(GII)、阪神大賞典(GII)と連勝し、ついに天皇賞(春)にてGI初制覇を果たす。
マックイーン以来のメジロ軍団による春天制覇に、杉本清アナウンサーは「メジロ牧場に春! 羊蹄山の麓に春!」と実況した。
これにより祖父アンバーシャダイ⇒父メジロライアンに続き親子3代GI制覇を達成した。
しかし続く宝塚記念ゲートの中で暴れ外枠発走となり、11着に惨敗。
秋の京都大賞典では逃げたセイウンスカイを捉えられず2着、天皇賞(秋)では故障したサイレンススズカを避けて外へ膨らんでしまい5着となる。
有馬記念でも怪我から復活したグラスワンダーの猛烈な末脚を捉えきれず2着。
1999年には日経新春杯で重賞7勝目を上げるが、阪神大賞典と春の天皇賞で連続2着。勝ったのは両方ともスペシャルウィークである。
秋の京都大賞典では2着に食いこめたが、その後は天皇賞11着、有馬記念5着と振るわなかった。
2000年には屈腱炎を発症し休養。
秋の京都大賞典(鞍上は石橋守)で復帰するが往年の力は戻らず、8着に敗れ引退した。
ノーザンテースト系の後継種牡馬の筆頭であったが、2004年に10歳で夭折。
元々受胎率が低かったこともあって産駒自体が少なく、ステイヤーズステークスを親子制覇したマキハタサイボーグ以外に活躍馬は出なかった。
そしてそのマキハタサイボーグがセン馬であったため、日本国内におけるノーザンテースト系は実質途絶えてしまった。
ライバルのシルクジャスティスとは8勝2敗、ステイゴールドとは8勝3敗、セイウンスカイとは2勝2敗だった。
強さと弱点
メジロブライトの強さはスタミナに物を言わせたロングスパートだった。
だがスタートダッシュが苦手で瞬発力がないため、先頭に立ってペースを掌握するサニーブライアンやセイウンスカイ、先行から猛ダッシュをかけるグラスワンダーやスペシャルウィークなどとは相性が悪かった。
よりにもよって、『黄金世代』とまで呼ばれる後輩たちにそういう相性の悪い馬が揃っていたのは、不運としか言いようがない。
しかしそれでも馬券に絡めたレースは多く、怪我に泣かされた同期が多い中で長らく最前線で戦い続けた。