※本記事の表記は旧馬齢表記(現在の表記より+1歳)を用いる。
プロフィール
馬名は「砂の貴婦人」という意。父・ハイセイコーは大井競馬から中央に転身し、1970年代前半の第一次競馬ブームを牽引した名馬である。母・イエンライトは中央競馬でダートのみながら10勝を挙げている。
このようにダート馬として見ればなかなかの良血馬ではあるが、当時の中央のダート戦線は現在よりもはるかに冷遇されていた。「中央・地方交流元年」の1995年以降、ダートグレード競走が整備されて中央・地方問わずGⅠ級競走を含む多くの重賞が開催される前の時代の話である。
1984年のJRAのグレード制導入以降も中央のダートでは重賞はGⅠどころかGⅡすらなく、GⅢ(※)が4競走だけ、中央馬が出られる地方交流重賞も帝王賞のみといった有様だった。
加えて父のハイセイコーはカツラノハイセイコやハクタイセイといったGⅠ馬を出していたものの、その産駒はハズレの時はとことん走らないことでも有名という、端的に言えば博打要素が強い種牡馬でもあった。おまけにサンドピアリス自身の馬体もいまいち小さく、そんなこともあって評価もさほど高いわけではなかった。
彼女は一口馬主クラブ「ヒダカ・ブリーダーズ・ユニオン」の初年度募集馬となるが、そこでの募集価格は1000万円(一口100万円)だったという。
- フェブラリーハンデキャップ、札幌記念、根岸ステークス、ウィンターステークスの4競走。フェブラリーハンデキャップは現在ではGⅠ・フェブラリーステークスであり、札幌記念は芝に転換の上で現在はGⅡ、ウィンターステークスは現在ではGⅡ・東海ステークスとして施行されている。
経歴
サンドピアリスは4歳の3月に栗東・吉永忍厩舎からデビューし、4歳新馬戦を勝利。
報知杯4歳牝馬特別(現・フィリーズレビュー)(芝)では9着、れんげ賞(芝)では8着。その名の通り芝での適性が無いと思われた(父ハイセイコーもダート馬を多く出す傾向もあった)。
4月には4歳400万円下戦(ダート)で勝利し、ここまでの2勝はいずれもダートでのものだった。
しかしダートで出られるレースが無く、この次に芝の京都4歳特別(GⅢ)に挑戦したが、9着に終わった。
ダートの条件戦が組まれる秋まで休養となったが、復帰後の秋分特別(ダート)では8着、4歳以上900万下(10月7日、ダート)では9着、4歳以上900万下(10月28日、ダート)では6着と振るわなかった。
運命の1989年エリザベス女王杯
同年11月、当時は4歳牝馬限定で行われていたエリザベス女王杯の出走を決める。
その理由は、サンドピアリスの馬主であるヒダカ・ブリーダーズ・ユニオンという一口馬主クラブの宣伝と、サンドピアリスの主戦騎手である岸滋彦騎手が菊花賞でムービースターに乗るはずだったが抽選に外れ、吉永忍調教師は慰めの意味でGⅠレースであるエリザベス女王杯に出走させてあげたかったとの事である。こちらも抽選であったが無事サンドピアリスの出走が決まったのだった。
迎えた当日、サンドピアリスの人気は20頭の20番人気の430.6倍(19番人気のラブオンリーユーは293.1倍だった)。恐らく全頭買いしている人ぐらいしか買っていなかったのであろう。
何せ、ダートでさえ芳しくなかった成績の馬がいきなりエリザベス女王杯に出走してきているのである。これで勝ち筋を見出せと言うほうが無茶というものだろう。生産牧場の主人すら「金の無駄」として応援馬券すら買わなかったと言う逸話があるぐらいなのだから。
一方、断然の1番人気は武豊騎手の桜花賞馬シャダイカグラの2.2倍であった。
レースが始まるとシャダイカグラ、そしてレディゴシップ、キオイドリーム、ファンドリポポをはじめ有力各馬がそれを追うように前の方に行くレース展開。
更に第3コーナー辺りからは2番人気のメジロモントレーが徐々に追い上げを見せる。
一方のサンドピアリスはそれらをよそに15番手ぐらいの位置につけてゆるりと追う展開に。
しかしレースの終盤、第4コーナー付近にさしかかると、信じがたい事が起こったのだった。
1番人気の桜花賞馬シャダイカグラが故障で急速に失速して馬込に沈み、
シャダイカグラをマークしていた人気の先行馬達も、落ちゆくシャダイカグラをかわすために体勢を崩して軒並み沈んでしまう。
その混乱の最中、大外から突っ込んでくる馬が1頭。
「さぁ、先頭は、外を通って…、サンドピアリスか?」と自分で言っておきながら杉本清アナウンサーは驚愕する。
「おお?なんとサンドピアリスだ!サンドピアリスが先頭!」
「しかしびっくりだ!これはゼッケン番号6番サンドピアリスに間違いない!」
20頭中20番人気のサンドピアリスが先頭でゴール板を駆け抜けた。
「砂の貴婦人」が「京都競馬場芝2400mの女王」の座を射止めた瞬間だった。
レース前、「1頭でも2頭でも負かして来い!」と送り出された岸滋彦騎手にとっても、これがGⅠレース初勝利。1頭でも2頭でもとは言ったが、まさか全頭負かして来ようとは。
その単勝配当は43060円。GⅠ史上最高の単勝配当であるこの記録は、現在でも破られていない。
更に続く2着は10番人気のヤマフリアル、3着は14番人気のシンビクトリーであった。1桁人気は5着に4番人気だったシンエイロータスがようやく入るにとどまっている。
当時は単勝、複勝、枠連しか存在していなかったのだが、もし三連単があったらどれだけ着いたかというのは今でも話題になる。
当時と今では賞金や配当などの条件が異なるため一概には言えないが、一説には2億に達していたのではとされている。
そして1番人気であった桜花賞馬シャダイカグラは4コーナーで右前脚の繋靱帯断裂を発症しており、最後まで完走する意地を見せたが結果は最下位20着となった。幸い予後不良は免れ、当初の予定通りそのまま引退した(詳しくはシャダイカグラの記事を参照)。
正に天地がひっくり返ったとしか言いようが無い日本競馬史に残る大波乱のレースとなったのだ。
サンドピアリスがゴール版を駆け抜けた瞬間、満員の京都競馬場は一瞬の静寂の後、混乱した観衆のざわめきが巻き起こった。
岸騎手や吉永調教師もパニックに陥ってインタビュー中延々と名前をサンドピアレスと誤って呼び続けていたぐらいである。
また、実況の杉本清氏も「忘れたくても忘れることの出来ないレース」としてこのレースを挙げており、自著の中ではサンドピアリスについて「引退するまでつきまとってくる馬」とし、「もし名前を間違えて実況していたら、競馬実況アナウンサーとしての人生が終わっていた」とまで述べている。
なお、応援馬券を買わなかった生産牧場の主人はその後家族からメチャクチャに怒られたとの事。
エリザベス女王杯後のレース
この後、サンドピアリスは芝の重賞の常連となり、重賞2勝目は挙げられなかったものの1990年京都大賞典で3着、自身の引退レースの1991年京都記念で2着になっており、エリザベス女王杯の勝利がフロックではなかったことを物語っている。当時のエリザベス女王杯と京都記念、そして京都大賞典はいずれも京都競馬場での芝2400m戦…まさにスペシャリストだった。
オグリキャップがラストランで優勝を果たした1990年第35回有馬記念にも出走しているが、15番人気でブービー15位となった。
繁殖牝馬として
サンドピアリスは繁殖牝馬として、アメリカの競走馬であったスキャンとの間にマーチステークスや白山大賞典を勝つなどダート交流戦の雄、タマモストロングを出すほか、後継繁殖牝馬を多く出して成功を収め、現在も牝系は残っている。
2007年6月14日、老衰で死去。21歳没。
関連イラスト
二度あることはサンドピアリス…ファンがパドックに掲げた横断幕に書かれた文句