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サンデーサイレンス

さんでーさいれんす

アメリカ出身の元競走馬・元種牡馬(1986~2002)。主な勝ち鞍は1989年のアメリカクラシック二冠(ケンタッキーダービー・プリークネスステークス)、ブリーダーズカップ・クラシック、サンタアニタダービー、スーパーダービー、1990年のカリフォルニアンステークス。見栄えのしない馬体と地味な血統を覆して現役時代はGⅠ6勝を挙げ、日本で種牡馬入りした後はあらゆる分野に一流の競走馬を輩出、日本競馬史上最高の種牡馬と名高い存在となった。1989年エクリプス賞最優秀3歳牡馬・同賞年度代表馬。
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『運命に噛み付いた馬』


データ編集

馬名Sunday Silence
性別
毛色青鹿毛
生誕国アメリカ
誕生日1986年3月25日
現役期間1988年1990年
死没日2002年8月19日(16歳没)
血統父:Halo/母:Wishing Well/母父:Understanding
生涯戦績14戦9勝(GⅠ6勝・2着5回 生涯連対率100%)
通算獲得賞金$4,968,554

生涯編集

誕生~デビューまで編集

1986年3月25日アメリカで誕生。

父はヘイロー(Halo。キングヘイローの母グッバイヘイロー(Goodbye Halo)の父)、母はウィッシングウェル(Wishing Well)、

母の父はアンダスタンディング(Understanding)。


生まれた頃は見栄えのしない容貌で「あんなに酷い当歳馬(0歳馬)は見たことがない」「見るのも不愉快だ」とまで言われ、さらに脚が内側に曲がっていた(人間で言うと内股)ことで推進力がないと見做され売れなかった。


また、不幸なエピソードも多く、生後8ヶ月の1986年11月にウイルス性の腸炎に罹り生死の境を彷徨い、セールの帰り道には馬運車の運転手が運転中に心臓発作を起こし、馬運車が横転。運転手はそのまま死亡、同乗していた馬はサンデーサイレンス以外全員亡くなり、サンデーサイレンス自身もこの事故で大怪我を負い、しばらくまともに歩くことすらもできなかった。


また、父のヘイロー、母ウィッシングウェルが両方気性難だったこともあり、幼少期から気性難であった。これらが重なり、競走馬時代はその気性の荒さから騎手が「こんな馬に乗っていられるか!」と騎乗を拒否した事もあった。


こんな馬がアメリカのみならず、日本まで多大な影響を及ぼす馬になるとは、まだ誰も知らなかった。



競走馬時代編集

先述したことが重なり、結局生産者であるアーサー・ハンコック3世自身の馬としてデビューさせることになったが、入厩先のチャーリー・ウィッティンガム調教師だけはサンデーサイレンスの素質を見抜いており、「あの黒い奴は走るぞ!」と報告したら馬主は驚いたという。

1988年10月30日にデビューし2着。11月の未勝利戦で初勝利を飾るが、続いて挑んだ一般競走では2着。1勝でデビューシーズンを終えた。

1989年は始動戦の一般競走を快勝。勢いそのままにG2・サンフェリペハンデキャップを出遅れながらも快勝し、G1初挑戦となるサンタアニタダービーでは2着に11馬身を付ける大圧勝。

この圧勝劇で「ダービーを勝てる」と確信したウィッティンガム師は、サンデーサイレンスをクラシックの大舞台へと向かわせ、最大のライバル・イージーゴアとクラシックを争った。


三冠への挑戦・ライバルとの激突編集

アメリカ三冠の第一戦・ケンタッキーダービーでは、前日にチャーチルダウンズ競馬場付近に降った大雨の影響で、5月なのに摂氏6.1℃という極寒の重馬場の中で行われた。そんな中でもサンデーサイレンスは他馬を吹っ飛ばす・直線でヨレまくると荒々しい走りながらも、2着のイージーゴアを2馬身突き放して快勝。1冠目を勝ち取った。この勝利でウィッティンガム師は「この馬は三冠馬になる」と宣言した。


続く第二戦・プリークネスステークスを迎える一週間前、調教でサンデーサイレンスは右前足を跛行。しかし、持ち前の回復力と陣営の努力でわずか3日で持ち直した。

しかし、異常な回復の早さにマスコミは「やましいことでもやってるんじゃないか?」というあらぬ疑いを立てていた。加えて、報道陣や観客に開放されているピムリコ競馬場の馬房で連日の取材攻勢を受け、サンデーサイレンスはイラつきを見せたため、とうとう我慢の限界が来た陣営は馬房の扉を締め切ってしまった。この事も疑いを加速させた一因となってしまった。

迎えた本番では、向正面からイージーゴアはサンデーサイレンスと馬体を合わせ、サンデーサイレンスの進路をカットするように位置を取った。しかし、サンデーサイレンスはその更に外に回り込み、イージーゴアをラチ際へ押し込むようにして進出。そのまま直線に突入し、ニ頭はお互いにメンチを切るような形のマッチレースとなり、そのままもつれるようにゴールイン。判定の結果、わずか数センチのハナ差でサンデーサイレンスが勝利。2冠馬となった。


三冠最終関門・ベルモントステークスでは「アファームド以来の三冠達成なるか!?」と大盛り上がり。生まれも育ちもまるで違う、「持つ者」・イージーゴアと「持たざる者」サンデーサイレンスの最終決戦に観衆は大いに沸き立った。

しかし、ベルモントステークスが行われるベルモントパーク競馬場イージーゴアにとってはホームグラウンドのようなもの。ここで負けるわけには行かないイージーゴア陣営は闘志を滾らせていた。

本番では三冠がかかったサンデーサイレンスは初めて1番人気に支持された。しかし、レースではイージーゴアがひたすらに強かった。ハイペースで仕掛けを遅らされたサンデーサイレンスは、直線でイージーゴアに8馬身差を付けられて2着。イージーゴアが最後の意地を見せ、三冠達成はならなかった。


レース後、ウィッティンガム師はサンデーサイレンスの敗因を「ウィッシングウェル由来のマイル適正」にあると分析。しかし、その一方で「マイルから10ハロン(約2000m)がベストの距離でいけないことは何一つない。『このタイプの馬が種牡馬としては一番成功する』と皆が言うじゃないか?」とさながら後の予言とも取れるコメントを残していた。


ブリーダーズカップ・年度代表馬を賭けた決戦編集

三冠を逃したサンデーサイレンス陣営は、次なる目標をアメリカ競馬の祭典・ブリーダーズカップのトリを飾る全米ダート最強馬決定戦・ブリーダーズカップ・クラシックに定めた。

しかし、クラシックの連戦の影響か、調子を崩したサンデーサイレンスはG2・スワップスステークスゴール目前に失速。2着となった。

これを見たウィッティンガム師はサンデーサイレンスは休息を要すると判断。2ヶ月の休養期間に入った。

一方、ライバルのイージーゴアはサンデーサイレンスの休養中に古馬相手のG1を4連勝し絶好調。年度代表馬へ向けて好調な滑り出しとなっていた。

休養を終えたサンデーサイレンスはルイジアナタウンズ競馬場のG1・スーパーダービーで復帰。6馬身差を開く圧勝で復活をアピールし、決戦へと向かう事となった。


そして迎えたブリーダーズカップ・クラシック。復活を遂げたサンデーサイレンスと、古馬を蹴散らしG1を5連勝でやってきたイージーゴアの最終決戦の場はガルフストリームパーク競馬場「勝ったほうが年度代表馬」と言われた世紀の大勝負に盛り上がりを見せた。


本番ではスタートでイージーゴアがまさかの出遅れ。サンデーサイレンスはそんなイージーゴアを後目に3~4番手を追走する。サンデーサイレンスは先頭で直線に立ち、突き放しにかかるが、沈んでいたはずのイージーゴアが突如復活。猛追をかける。逃げるサンデーサイレンス、追うイージーゴア。徐々にその距離は狭まり、ついにイージーゴアがサンデーサイレンスを捉えたところがゴール地点。判定の結果はサンデーサイレンスがクビ差を抑えて優勝。

更にはコースレコードも更新。世紀の大激戦を制したサンデーサイレンスはこの年のエクリプス賞・年度代表馬を受賞した。


落日、そして引退へ…編集

1990年。「古馬になれば更に強くなる」と踏んでいたウィッティンガム師はサンデーサイレンスの現役続行を決める。しかし、サンデーサイレンスは徐々に精彩を欠き始めていた。

ブリーダーズカップの激闘の反動は大きく、複数箇所の故障を発生し、調整が遅れたサンデーサイレンスは、6月のG1・カリフォルニアンステークスを始動戦とし、これを勝利。しかし、続くG1・ハリウッドゴールドカップでは後の年度代表馬であるクリミナルタイプをクビ差で捉えきれず2着に終わった。

この後はイージーゴアとの再戦としてアーリントンパーク競馬場にて特別レースが開催される予定だったが、直前にイージーゴアが種子骨を骨折し引退。その後を追うようにサンデーサイレンスも靭帯に致命的な損傷を負い、競走能力を消失。引退となってしまった。


通算成績は14戦9勝(うちGⅠ6勝)2着5回で、全競走で連対(2着以内)を外さなかった。

タイトルとしても年度代表馬、最優秀三歳牡馬を獲り、アメリカ競馬殿堂入りもしている文句なしの怪物である。

これだけでも十分名馬の領域であるが、彼の本領はむしろ引退してからであった。


種牡馬時代編集

イージーゴアとの対決はアメリカの競馬ファンを魅了したものの、関係者からはその馬体に関して「目を瞑って済ませられるレベルではない酷さ」「同じ見た目の馬が1000頭いたとしたらそのうち999頭は未勝利すら勝てない」、「あれは突然変異」などと当歳時からの評価は変わらなかった。

引退後は種牡馬入りしてシンジケートを組む予定だったが、母方が全く活躍していないためそこを重視するアメリカでは全く見込まれず、種付けの希望を出した生産者はわすか2名。

さらにライバルのイージーゴアが超良血の血統だったことから、アメリカではなかなか買い手が付かず、更にオーナーの牧場が経営難に陥ってしまう。そんな中、かねてから購入を希望していた日本の社台グループのオーナー・吉田善哉が買い取った。


BCクラシックのタイミングで所有権の25%を250万ドル、種牡馬入り後、残りの75%を850万ドルで購入。計1100万ドルで、当時の日本円に換算すると約16億5000万円。ちなみに、この輸入は種牡馬ノーザンテーストの成功があったから出来たことだった。

なお、当時のアメリカの生産者の間では「日本のブリーダーがとても成功しそうにない血統の馬を買っていったぞ!」と笑いものにされていたそうである。

しかし、そんな悪評も吉田善哉本人はどこ吹く風で「いい買い物をした自信がある」と自信満々のコメントを残していた。ノーザンテーストを酷評されても自信満々だった息子そっくりである。


日出る国へ編集

購入されたサンデーサイレンスは1990年に来日。遠い異国の地で種牡馬として第二の生を送る。種牡馬入に関しては初年度にもかかわらず、4150万×60口、総額にして約25億円のシンジケートが組まれたのだが、即座に満口になった

吉田善哉自身は産駒のデビューを待たずに1993年に死去してしまったが、彼の目に狂いはなかった。

1994年に産駒がデビューを果たすと、フジキセキ朝日杯3歳ステークス(現・朝日杯フューチュリティステークス)を勝利し、いきなりGⅠ勝利を達成。

フジキセキは故障により早期引退となったが、続く1995年には、ジェニュイン皐月賞ダンスパートナー優駿牝馬(オークス)、タヤスツヨシ東京優駿(日本ダービー)を優勝し、日本の馬場への適応の高さを見せ、「サンデーサイレンス旋風」と呼ばれるブームを巻き起こした。

アメリカの競馬関係者もこの結果には耳を疑うしかなかったという


その後も産駒が次々と大競走を勝利し、リーディングサイアーの座を死ぬまで譲らなかった。

具体的に言うと、1995年から2007年にかけてリーディングサイアーの座を一度も譲っていない(亡くなったのは2002年)。16歳で没した種牡馬が13年連続リーディングってどういうことなの……

産駒の日本ダービー優勝数は6度であり、これは戦前の大種牡馬トウルヌソルと並んで最多である(2021年にディープインパクトが更新)。

また、2003年スティルインラブ牝馬三冠を達成し、2005年にディープインパクトがクラシック三冠を達成したことで、牡牝両方で三冠馬の父になった。

単純に繁殖成績が凄いというだけはなく、短距離馬・中距離馬・長距離馬・逃げ・先行・差し・追い込みに加えてダート馬も出すなどバリエーションに富んだ馬を出したことが偉大な成績と言える(最高傑作と言われたディープインパクトが似たような量産型しか出せなかったのと対照的)。

また、後継種牡馬も豊富であり、2008年、2009年は産駒のアグネスタキオン、マンハッタンカフェがリーディングサイアーを獲得。そして、2012年以降現在まで産駒ディープインパクトがリーディングサイアーを獲得している。

端的に言うと、1995年以降、2010年・2011年のキングカメハメハを除いて自分か息子がリーディングサイアーの座を独占し続けている。コイツの遺伝子どうなってんの???


ブルードメアサイアー(母方の祖父の馬)としても優秀で、リーディングブルードメアサイアーの座を2007年にノーザンテーストから奪い、2020年にキングカメハメハに奪取されるまで首位を守った。


産駒の通算勝利数2749は自身の最高傑作たるディープインパクトに更新されるまでは単独1位。重賞勝利数311、GⅠ勝利数75は未だJRA単独1位となっている。

子世代においても親越えを果たしたディープインパクトをはじめに、フジキセキ、ハーツクライ、ステイゴールド、スペシャルウィーク、マンハッタンカフェ、アグネスタキオン、ゴールドアリュール……等々、幾多の名種牡馬を輩出し、文字通り自らの血で日本競馬を丸ごと塗り替えてしまった

現在の日本競馬において、サンデーサイレンスの血が流れていない日本生まれでの競走馬はきわめて少なく、一時期はGⅠ出走馬全員がサンデーの子、或いは孫というのも珍しくなかった。サンデーの子世代も種牡馬として次々と成功を収めたことにより、内国産種牡馬の保護を目的とした「父内国産馬」という括りが2008年に廃止されるまでに至っている。


欧州においても、ハットトリック産駒のダビルシムが注目を集めるなど、その影響力は日本国内に留まらない。またサンデーサイレンスの故郷アメリカでは2005年に孫のシーザリオが、2021年に同じく孫のラヴズオンリーユーとひ孫のマルシュロレーヌが日本産馬として米G1レースを勝利したことは、前述のとおり吉田善哉氏を笑い者にしたアメリカの競馬関係者たちの度肝を抜いたことであろう。

一方、急激に勢力を伸ばしたことでハイフライヤーセントサイモンのような血の飽和・閉塞による衰退が危惧され、諸外国から新たな種牡馬や繁殖牝馬が多く導入されている。そんな中で最も大きな成功を収めたのが、持込馬として日本で産まれ競走馬としても活躍したキングカメハメハだろう。これら関係者の努力もあって、2020年代に入るとサンデーサイレンスの4×3のインブリード(いわゆる「奇跡の血量」)を配合しやすい環境が整ってきている。

元々母系は超がつくほどのマイナー血統であるため選択肢にできる交配先は多く、関係者の努力のお陰で現在は衰退を回避できる見通しが立ってきている。

何はともあれ、JRA史上最高の種牡馬という評価は、おそらく今後も不動のものであろう。






『日曜日』は終わり、そしてまた朝が来る編集

2002年に入るとサンデーサイレンスは飼い食いが鳴りを潜めるなど衰えを見せ、「限界が近い」と囁かれるようになった。そして5月に負傷した傷から右前脚にフレグモーネを発症。原因の究明に時間がかかり、3度の手術を要したが7月に無事快方へ向かった…はずだった。

8月に入るとサンデーサイレンスの容態は急変。右前脚のフレグモーネを庇ったことが原因で蹄葉炎を発症し、そこから心不全を併発させ8月19日に死亡。まだ16歳(人間の50代半ばに相当)の若さだった。死の1週間前からは倒れたら二度と起き上がれないと悟ったのか、一睡もすることなく立ち続けていたという。

自らの死の運命にすらも正面から立ち向かう姿に、当時を知るライターの後藤正俊氏はこう語っている。

「こうなったら自分は死ぬ」ということをわかっていたんだと思う。

あんなに潔い死に対する姿勢は、初めて見ました。彼は、自分でけじめをつけようとしていた。そんな馬もいるんです。改めて、馬の品性というものを感じました。


サンデーサイレンスの亡骸は火葬され、現在は社台スタリオンステーションの一角に、自らを見出した吉田善哉の遺品と共に埋葬されている。


ラストクロップ(最後の世代)は2003年産まれであるが、フサイチパンドラエリザベス女王杯を勝利したことで、産駒全世代でGⅠ勝利を達成することとなった。


そして2015年には孫に当たる馬(父ハーツクライ)をアメリカ人馬主が購入し、その血をアメリカへ持ち帰った。

その馬は生産者であるノーザンファーム代表の吉田勝己氏(吉田善哉氏の次男)にちなんでヨシダと命名され、18戦5勝、GⅠ2勝(うち1勝は日本生産馬によるアメリカダートGⅠ初制覇)の戦績を上げ種牡馬入りした。

現地ではサンデーサイレンスの血の帰還に期待がかかっている。


運命に噛み付いた馬編集

全く期待されなかった馬体と雑草血統、デビュー前の二度の瀕死体験をも乗り越えて、競走馬・種牡馬として稀代の功績を残したサンデーサイレンス。

その馬生は度々童話の「みにくいアヒルの子」にも喩えられ、運命に噛み付いた馬とも呼ばれている。

ジャーナリストの合田直弘氏は、サンデーサイレンスという馬について以下の言葉を残している。


彼の精神は確かに、一時期捩れたかもしれない。だが、捩れた心は反骨心というバネとなり、闘争心に姿を変えて、底辺からのし上がっていく彼を支えた。

この馬が世間に出ていこうとした時の性根の座り方は、半端ではなかっただろう。戦いの場で彼を動かしていたのは、怒りであった。不遇の時代を強いた自らの宿命に対する怒りが、紅蓮の炎となって全身を包み、目の前に立ちはだかる者たちにぶつけられていったのだ。


サンデーサイレンスの馬主のアーサー・ハンコック三世は、自らの人生とサンデーサイレンスの馬生とを重ねていたという。ハンコックは父親の牧場を継ぐことが出来ず、サンデーサイレンスの幼少期と同じくつらい時期を抱いていた。

後に彼は「Sunday Silence」というサンデーサイレンスをテーマにした曲を作詞・作曲し、自らギターで弾き語りをすることがあったとの事。


その曲の歌詞の最後はこう締められる。


人生の結末なんて神様にしか判りはしない

だけどサンデーサイレンスが来たならバラの香りを思い出そう

立ち止まってたくさんの良い出来事を思い出そう

そうすればサンデーサイレンスはきっと見つかるさ


主な産駒編集

※競走名及び格付けは開催当時に準じる。

※名前横の☆は、年度代表馬受賞馬


GⅠ勝利馬編集

1992年編集

GⅠ:'94朝日杯3歳ステークス


GⅠ:'95皐月賞、'96マイルチャンピオンシップ


GⅠ:'95優駿牝馬


GⅠ:'95日本ダービー


GⅠ:'97宝塚記念


1993年編集

GⅠ:'95朝日杯3歳ステークス、'96天皇賞(秋)


GⅠ:'96皐月賞


GⅠ:'96菊花賞


※上記3頭にロイヤルタッチを加えた4頭は、「サンデーサイレンス四天王」(または「サンデー四天王」)と呼ばれた。


1994年編集

GⅠ:'98宝塚記念


GⅠ:'01香港ヴァーズ


1995年編集

GⅠ:'98日本ダービー、'99天皇賞(春秋)、'99ジャパンカップ


1996年編集

GⅠ:'98阪神3歳牝馬ステークス


GⅠ:'99日本ダービー


GⅠ:'01エリザベス女王杯


1997年編集

GⅠ:'00桜花賞


GⅠ:'00皐月賞、'00菊花賞


GⅠ:'00日本ダービー


1998年編集

GⅠ:'00朝日杯3歳ステークス


GⅠ:'01皐月賞


GⅠ:'01菊花賞、'01有馬記念、'02天皇賞(春)


GⅠ:'02スプリンターズステークス、'03高松宮記念


1999年編集

GⅠ:ジャパンダートダービーダービーグランプリ、'02東京大賞典、'03フェブラリーステークス


GⅠ:'03スプリンターズステークス、'03/'04マイルチャンピオンシップ


GⅠ:'04高松宮記念


2000年編集

GⅠ:'02阪神ジュベナイルフィリーズ


GⅠ:'03桜花賞、'03優駿牝馬、'03秋華賞

※史上2頭目の牝馬三冠達成


GⅠ:'03皐月賞、'03日本ダービー


GⅠ:'03/04エリザベス女王杯


GⅠ:'04天皇賞(秋)、'04ジャパンカップ、'04有馬記念

※史上2頭目の秋古馬三冠達成 産駒初の年度代表馬


GⅠ:'05天皇賞(秋)


GⅠ:'06高松宮記念


2001年編集

GⅠ:'04桜花賞、'06ヴィクトリアマイル(初代女王)


GⅠ:'04皐月賞、'06天皇賞(秋)、'06/'07マイルチャンピオンシップ、'07安田記念


GⅠ:'04優駿牝馬


GⅠ:'05天皇賞(春)


GⅠ:'05マイルチャンピオンシップ、'05香港マイル


GⅠ:'05有馬記念、'06ドバイシーマクラシック


2002年編集

GⅠ:'05阪神ジュベナイルフィリーズ


GⅠ:'05皐月賞、'05日本ダービー、'05菊花賞、'06天皇賞(春)、'06宝塚記念、'06ジャパンカップ、'06有馬記念

※史上6頭目のクラシック三冠馬 産駒2頭目の年度代表馬


GⅠ:'05秋華賞


GⅠ:'07高松宮記念


2003年産(最終世代)編集

GⅠ:'06エリザベス女王杯


GⅠ:'07有馬記念


ヴィクトリアマイルが創設された2006年時点の中央GⅠ(24個)で勝ったことがない競走は、

芝GⅠではNHKマイルカップジャパンカップダート(現チャンピオンズカップ)である。(これに関しては孫のディープスカイエスポワールシチーの二頭が達成している。)

また、障害GⅠの中山大障害中山グランドジャンプも勝ったことがないが、孫世代からはオジュウチョウサンが両レースを勝ち、中山グランドジャンプを5連覇するという前人未到の記録を残している。

また、2017年にG1になった年の大阪杯の勝ち馬はブラックタイド産駒キタサンブラックだった。

(G2時代はマーベラスサンデー、サイレントハンター、メイショウオウドウ、サンライズペガサス、ネオユニヴァースが勝利している)


また孫世代以降においてはウシュバテソーロなど海外のダートで活躍する馬もでてきている。産駒が日本のダートではさほど活躍できなかった中これはどういうことかというと、海外のダートと日本のダートの差異ではないかと見られている。アメリカをはじめとする海外の高速ダートは日本の芝に近く、元々アメリカダートを戦場としていたサンデーサイレンスが日本の芝に適応していたという考えである。

つまり海外ダートでの活躍は、むしろ血統の本来の適性が再確認されている自然な帰結とも考えられ、日本が世界の競馬に進出するようになってそれが顕になったと言えるだろう。


エピソード編集

ライバル・イージーゴアとの関係編集

三冠や年度代表馬の座を賭けて戦ったイージーゴアは、サンデーサイレンスとは様々な面で対照的な馬だった。

上述の通り恵まれない生い立ちから下剋上を果たしたサンデーサイレンスに対し、イージーゴアは生まれながらにして期待されていた超良血である。

レースにおいてもコーナリングではサンデーサイレンスが、直線での加速力ではイージーゴアが優っていた。

またサンデーサイレンスは西海岸、イージーゴアは東海岸が拠点のため、ファン同士の対立も激化していった(日本で言えば巨人ファンと阪神ファンのようなもの)。


サンデーサイレンスには苦汁を舐めさせられたがGIを9勝し、両親共に良血だったイージーゴアは種牡馬としても期待され、全米から種付け依頼が殺到した。

しかし8歳という若さで急死してしまったため、僅か136頭の産駒しか残せなかった。

その僅かな産駒の中からGI勝ち馬も出ているため、長生きしていれば大種牡馬になれた可能性もある。


小さな生き物への優しさ編集

基本的に人間や馬には激しさを見せるサンデーサイレンスだったが、犬や人間の乳児には優しさを見せることもあったという。

放牧地に放たれた犬と競走したり、赤ん坊に顔を近づけ、鼻を向けたと思ったら、そのまま顔を上げてじっと赤ん坊の方を見つめ、踵を返した。といった話が残っている。


サンデーサイレンスの恋人?編集

日本で種牡馬入りした後、サンデーサイレンスの隣の放牧地に同じく種牡馬入りしたメジロマックイーンがやってきた。

気性の荒いサンデーは威嚇しまくったが、マックイーンはやはり大物というべきか完全に無視していた

だがしばらくするとサンデーはマックイーンを気に入ってしまい、マックイーンも悪い気はしなかったようで、恋人と称されるほど仲良くなったという。

事実2頭が柵越しに見つめ合っている写真があるほか、マックイーンの現役時代に調教助手を務め、引退後も何度もマックイーンに会いに行った池江泰寿調教師も「サンデーはマックイーンが大好きだった」と証言している。

サンデーは放牧地に入ってくると、マックイーンが隣にいてもまずは放牧地を走り回るが、マックイーンは釣られて騒いだりはせず、のんびり草を食べていて、しばらくすると『お前、何を騒いでいるんだよ』といった感じでサンデーへ寄っていく。するとサンデーも落ち着いて、あとは二頭でスーッと歩いていったという。(出典:黄金の旅路 人智を超えた馬・ステイゴールドの物語)

また、サンデーはマックイーンより先に放牧されると、『アイツはどうした?』とばかりに暴れてしまうので、二頭の放牧の順番はいつもマックイーンが先と決められていたそうだ。(出典:同上)

サンデーとマックイーンが一緒に放牧地を走る際には、マックイーンが左回りの時は、サンデーは右回りといったように必ず一点で顔が合うという周り方をしており、バッタリと顔を合わすと立ち止まり、また走るといったことを繰り返していたという。


2000年代に入ると双方の血を引く孫たちが色々な意味で大暴れすることになるが、彼らは2頭の愛の結晶なのかもしれない。


仲良しだったサンデーとマックイーンの血がオルフェの背中を押す

(2011年有馬記念前の東スポより)


大好物編集

サンデーの大好物として知られるのがペパーミントキャンディ。これは幼駒のころからポニーに対して悪戯(と言うか乗っかって種付けみたいな体制をやってた…と言うもの)していたら、ポニーの調教師からペパーミントキャンディを貰ったのが元とされる(その間に首根っこ掴まれて連行されたとか)。以降、調教時にはペパーミントキャンディを常備して与え、気性を抑えていたといわれる。種牡馬生活末期になるとカイバの代わりに喰わせた結果ご機嫌になったとも。


日曜日の前夜~友情が再び海を超える日編集

時は1971年。サンデーサイレンスが日本にやってくる30年ほど前の事。

ケンタッキー州の平原に、とある日本人の男が競走馬の牧場「フォンテンブローファーム」を構えることとなった。

その男の名は吉田照哉。先述の吉田善哉の長男にして、現在の社台グループの総帥である。

その目的は、アメリカのホースマンと交友を持ち、アメリカ式の馬産のノウハウを得ることだった。

しかし、当時のアメリカは太平洋戦争の印象がいまだ色濃く残る時期。日本人にとっては逆風と言った状況で、順風満帆とは言えない状況だった。


そんな中、育てていた仔馬が牧場を抜け出してしまう。

幸い、逃げ出した仔馬は隣の牧場に保護されていた。

その牧場は「ストーンファーム」。そう、後にサンデーサイレンスが生まれる、アーサー・ハンコック3世が持つ牧場だ。

当時のハンコック氏は実家の牧場を継ぐことが出来ず、単身家を飛び出して自分の牧場を持ち始めた頃で、年が近く、長男で、同じく苦労人の照哉氏と知り合い、学生時代に音楽をしていた共通点から意気投合。照哉氏にアメリカのホースマンの知識やノウハウを伝授することになった。

そこから1978年にフォンテンブローファームが売却されるまで二人の交友は続き、この時の縁が後のサンデーサイレンス購入に結びつくこととなったのである。


そしてそこから12年後、サンデーサイレンスは日本に渡り、種牡馬として大成功を収めた。

その勢いは子々孫々にも及び、日本競馬の血統地図を塗り替えるまでの功績を残した。


…そこから更に幾星霜の先、2021年

サンデーサイレンスの血を引く2頭の牝馬が、ブリーダーズカップが行われるデルマー競馬場に足を踏み入れていた。

1頭はディープインパクト産駒のラヴズオンリーユー。そして、もう1頭がオルフェーヴル産駒のマルシュロレーヌ

この2頭は日本馬として初めてブリーダーズカップの競走を制覇し、米国競馬の祭典の頂点を掴んでみせた。

米国の競馬ファンはラヴズとマルシュの血統表に、かつてアメリカから見放されたサンデーサイレンスの名を見つけ、その血がBCに帰ってきたことに驚いていた。


マルシュロレーヌが優勝したBCディスタフ動画にはこんなコメントが寄せられている。

Sunday Silence→Stay GoldOrfevre(JPN Triple Crown)→Marche Lorraine(21 BC Distaff)


Japan has connected the Sunday Silence line for 30 years and returned to the Breeders' Cup in the United States. A long, long story of horseman's frendship.

日本が繋いだサンデーサイレンスの血脈は、30年の時を超えてアメリカのブリーダーズカップへと帰ってきた。

とても、とても長い、ホースマン達の友情の物語だ。


かの、サンデーサイレンスとイージーゴアの死闘から32年。海を超えたホースマンの友情が、再びの栄光を手にした瞬間だった。


関連イラスト編集

【競馬】Sunday Silence


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競走馬

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