シアトルスルー
しあとるするー
1974年
2月15日、ベン・S・キャッスルマン・シニアが経営する小さな牧場(ケンタッキー州)に生まれた。父・ボールドリーズニングは3年後、種付け中に牝馬に蹴られ、それが原因で翌年死亡。種付け料は日本円にして14万円と安く、シアトルスルーは初年度産駒である。母・マイチャーマーは重賞6勝の成績を持つが、父・ポーカーはプリンスキロ系、母・フェアチャーマーはフリゼット系と、マイナーな血統であった。
1975年
キーンランド・セールに出品されたが、主催者による審査がある選抜セリには合格せず、一般のセリで1万7500ドル(当時のレートで約500万円)で落札される。落札したヒル夫妻、テイラー夫妻の出身地シアトルから「シアトルスルー」と名付けられた。獣医をしていたジム・ヒルはボールドリーズニングの治療をした事があり、その産駒ということで興味を持ったのであった。カレン・テイラーの名義で所有される。
1976年
4月、シアトルスルーはアンドール・ファームに送られ、ウィリアム・H・ターナー・ジュニア調教師の妻ポーラにより調教が施された。初めてシアトルスルーを見たターナー師は、外向した右後脚、体が大きいのに尻尾はポニーのように小さいという容貌からベイビー・ヒューイ(アニメ「みにくいアヒルの子」の主人公)と呼んだが、ダート6ハロンを馬なりの1分10秒0で走る能力には驚愕する。
9月20日、ジーン・クリュゲ騎手(フランス)を鞍上にベルモントパーク競馬場でデビューし、2着に5馬身差をつけて勝利。
10月16日、2戦2勝で挑んだシャンペンステークス(GⅠ)にはフォーザモーメント、アリウープ、セイルトゥローマ、ターンオブコイン、ウエスタンウインド、サンヘドリン、ジョンスキロ、クルーズオンインなど錚々たるメンバーが出走してきたが、9と3/4馬身差をつけて圧勝。シアトルスルーは1976年のエクリプス賞最優秀2歳牡馬に選ばれた。
1977年
3月9日、ハイアリアパーク競馬場の一般競走で始動し、これを快勝。
5月7日、GⅠレースを連勝(フラミンゴステークス、ウッドメモリアルステークス)し、アメリカ三冠、一冠目のケンタッキーダービー(GⅠ)に挑む。シアトルスルーは初めて経験する大観衆に動揺しスタートでゲートに頭をぶつけて出遅れてしまうが、すぐに2番手につけ、4コーナーで先頭に立って快勝。
5月21日、二冠目のプリークネスステークス(GⅠ)も2番手追走から抜け出して快勝。
6月11日、三冠目のベルモントステークス(GⅠ)ではスタートからハナを切るとそのまま逃げ切りでデビューから無傷の9連勝で三冠馬となった。ターナー師は休息が必要だと反対したが、40万ドルの賞金に目が眩んだ馬主はスワップスステークス(GⅠ)に出走させる事とした。
7月3日、スワップスステークスに出走し、J.O.トービンの4着に敗れ、連勝は途絶えた。ターナー師と馬主が対立し、管理調教師はダグラス・ピーターソンに替わった。転厩後、シアトルスルーは体調を崩して咳き込むようになったため、シーズン後半は全休するが、エクリプス賞年度代表馬に選出された。
1978年
5月14日、熱病により一時は命も危ぶまれたシアトルスルーだったが、アケダクト競馬場の一般競走で復帰し1着。しかしレースで脚の靭帯を痛め、再び休養に入る。
8月12日、サラトガ競馬場の一般競走で復帰し1着。
9月5日、58ポンドの斤量でパターソンハンデキャップ(GⅡ)に出走するが、ドクターパッチズにゴール前で差されて2着に敗れる。デビュー以来主戦を務めてきたクリュゲ騎手は降ろされることになった。
9月16日、アンヘル・コルデロ・ジュニア騎手に乗り替わり、マールボロカップ招待ハンデキャップ(GⅠ)に出走。この年のアメリカ三冠馬アファームドとの対決を3馬身差で制する。
9月30日、ウッドワードステークス(GⅠ)に出走。フランスで活躍後、アメリカに移籍してきた九冠馬エクセラーとの対決を制しレコード勝ち。
10月14日、ジョッキークラブゴールドカップ(GⅠ)で再びエクセラーとまみえるが、ハナ差の2着に敗れる。このレースは競馬史上に残る名勝負として現在も語り継がれている。
11月11日、130ポンド以上を背負って勝たなければ真の王者とは言えないと主張する者がいたため、134ポンド(≒60.8kg)のハンデを背負ってスタイヴェサントハンデキャップ(GⅢ)に出走して1着。このレースをもって競走馬を引退。1978年のエクリプス賞年度代表馬にはアファームドが選ばれたが、シアトルスルーは最優秀古馬に選出された。
1979年
1200万ドルのシンジケートが組まれ、スペンドスリフト・ファーム(ケンタッキー州)で種牡馬入り。種牡馬としての成績は素晴らしく、産駒のステークスウイナー率は12%にのぼる。ほぼボールドルーラー系≒シアトルスルー系であり、ミスタープロスペクター系、ノーザンダンサー系以外の血脈を広げるのに寄与した。シアトルスルーは種付けが好きで牝馬を見るとそわそわしていた。
1984年
北米リーディング・サイアーを獲得した。
1986年
スリーチムニーズ・ファーム(ケンタッキー州)に移籍した。
1995年
産駒シガーが活躍し、北米リーディング・ブルードメサイアーを獲得した。
1996年
産駒シガーが活躍し、北米リーディング・ブルードメサイアーを獲得した。
2002年
3月、持病が悪化してきたため種牡馬を引退。牝馬を見て興奮しないようヒルンデール・ファーム(カナダ)に移動して療養生活を送った。
5月7日、睡眠中に死亡(28歳)。遺体はヒルンデール・ファームに埋葬された。
エーピーインディ、スルーオゴ-ルド、ダンツシアトル、タイキブリザードなどを輩出。
エーピーインディが後継種牡馬で、日本でもカジノフォンテン、ミューチャリー、テーオーケインズなどがシアトルスルー系である。
- 先行抜け出しのレース運びで面白くないと言われていたが、競走生活晩年に互角の実力を持つエクセラーと巡り合い、記憶に残るレースができた。
- 雑草血統、零細牧場、馬体の悪さと評価されなかったにもかかわらず、競走馬、種牡馬として大成したことから、アメリカンドリームを体現した馬とも言われている。
- 12年後に生まれたサンデーサイレンスも評価が低かったが、競走馬として成功する。シアトルスルーと違いヘイローの仔のため種牡馬として人気がなく(ヘイローの仔の種牡馬としての成績が良くなかった)、種牡馬としての成功は日本に輸出されてからであった。
- 半弟のシアトルダンサーは31億円もの値段が付いた。シアトルスルーの700倍以上の値段である。生涯成績は5戦2勝だったが、種牡馬として数頭のGⅠ馬を輩出し、面子は保った。
- 同世代で日本で活躍したマルゼンスキーがよく引き合いに出されるが、関係者の話によるとマルゼンスキーがアメリカでデビューしていたら、シアトルスルーの三冠達成は難しかったのではないかとも言われている。
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