「!」を待て
実績や名声だけで
結果が決まるのなら
この世はちっとも
面白くなんかない。
逆転や番狂わせが
想定外と誤算こそが
日々を彩るのだ。
どこかに潜むはずの
次なる「!」を
待つとしようか。
≪名馬の肖像 2019年スプリンターズステークス≫
プロフィール
生年月日 | 1994年3月13日 |
---|---|
性別 | 牡 |
毛色 | 黒鹿毛 |
父 | ダイタクヘリオス |
母 | ダイタクブレインズ |
母の父 | テスコボーイ |
生産 | 雅牧場(北海道平取町) |
調教師 | 橋口弘次郎(栗東)→石坂正(栗東) |
生涯戦績 | 40戦10勝(JRA39戦10勝、海外1戦0勝) |
獲得賞金 | 4億3820万4000円 |
父ダイタクヘリオスはマイルチャンピオンシップを連覇し1990年代初頭の単距離戦線に君臨した馬である。母ダイタクブレインズは未勝利ながら、牝系は重賞馬を多数輩出している良血だった。
競走馬時代
旧3歳(現2歳)
1996年の9月にデビューするとダートを3走したが勝ちきれず。しかし4戦目に芝1200mに挑戦すると、逃げて上がり最速をたたき出し8馬身差の大勝で初勝利を挙げる。
更に次走の条件戦でも200mの距離延長をものともせず、同じように逃げて上がり最速で完勝する。
旧4歳~6歳(現3歳~5歳)
1997年は重賞に挑戦、GIIIシンザン記念では近走の圧倒的パフォーマンスから3番人気に推される。しかし逃げることができずに直線で沈んで8着(1着はシーキングザパール)。
続くGIIIアーリントンカップは逃げを打ったが4着。クリスタルカップは出走取り消しとなり、次のオープン戦も14着と大敗し、条件戦に戻ることに。
1998年には橋口弘次郎厩舎から独立して開業した石坂正厩舎に転厩。この時選択肢は本馬とダイタクカミカゼ(ダイタクヘリオスの半弟)の2択であったが、ダイタクカミカゼを選ぶと思った橋本師とは裏腹に、石坂師は「1歳若くて長く使える」とヤマトを選んだという。
しかしヤマトは条件戦でも善戦するが勝ちきれない競馬を繰り返し、オープン入りは1999年12月と5歳の冬になってしまった。(この間に同期のアグネスワールドが日本レコードをたたき出したレースで6着に入っている。)
旧7歳(現6歳)
何はともあれオープン入りしたダイタクヤマトは2000年初戦にGⅠ高松宮記念を選ぶ。しかし11着に大敗。しかし次のオープン戦ではのちのスプリント王トロットスターを寄せ付けず逃げ勝ち、オープン初勝利を飾る。次走のオープンでも先行勢が総崩れになる中で5着に粘り、陣営は重賞戦線への挑戦を決める。
久々となる重賞、GIII函館スプリントステークスでは6番人気で2着に逃げ粘るも、次のGIIIセントウルステークスではブラックホークやマイネルラヴなどのメンバーがそろい、7着に沈む。
運命のスプリンターズステークス
前哨戦のセントウルSで負けたダイタクヤマトであったが、GⅠスプリンターズステークスへの出走を決定する。このレース選択について石坂師はのちに「近くの週に条件の合いそうなオープン特別があったが、調教師としての経験が浅かったためにそんなレースがあることを知らなかった」と語っている。
この年のスプリンターズSは
- 前年の覇者ブラックホーク
- 英仏のスプリントで勝った世界的GⅠ馬 アグネスワールド
- セントウルSでブラックホークを破り勢いに乗る上がり馬ビハインドザマスク
- 2年前の覇者マイネルラヴ
- スプリント強豪国香港のベストオブザベスト
- 高松宮記念を制した春のスプリント王キングヘイロー
- 前年の3歳マイル王者シンボリインディ
- 根岸ステークスの鬼脚で有名なブロードアピール
とタレントぞろいの超豪華メンバーであった。もちろん前哨戦で凡走したダイタクヤマトに目を向ける者はおらず、16頭立ての16番人気、単勝は257.5倍とテレビでさえ一言で紹介を済ますほどの空気っぷり。しかしこの日の鞍上は穴男江田照男(この後引退までほぼすべてのレースに騎乗)、さらに芝は稍重、と大番狂わせのお膳立ては整っていた。
レースが始まるとスタートを決めたダイタクヤマトとユーワファルコンがレースを引っ張り、前半600mは33.0秒と流れる展開。観客は後方の有力馬たちにくぎ付けである。しかし、絶好の手ごたえで手綱を持ったまま4コーナーを回る先頭の馬に人々は気づき始める。
さあ、後続各馬そしてGⅠ級各馬、この辺から追い込んでくる!
間もなく残り200標識になる!
逃げる2頭、逃げる2頭最内のグリーンベルトを伝ってゆく!
さあ先頭はダイタクヤマト、突き放す!突き放す!!突き放す!!!
まだ後ろは来ない!まだ後ろは来ない!
馬なりで先頭に立ったダイタクヤマトはユーワファルコンを置き去りにして一人独走態勢に入る。残り200mで3番手からは5馬身ほどのリードを取り、後ろの馬を完封した。
逃げ切った!逃げ切った!逃げ切った!
ダイタクヤマト逃げ切り逃げ切り逃げ切り!
(実況:青島達也アナ)
重賞初制覇が超豪華メンバー相手の GⅠ、それもサンドピアリス以来の最低人気での勝利。
ダイタクヤマト絡みの馬券はすべて20倍を超える配当と大荒れとなり、江田も9年ぶりのGⅠ勝利で穴男としての評価は不動のものとなった。
その後GⅠホースとなったダイタクヤマトはGIIスワンステークスに出走。前走がフロック視され8番人気に甘んじるも、3番手から抜け出し快勝し重賞2勝目。能力を証明して見せた。さらに年末には父が連覇したマイルチャンピオンシップに挑戦する。距離が不安視されたが、6番人気に支持されると中段からの粘り腰で4着に入った。
この活躍が認められ、最優秀短距離馬と最優秀父内国産馬に選ばれた。
7歳
この年馬齢の数え方が変わり、もう一度7歳のシーズンを過ごすことになったダイタクヤマトだが、昨年の激走をフロック視する声はなくなりスプリント界の中心的一頭と見られるようになる。
始動のGIII阪急杯ではミルコ・デムーロが騎乗し、ブラックホークと人気を分けあった2番人気。これを振り切って重賞3勝目を挙げると、高松宮記念でも2番人気に支持される。しかし直線で伸びずにトロットスターの8着と大敗する。
秋まで休養を挟んで臨んだセントウルSでは逃げる馬を3番手からとらえきれず2着。連覇をかけたスプリンターズSは前に厳しい展開になったが粘り込み3着に入った。引退レースとした香港スプリント(当時はGII)では香港のスプリント路線の厚い壁に跳ね返されて12着と大敗し、これを最後に引退した。
なお、香港での表記は『大徳大和』。
引退後
引退後は種牡馬になったものの、ヘロド系の古めかしい血と強烈な一発屋の印象からかほとんど産駒を残すことができず、出走馬はわずか12頭にとどまった。
2010年に種牡馬を引退し、2014年までは千葉県の乗馬倶楽部にいたが、その後北海道中標津町の牧場に種牡馬となるために移ったとされたまま、その後の消息は不明となった。オーナーが2006年ごろに倒産しており、誰も面倒を見る人がいなかったのも一因だろう。
余談
- 2歳下の牝馬メジロダーリングとは脚質も似ており、条件戦のころから対戦が多く6勝3敗という対戦成績だった。2頭の配合の期待もあったが実現はしなかった。