概要
佐藤哲三とは、JRAに所属していた元騎手、現競馬評論家である。現役時は人気薄でも勝負に徹した騎乗を貫き、馬券師から信頼を集めた。
プロフィール
経歴
デビュー前
1970年、福岡県北九州市で出生。翌年大阪府泉佐野市に転居。住之江競艇場など家の近くに競艇場があったこともあり、競艇選手になることも考えていたという。
しかし、1984年のジャパンカップでのカツラギエースの逃げ切り勝ちに感銘を受けたことで、ジョッキーに進むことを決意。1986年に競馬学校5期生として入学。同期には田中勝春、角田晃一、山田泰誠などがいた。
デビュー後〜厩舎所属時代
1989年の3月4日、中京競馬場4レーストーアチョモランマで初騎乗(9着)。4月30日にキョウワトワダで初勝利を挙げる。初年度はわずか8勝に留まったが徐々に勝ち鞍を増やし、4年目の1992年には38勝をあげ、レットイットビーで朝日杯チャレンジカップを制し、重賞初勝利も飾った。
師匠のもとを離れ、フリーに
しかし翌93年に落馬事故で大怪我を負うと、翌年も乗り鞍や勝ち鞍が思うように増えない状況に陥る。そこで吉原師から勧められて、95年よりフリーに転向した。
すると一気に飛躍し、95年には65勝、翌96年にはキャリア最多となる年間70勝をあげ、一気に栗東のトップジョッキーに上り詰めた。同年末には朝日杯3歳ステークスでマイネルマックスに騎乗し、重賞2連勝の勢いそのままに自身初のGⅠ勝利もあげている。
2001年のクラシック戦線では有力馬の1頭であるラガーレグルスの主戦に。ラジオたんぱ杯3歳ステークスを制するも、ゲート難を克服できず本番の皐月賞で競走中止に。引退時にはこの出来事を現役時代で最も辛かったこととして挙げている。
憧れのジャパンカップ
2002年、佐藤はある競走馬に騎乗することとなる。その名前はタップダンスシチー。実力を数多くのジョッキーに認められながら、重賞では長らく勝ちきれない彼に、四位洋文の推薦のもと跨ったのだった。初タッグとなるチャレンジカップをレコードで制すと、アルゼンチン共和国杯での敗戦を機に逃げ馬としての素質を開花。同年の有馬記念では2桁人気ながら2着に入ると、翌年には数多くの並み居る強豪を打ち倒し9馬身差をつけてジャパンカップを制覇。管理する佐々木晶三調教師ともども、憧れのレースを制したのだった。
タップダンスシチーとは長らくコンビを組み、2004年の宝塚記念や金鯱賞3連覇などと活躍し、凱旋門賞にも挑んだ。引退時には、タップダンスシチーを「騎乗スタイルの原型が出来たきっかけの馬」であると語っている。
円熟期
2009年には、素質を早くから評価していたエスポワールシチーとのコンビでダートGI・JpnI競走7勝を挙げた。これまで騎乗していた癖馬たちの経験を活かしながら、佐藤いわく「普通ではない作り方」のすえに掴んだ栄光であった。
2011年にはタップダンスシチーでコンビを組んだ佐々木師とタッグを組み、宝塚記念でアーネストリーに騎乗。ブエナビスタやエイシンフラッシュといった強豪を退け、2度目のグランプリの栄冠に輝いた。引退会見では、この宝塚記念をベストレースに挙げている。
暗転、無念の引退
ジョッキーとして順風満帆だった2012年。11月24日の京都競馬第10競走で佐藤は1番人気のトウシンイーグルに騎乗する。順調な手応えで最終直線に向き、しばらくすると、トウシンイーグル号は突如バランスを崩す。鞍上の佐藤は振り落とされ、金属製のラチに激突し、左手、左腕、左肩など全身7か所の骨折、右肘の脱臼など大怪我を負った。特に左肩の状態は深刻で、事故当時には毛細血管2本でかろうじて繋がっているのみであった。金属製だったラチの支柱の危険性が騎手クラブを通じて競馬関係者で議論がなされていた最中の出来事であった。
この怪我の結果、当時主戦であったエスポワールシチーや、アーネストリーと同馬主の素質馬キズナなどは全て乗り替わりとなった。
その後、2年以上にわたる過酷なリハビリに励むも、左肩の状態が上がらないとして、2014年9月に引退を表明。惜しまれながらステッキを置くこととなった。
通算成績は10684戦938勝。中央・地方GⅠはあわせて11勝であった。
引退後
引退後はJRAには残らず競馬評論家として活動。日刊スポーツや佐賀競馬などで予想を行っている。このほか、アーネストリーの馬主であるノースヒルズが管轄する外厩・大山ヒルズのアドバイザーを務めている。
また実家が住之江競艇の近所だった為、舟券を購入して楽しんでいる模様。
事故で重傷を負った左肩は現在も回復には至っておらず、木馬を用いた騎乗フォームの解説を行った際にも、左手で手綱を持たずに説明・実演を行っている。
騎乗スタイル
騎乗スタイルとして特筆すべきは、「一流のギャンブルレーサー」としての執念である。趣味として競艇を好むことから、「馬券を買うファンのための騎乗」を心がけていたという。本人の言葉を借りるなら、1着になることだけでなく、「なんとか3着に入ってやろうとして乗っている」。これを踏まえて、1着にはなれずともファンの中で主役になれる馬がいるはずとも発言している。
こうした背景から、競走馬についても「馬を可愛がりつつ、競走では割り切って結果を出すことなどできない」として割り切っていた。2014年の引退会見では、リハビリ中に会いに行ったキズナが自らにじゃれついてくる様子を見て「可愛い」と感じたことで、この割り切りができなくなっているとして、引退を決意したと語っている。
主な騎乗馬
(強調はGⅠレース、斜字はGⅡレース)
- マイネルマックス…1996年 朝日杯3歳ステークス、京王杯3歳ステークス、函館3歳ステークス、2000年マイラーズカップ
- タップダンスシチー…2003年ジャパンカップ、2004年宝塚記念、2003-2005年金鯱賞、2004年京都大賞典、2002年朝日杯チャレンジカップ
- エスポワールシチー…2009年かしわ記念、マイルチャンピオンシップ南部杯、ジャパンカップダート、2010年フェブラリーステークス、かしわ記念、2012年かしわ記念、マイルチャンピオンシップ南部杯、2011年名古屋大賞典、みやこステークス
- アーネストリー…2011年宝塚記念、オールカマー
- キズナ