※現役時代の馬齢は2000年以前の旧表記で記載する。
経歴
父サンデーサイレンス、母ジェフォリー。母の父はアメリカ三冠馬アファームドのライバルとして知られたアリダー(Alydar)。
3歳(1995年)
9月2日に行われた函館競馬場の新馬戦で四位洋文を背にデビュー戦勝利。
2戦目のオープン戦(松永幹夫が騎乗)は3着に敗れるも3戦目の黄菊賞はエイシンガイモンを破って2勝目を挙げた。
初の重賞となるGⅢラジオたんぱ杯3歳ステークス(現GⅠホープフルステークス)では単勝2.4倍の1番人気に推されたが、ロイヤルタッチにアタマ差で敗れ2着。
1着のロイヤルタッチ、3着のダンスインザダーク、そして朝日杯3歳ステークスを勝ち一足早くGⅠ馬になったバブルガムフェローと共に、「サンデーサイレンス四天王」(「サンデー四天王」)と呼ばれるようになる。(ちなみに11着は翌年NHKマイルカップを優勝するタイキフォーチュンである。)
4歳(1996年)
4歳の初戦はOP戦のジュニアカップ。本来は芝2000mだが、降雪の影響でダート1600mに替わったが、馬場がダートになっても1着を決めた。
続くGⅡ弥生賞はダンスインザダークの3着に敗れたが出走権は得た。
皐月賞は、バブルガムフェローが骨折、ダンスインザダークが発熱で回避したため、混迷の様相を呈していた。
4番人気だったものの、中団から一気に加速し、追い込んできたロイヤルタッチを振り切り、クラシックタイトルを獲得。鞍上の四位にとってもこれが初のGⅠ勝利であった。
↓フジテレビ版の実況
三宅正治「やっぱりサンデー!やっぱりサンデーサイレンス!勝ったのは、イシノサンデー!!そして2着にロイヤルタッチ!!
バブルガムフェローが消えても、ダンスインザダークが消えても、やっぱりサンデーサイレンス!!」
二冠を狙った日本ダービーは伸びを欠いてフサイチコンコルドの6着に敗れた。
秋初戦のセントライト記念(GⅡ)はローゼンカバリーの4着、京都新聞杯(GⅡ)はダンスインザダークの5着に敗れる。
陣営は距離を嫌って菊花賞には向かわず、ジュニアカップでダート戦を勝ったことから、イシノサンデーはダート路線に向かった。
船橋競馬場きっての名手・石崎隆之を迎え、大井で開催されたスーパーダートダービー(ジャパンダートダービーの前身)は3着に敗れるものの、続いて盛岡で開催されたダービーグランプリを勝利した。
しかし、最優秀4歳牡馬はダンスインザダークが受賞した。
5歳(1997年)
古馬初戦の京都金杯(GⅢ)を勝利したが、続く川崎記念(川崎)は砂の女王ホクトベガに大きくちぎられ6着。
この年からGⅠに昇格したフェブラリーステークス(佐藤哲三が騎乗)はシンコウウインディの9着に敗れ、以降はダートを走ることはなかった。
河内洋が騎乗した産経大阪杯(GⅡ、現GⅠ大阪杯)はマーベラスサンデーの6着に敗れ、さらに調教中に骨折してしまい、1997年の残りシーズンを棒に振ることとなってしまった。
6歳(1998年)
1月のアメリカジョッキークラブカップ(GⅡ)で復帰するも、メジロブライトの6着。
続く京都記念(GⅡ)はミッドナイトベットの2着。蛯名正義が騎乗した中山記念(GⅡ)はサイレンススズカの逃げに屈し5着。
2度目の産経大阪杯はエアグルーヴの3着。初の長距離戦となった天皇賞(春)はメジロブライトの9着、そして大雨の安田記念(塩村克己が騎乗)はタイキシャトルの6着に終わり、これを最後に引退した。
引退後
引退後は種牡馬となり、地方で活躍する馬を出したが、中央重賞を勝利する馬は現れず、2016年を最後に種牡馬を引退。
↑イシノサンデーの生前の映像(2022年1月18日)
2020年にナリタタイシン(1993年優勝)が死去したことに伴い、存命の皐月賞馬で最高齢であり、また、1990年代の皐月賞馬として、及び「サンデー四天王」としても最後の生き残りであった。
2023年にアグネスフライト(2000年の日本ダービー優勝馬)、ウイニングチケット(1993年の日本ダービー優勝馬)が相次いで死去したことで、存命最高齢の牡馬クラシック三冠競走優勝馬かつ(確認が取れる中では)1990年代及び20世紀の牡馬クラシック競走優勝馬としても最後の生き残りとなった。
2024年8月18日、日本軽種馬協会静内種馬場で繫養されていたイシノサンデーは老衰のため死亡した。31歳没。これにより「サンデー四天王」、1990年代及び20世紀の牡馬クラシック競走優勝馬は全頭天国へ旅立っていった。サンデーサイレンス産駒のGⅠ馬では現時点で最も長生きした競走馬である。同馬の死去及びその3ヶ月前に同馬の次に高齢かつ存命であったノーリーズン(2002年優勝)が死去したことで、存命最高齢の皐月賞馬はダイワメジャー(2004年優勝)となった。
関連タグ
皐月賞馬でありながらダートも走る事から、当馬が引き合いに出される事もあった。
なお、イシノサンデーが亡くなった当日には札幌記念に出走しており、結果は2着だった。