シーキングザパール
しーきんぐざぱーる
性別 | 牝 |
---|---|
毛色 | 鹿毛 |
父 | シーキングザゴールド |
母 | ページプルーフ(母父:シアトルスルー) |
生産者 | レイジー・レーン・ステーブルズ(ヴァージニア州) |
馬主 | 植中倫子→植中昌子→ジェイエフビーステーブルズ(ニュージャージー州) |
調教師 | 佐々木晶三(栗東)→森秀行(栗東)→アラン・E・ゴールドバーグ(ニュージャージー州) |
生涯成績 | 21戦8勝 |
真珠のきらめき
誰も見たことない
輝きを探し出して
胸に飾ろう
たとえば海の底に眠る
人魚の涙
あるいは潮に流された
月のしずく
その光のかけらは
私の胸でこそ
明るくきらめくはずだ
≪「名馬の肖像」2019年NHKマイルカップ≫
※馬齢は旧表記。
1994年
4月16日、レイジー・レーン・ステーブルズ(ヴァージニア州)で誕生。
1995年
7月、キーンランド・セールに上場されたが売れず、主取となった。その後、日本の植中昌子の目に留まり、庭先取引により18万5000ドルで購入され、サンデーサイレンスが生まれたストーンファーム(ケンタッキー州)で育成された。
11月、日本へ輸出される。ノーザンファーム(早来町)で育成調教を積まれた。
1996年
5月、栗東の佐々木晶三厩舎に入厩。当初はそれほど期待されていなかったが、調教での走りが栗東で評判となる。
7月20日、武豊騎手を鞍上に小倉競馬場の3歳新馬戦(芝1200m)でデビュー。2着に7馬身差を付けて1着。
9月1日、新潟3歳ステークス(GⅢ)に出走。スタート直後外に向かって逸走し、直線で追い込んだもののパーソナリティワンの3着に敗れた。
10月19日、デイリー杯3歳ステークス(GⅡ)に出走し、メジロブライトに5馬身差をつけてレコード勝ち。重賞初勝利となった。
12月1日、阪神3歳牝馬ステークス(GⅠ)に出走。途中まで順調だったが最終直線で謎の失速を見せ、メジロドーベルの4着に敗れる。
1997年
1月15日、シンザン記念(GⅢ)で始動し1着。
2月5日、森秀行厩舎へ転厩。馬主と佐々木調教師との間でローテーションに関する対立があった。前年新設されたNHKマイルカップ(GⅠ)を目標に調教が積まれる。
3月15日、フラワーカップ(GⅢ)に出走し1着。この後は中団に控えて最終直線で差す作戦を多用するようになる。
4月20日、ニュージーランドトロフィー4歳ステークス(GⅡ)に出走し1着。
5月11日、NHKマイルカップに出走し1着。GⅠ初制覇となる。最後の200メートルは持ったままで、余裕の勝利だった。
9月21日、ローズステークス(GⅡ)に出走。最終直線で伸びが見られず、キョウエイマーチの3着に敗れる。その後、秋華賞に向けての調整中に喉頭蓋エントラップメント(喉鳴り)に罹っていることが判明し、手術を受け休養に入る。この手術以来、シーキングザパールは以前より神経質な性質となった。
1998年
4月26日、休養明けでシルクロードステークス(GⅢ)に出走。ハイペースの展開となったが、マサラッキをクビ差かわして1着。
5月24日、高松宮記念(GⅠ)に出走するが馬場は稍重で、シンコウフォレストの4着に敗れる。
6月14日、安田記念(GⅠ)に出走するが苦手な不良馬場で、タイキシャトルの10着に敗れる。タイキシャトル陣営はレース後、フランス遠征を表明。森調教師は「ちょうどいいから検疫一緒に受けたろ」という事でシーキングザパールをフランスへ向かわせる事とした(海外遠征の話は以前からあった)。
当初はジャックルマロワ賞への出走を考えていたが、タイキシャトルが出走する事になったため『タイキシャトルには勝てない』と判断し、かつてドージマムテキを出走させようと考えていた短距離GⅠのモーリス・ド・ギース賞(1300m、直線コース)に変更した。
7月22日、イングランドへ到着。森調教師はニューマーケット競馬場(サフォーク州)のウッドチップのコースでシーキングザパールの調教を積むこととした。
8月6日、イギリス海峡をフェリーで渡り、ドーヴィル競馬場(ノルマンディー)入り。
8月9日、モーリス・ド・ギース賞に出走。当日は快晴で馬場も乾いていた。スローペースの中、押し出される形で先頭に立ち、そのままゴール。日本調教馬による初の海外GⅠを制した。1分14秒70のタイムはレースレコードで、15年間にわたり保持された。インタビューを受けた森調教師は「来週出走するタイキシャトルはもっと強いですよ」と答えたため、ジャック・ル・マロワ賞でのタイキシャトルの単勝オッズは一時1.1倍になった。シーキングザパールはニューマーケットに戻って調教を続けた。
9月6日、ロンシャン競馬場のムーランドロンシャン賞(GⅠ)に出走するが、前走での勝利で徹底マークされ、不良馬場もあってデザートプリンセスの5着に敗れた。
9月10日、帰国。
11月22日、騎乗停止中の武騎手に代わり河内洋騎手を鞍上にマイルチャンピオンシップ(GⅠ)に出走するが、タイキシャトルの8着に敗れた。
12月20日、鞍上が武豊騎手に戻り、スプリンターズステークス(GⅠ)に出走し、同父のマイネルラヴの2着に敗れた。後方待機から最終直線でタイキシャトルを差すという会心のレース運びで、武騎手は「まさかもう1頭いるとは思わなかった」と語った。
1999年
1月9日、馬主の森が突如アメリカ遠征を発表。
1月23日、サンタニアパーク競馬場(カリフォルニア州)でサンタモニカハンデキャップ(GⅠ)に出走するが、ストップトラフィックの4着に敗れた。
5月23日、高松宮記念に出走し、マサラッキの2着に敗れた。
6月13日、安田記念に出走し、エアジハードの3着に敗れた。
7月、JRAの登録を抹消され、ジェイエフビーステーブルズ(ニュージャージー州)に移籍した。離日し、アラン・ゴールドバーグ厩舎(ニュージャージー州)に入厩。
10月2日、ジョン・ヴェラスケス騎手を鞍上にベルモント競馬場(ニューヨーク州)のノーブルダムゼルハンデキャップ(GⅢ)に出走し、クンブメーラの4着に敗れた。
10月17日、カルロス・ロペス騎手を鞍上にローレル競馬場(メリーランド州)のローレルダッシュステークス(GⅢ)に出走し、グレイプショットの7着に敗れた。このレースを最後に引退した。
2000年
ケンタッキー州の名門・クレイボーンファームで繁殖牝馬となる。
2005年
6月10日、レーンズエンドファーム(ケンタッキー州)の放牧地で死んでいるのが発見された。状況から落雷に遭ったものであろうと推測された(11歳)。
シーキングザダイヤ、ダイヴ、シーンファインドの3頭のみ。
シーキングザダイヤは日本に輸出され、アーリントンカップ、ニュージーランドトロフィーなどで勝利したが、GⅠでの2着が9回というJRA記録で知られている。
ダイヴとシーンファインドは繁殖牝馬となった。
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