英雄は東北から来た。
日本競馬史上ただ一頭、地方から中央を制した馬。
メイセイオペラ。栗毛の来訪者。
時代は外から変わってゆく。
砂の王者へ。フェブラリーステークス
2013年JRA CM「THE LEGEND」より
名馬の肖像
果断なる者
勝算と自信をわらう声に
いまはまだ
甘んじるとしよう。
けれどこれだけは確かだ。
きっと君たちも
認めざるを得なくなる。
無謀の先に
未来はひろがり
挑戦の果てに
偉業は成されるのだと。
≪2018年フェブラリーステークス≫
プロフィール
生年月日 | 1994年6月6日 |
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死没 | 2016年7月1日 |
性別 | 牡 |
毛色 | 栗毛 |
父 | グランドオペラ |
母 | テラミス |
母の父 | タクラマカン |
5代内のインブリード | Northern Dancer3×4 / Almahmoud5・5(父内) |
競走成績 | 35戦23勝 |
産地 | 北海道平取町 |
生産牧場 | 高橋啓牧場 |
管理調教師 | 佐々木修一(水沢) |
馬主 | (有)明正商事 |
生涯
父グランドオペラ、母テラミス、母の父タクラマカン。
生まれた当初は馬体が小さく、競走馬になれるのかどうか不安視されたが、物は試しにと夜間放牧をしてみたところ中央デビューも視野に入るほど立派な馬体に成長した。
盛岡・水沢競馬の佐々木修一厩舎に入厩。1996年7月にデビュー。新馬戦は勝ち上がるがしばらく勝ちきれず、年の暮れにようやく勝ち星を挙げるとそこから一気に連勝し、1997年、東北ダービー、不来方賞を制し1997年東北クラシック戦線の中心になると同時に、「トウケイニセイの再来」と騒がれ始める。ところが、馬房で暴れて頭蓋骨骨折の重傷を負ってしまう。治療の甲斐あってなんとか回復はしたものの、地元のダービーグランプリで10着、大井のスーパーダートダービーも10着。だが年末の桐花賞で古馬相手に1着をとり復調。
1998年、古馬となってからは南関東船橋の雄・アブクマポーロとの「AM対決」が話題を呼んだ。まず川崎記念では4着敗退、休養明け帝王賞でも3着敗退。しかしこの後マーキュリーカップ(G3)を勝ちダートグレード競走初勝利を手にすると、アブクマポーロをホームで迎え撃つ形となったマイルチャンピオンシップ南部杯(G1)でついに1着。
しかし、年末の大一番・大井の東京大賞典では再びアブクマポーロの2着に屈した。
実況:塩原恒夫
そして1999年。
アブクマポーロが川崎記念に向かった一方、メイセイオペラ陣営は、自身が活躍できる「ダート1600m」の舞台を求め、東京・府中に向かう。選んだのはフェブラリーステークス出走であった。当日、フジテレビの解説陣にもややぞんざいに扱われながら、本番レースではまったく危なげないレース運びで圧勝。JRA史上初、地方所属の馬が、地方所属のまま、JRAのGIを勝利した。レース後は岩手から駆けつけていたファンにより、鞍上の菅原勲騎手へ「イサオ」コールが湧き上がった。
2024年の現在に至るまで、この後に続いた地方馬は存在しない。メイセイオペラはいまだもって史上唯一の記録を保持している馬なのである。
その後は夏の帝王賞に向かう。アブクマポーロが故障で不在(後、引退)ならば他に敵はおらず、圧勝。
この後南部杯へ向かうはずが、右前球節炎のため回避療養。以後の出走計画にも狂いが生じ、東京大賞典、2000年のフェブラリーステークス、帝王賞と勝てないレースが続いた。そんな中でも地元のみちのく大賞典では1着、同レース三連覇を成し遂げ意地を見せたが、屈腱炎を発症し、ついに引退。通算成績、35戦23勝。
1998年マイルチャンピオンシップ南部杯
1999年帝王賞
引退後
2000年を最後に引退してからは種牡馬入りし、2006年に韓国へ輸出され韓国でも産駒が活躍する。
また、盛岡競馬場ではメイセイオペラを偲んで、かつてメイセイオペラも勝利した交流重賞・マーキュリーカップに翌年からメイセイオペラ記念の副称を付ける運びとなり、現在もレース名にメイセイオペラの名は刻まれている。
余談
- 母のテラミスが生産牧場に来た当時、その牧場は数ある零細牧場の一つに過ぎず、テラミスを受け入れたのは預託料を少しでも貰えるようにという理由からであった。テラミスにグランドオペラを配合したのもテラミスの馬主である小野寺氏の「種付け料が安く、産駒が少しでも長く走れたら馬主的に楽しめる」という考えから。
- メイセイオペラがデビューした時には馬主の小野寺氏は病魔に侵されて末期の状態であり、デビュー1ヶ月後にこの世を去った。フェブラリーステークスでは馬主資格を引き継いだ小野寺氏の妻が観戦に訪れ、遺影を高く掲げて「あなたの馬が先頭を走っているわよ!!」と叫んだ。
- 水にこだわりを持っており、遠征先の水を飲まないことが殆どであった。このため厩舎スタッフは常に地元から水を運んできていたが、その輸送コストは相当な負担になっていた。長期滞在の時に遠征先の水を飲まないか試してみたものの、お気に召さなかったのか殆ど飲まなかったという。
関連タグ
マーキュリーカップ:レース名の副題になっている。