概要
主な勝ち鞍は1992年の日刊スポーツ賞金杯(金杯)・アメリカジョッキークラブカップで、引退後は東京競馬場で誘導馬を務めた。
「尾花栗毛」(たてがみと尻尾が金色)の馬体の持ち主であり、その特徴から競走馬時代・誘導馬時代の双方を通して多くのファンを増やした。
詳細
母方の曾祖母がソシアルバターフライで、トウショウボーイの近親にあたる。
馬名は冠名+「金色のファルコ」の組み合わせ。たてがみの色合いがファルコの金髪を彷彿させるという理由からこの名前が付けられた。
1989年2月小倉競馬場でデビューし、初戦は6着。
2戦目で勝ち上がる。
1991年秋に活動を本格化させ、東京スポーツ杯(オープン特別)とフェアウェルS(1500万下特別)を制する。
1992年は金杯(中山競馬場)、アメリカジョッキークラブカップで連勝。
しかし故障に悩まされ、1993年8月に競走馬として引退した。
その後は東京競馬場で誘導馬に転向。
元々その馬体から現役時代より女性ファンを中心に人気を集めていたが、誘導馬に転身してからも相変わらずであったとされる。
1999年11月7日をもって誘導馬としても引退し、同日の昼休みにお別れセレモニーが開かれた。
その後は神奈川県横浜市にあるJRAの関連施設馬の博物館付属のポニーセンターに転属。
時折市民の乗馬体験を担当しながら余生を送った。
2005年10月21日に老衰のため死去。
享年19歳。
馬の博物館がある根岸森林公園内に、「トウショウファルコ号ここに眠る」と刻まれた追悼石碑が設置された。