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概要

付けられた渾名は「二代目“ビッグ・レッド(大きな栗毛)“」。「初代“ビッグ・レッド”」のマンノウォーと並ぶ米国競馬界を代表する馬。
史上9頭目の米国競馬の三冠馬で、1972年・1973年のエクリプス賞年度代表馬、米国殿堂馬でもある。
その圧倒的すぎる実力と様々な馬場で活躍できる万能さから長い年月が経った現在でも世界競馬史上最強馬と名高く、サンデーサイレンスなどを除いて特に有名な海外馬の一頭である。

出自〜2歳時

幼少期

1970年3月30日、バージニア州・メドウイベントパークのステーブルで生を受ける。馬名のセクレタリアトは当時の牧場の専属秘書が提案したもの。意味は「事務局(書記職)」。
父のボールドルーラーは33戦23勝でエクリプス賞年度代表馬にも選出された一流の競走馬であり、8度に渡ってリーディングサイアーに輝いた米国屈指の大種牡馬でもある。
2歳になるとセクレタリアトはフロリダ州に移動。ルシアン・ローリン師のもとで鍛え上げられた。師が「怠慢な馬でした」と述懐した通り、食欲旺盛で食べて寝てばかり、同厩のポニーと遊んでばかりの自由な生活を過ごしていた。そしてついたあだ名が「のんびり屋」。そんなセクレタリアトを師がどうやって鍛え上げたかは謎に包まれている。
しかし目についたものを食べるぐらい大食漢で寝てばかりのセクレタリアトは太るようなことは決してなく、むしろ筋肉が増える一方であった。


マンノウォーの再来

1972年、セクレタリアトは7月にアケダクト競馬場のメイドン(未勝利戦)でデビュー。出遅れと道中の不利で4着になり、デビュー戦勝利とはならなかった。しかしゴール前で見せた末脚は凄まじく、その後の活躍を予感させるものとなった。
セクレタリアトは1週間後の同じくアケダクト競馬場のメイドンで6馬身差の圧勝で初勝利を上げる。競馬記者は「加速力、パワー、カリスマ性、馬体から出る魅力、全て非常に良い馬」と絶賛した。

その後は勝ち星を重ね5連勝。特に2歳馬の最重要戦ホープフルステークスではスタートで出遅れ最後方からの競馬となってしまったが、終盤で全馬をごぼう抜きして5馬身差つけて圧勝した。
7戦目のシャンペンステークスでは接触で2着降着となったが、ローレルフューチュリティ、ガーデンステートステークスを連勝した。
この年は9戦7勝でシーズンを終え、最優秀2歳牡馬と共に、12戦全勝を記録した牝馬や米国二冠を果たした同厩の馬などを抑えて2歳にしてエクリプス賞年度代表馬に選出された。この時点で一部からは早くも「マンノウォーの再来」と呼ばれるようになった。


3歳時

純金馬

翌年の1月3日、闘病生活を続けていた所有者のクリストファー・チェナリー氏が逝去。これにより総額600万ドルの相続税を捻出するためにクリストファー氏の娘ヘレン女史はセクレタリアトの種牡馬権を売却。一株19万ドル×32口、総額608万ドルという当時史上最高額の巨額のシンジケートが組まれたがすぐに完売となった。
(ちなみに金額をセクレタリアトの馬体重で割ると1オンス325ドルとなり、当時の純金1オンスの価格約100ドルの3倍に当たることから、純金より重い馬として「純金馬」と呼ばれるようになった。)

レースは3月から始動。ベイショアステークスを4馬身半差ゴーサムステークスをレコードタイと連勝。しかしケンタッキーダービーの前哨戦ウッドメモリアルステークスは直線で伸びを欠き3着に敗戦。スタミナ不足を指摘され、一抹の不安を抱えながら三冠競争に挑むこととなった。


常識外れの走り

まずは1冠目のケンタッキーダービーに出走。12頭の精鋭達が揃い、13万人もの観衆が見守る中スタート。セクレタリアトはいつも通り最後方に位置取り、終盤徐々に進出して直線で一気に加速。2番手シャムに2馬身半差をつけて、ノーザンダンサーの2分フラットを0.6秒更新し、初の2分切りとなる1分59秒4のレコードで快勝した。
シャムもハイペースで逃げてレコード並みの走破タイムだったのだから相手が悪かったとしか言いようがない。

余談だが米国は平坦で小回りな競馬場ばかりで、スタートから飛ばして押し切るのが勝つための常套手段と言われていた。今回のシャムが正にそれである。そんな中でスタートからゴールまで加速し続けるセクレタリアトのレースぶりは、米国競馬界において常識からかけ離れたものであった。


2冠目のプリークネスステークスは回避馬が続出し6頭立てでのレースとなり、セクレタリアトは最後方から向こう正面で早め先頭という、また違った走りを見せた。そのまま押し切りシャムに2馬身半差つけ2冠を達成。
ピムリコ競馬場の当時の副代表が「フォルクスワーゲンの車列の中にロールスロイスが混ざっているように見えた」と述べるほどこれまた圧倒的であった。
シャムも3着に6馬身つけていたのだから相手が悪かっ(ry

タイムは当時競馬場の計測器が故障していたため手動で計測しており、1分54秒4とも1分53秒4とも言われ論争が続き、ピムリコ競馬場は1分54秒4を公式タイムとした。
それから39年後の2012年6月19日、ヘレン女史を交えて行った最新技術での解析により1分53秒0と結論づけた。勿論レコードである。


2代目ビッグ・レッド誕生

1948年のサイテーション以来25年振りのアメリカ競馬三冠に王手をかけたセクレタリアト。この時点でセクレタリアトはかなりの有名馬になっており、ベルモンドSの前週には『タイム』誌含む米国の大手雑誌がこぞって彼を表紙にした。

レースの数日前、セクレタリアトの主戦騎手ロン・ターコット氏とローレン師は外食に出掛けた。その席でターコット騎手は冗談っぽくこう述べる。
「もし負けたら、私は首を吊らなければならないでしょう」
これに対しローレン師は、
「セクレタリアトは歴史上最も偉大な競走馬。もし負けたら、私は米国中のあらゆる馬や調教師に関する本や資料を集めて全て川に投げ捨てる」
と、競馬との関わりを断つとも取れるような発言をしたという。そのぐらい陣営にとっても絶対に負けられないレースだったであろう。

1973年6月9日、三冠を掛けたベルモンドステークスの日を迎えた。セクレタリアト、シャム含めた5頭立てでのレース。ベルモンドパーク競馬場には6万7千人の競馬ファンが詰め掛け、テレビ中継の視聴率は何と50%に到達。セクレタリアトの三冠達成に向けてボルテージは最高潮に達していた。

そんな期待と重圧の中、彼はアメリカ競馬史上に永久に残るであろう伝説のパフォーマンスを披露する。

これまで最後方から差し切る追込み戦法をしてきたセクレタリアト。が、今回は何と逃げの戦法を取りハナを切る。セクレタリアト相手に連続2着とこちらももう負けられなかったシャムは好きにはさせまいと必死に追走するが、前半半マイル(800m)46秒2という殺人的ハイペースにシャムは力尽き後退。他の馬も全くついていくことが出来なかった。
完全に一人旅となったセクレタリアトは直線入り口で既に10〜20馬身の差をつけたが、サイレンススズカを彷彿とさせる大逃げをしたにもかかわらず直線で更に加速。結果、2番手に31馬身差という歴史的大差をつけた。あまりの大差に思わず鞍上が後ろを向いて確認したほどである。
この瞬間、実に25年振り、史上9頭目の米国競馬三冠馬が誕生した。
勝ち時計は2分24秒0。これは従来のレコードを2秒6、米国レコードを2秒2更新するダート12ハロン(2400m)のワールドレコードである。未だに24秒台どころか25秒台すら現れず、26秒台も指で数えられるぐらいなので、この記録は今後破られる事のない不滅のアルティメットレコードとされる(それどころか三冠競争全てで現在でもセクレタリアトのレコードは破られていない)。

これまで後方の競馬をしてきたセクレタリアトがなぜ大逃げをしたのかは実はあまりわかっていない。しかしローレン師が「ロニー(ターコット騎手の呼び名)がセクレタリアトをどのように走らせるつもりなのか理解したのは向こう正面。この時銃を持っていたら、私は彼を撃っていた」と言うように、陣営が思っていたものとは全く異なる走りだったようである。

※実際の映像




こうして伝説のレースを終えて三冠馬となったセクレタリアトは2代目“ビッグ・レッド”の称号を確実なものとし、元々特集を組む予定だった雑誌大手『タイム』で追加特集が組まれたりなど、アメリカ国民に広く知られるようになった。


まさかの敗戦

最強の三冠馬が誕生したという事で、セクレタリアトの元には出走依頼が殺到したという。しかしセクレタリアトは3歳で引退することが決まっているので、ヘレン女史とローレン師は出来るだけ出走しようと緻密なスケジュールを組み上げた。

ベルモントステークスの3週間後のアーリントン招待ステークスは疲れからかあまり本気ではなかったが、後方から早め先頭で抜け出して9馬身差で勝利。タイムもレコードに肉薄しており、流石の走りを見せた。

ところが次走のホイットニーステークスでは叩き合いの末、無名だった馬に1馬身差の2着に敗れてしまう。
実はこのサラトガ競馬場は「チャンピオンの墓場」と言われる程これまで番狂わせを起こしており、かのマンノウォーが生涯唯一の敗北を喫したのも、米国三冠馬のギャラントフォックスが単勝101倍の伏兵に敗れたのもサラトガ競馬場でのレースだった。
敗因はウイルス性疾患による体調不良とされている。特に下痢の症状が酷く、本来ならば回避すべきなのだが強引に出走させたのこと。逆によく走れたな...
この敗戦で安易に出走させることが出来なくなり、スケジュールにも狂いが生じた。

6週間の休養を経てのマールボロカップ招待ハンデキャップでは、当時を代表する5頭の優駿が揃う中でワールドレコードで圧勝。
しかしウッドワードステークスでは4馬身半差つけられて完敗した。重馬場に対応できなかったと言われたが、セクレタリアトは過去に同じく重馬場のレースで圧勝しているので、実際のところ敗因ははっきりしていない。


さらば“ビッグ・レッド”

次走は「芝でも走れる万能さを見せたい」という事で当初のスケジュール通り芝のレースに挑戦すると発表し、マンノウォーステークスに出走。ターコット騎手は「ダートより芝の方が走れるかもしれない」と発言しており、自信を覗かせていた。
マンノウォーSはGIレースということもあり、芝のGI戦線を勝ち上がってきた優駿達が立ちはだかったが、結果は逃げてコースレコードを更新する5馬身差で圧勝。宣言通り、芝適正も完璧であることを証明した。

ラストランはカナダに遠征し同じく芝のカナディアンインターナショナルチャンピオンシップステークス。米国の英雄が凱旋するとのことで、カナダの人々はセクレタリアトを熱烈に歓迎し、地元のテレビ局によるセクレタリアトのドキュメンタリーも作成された。
騎乗停止処分を受けたターコット騎手に代わり、エディー・メイプル騎手が最初で最後のコンビを組む。11頭立てで行われたこのレースを、セクレタリアトは最後まで圧巻の走りを見せ、6馬身半差の圧勝で優秀の美を飾った。

その後ニューヨークのアケダクト競馬場にて引退式を行い、多くの人々に惜しまれつつ、セクレタリアトは通算成績21戦16勝で短い競争生活に終止符を打った。
3歳時の成績は12戦9勝で、2年連続でエクリプス賞年度代表馬、最優秀3歳牡馬、更には芝レースで圧勝したことにより最優秀芝牡馬も受賞。翌年にはアメリカ競馬の殿堂に選出された。


種牡馬時代

引退後はクレイボーンファームで種牡馬入りし、勿論種牡馬としても絶大な期待をかけられた。
クレイボーンファームの元にはファンが殺到したが、マナーの悪いファンも出てきたために経営者のハンコック氏は公開を中止してしまった。
ご存じの方もいると思うが、これは日本においても深刻な問題となっており、代表的な事例だと三冠馬のシンボリルドルフも鬣を切られたことで公開中止になっている。

話を戻す。種牡馬成績はと言うと、牝馬ダートの最高峰・BCディスタフを勝ち北米年度代表馬に選出されたレディーズシークレット、アメリカ二冠馬リズンスターなどを排出。当初の期待からは大人しめの産駒の活躍ではあるが、それでも1978年には2歳リーディングサイアーに、1992年にリーディングブルードメアサイアーに輝くなど十分な成功と言える。
それ以上に母の父としての成績が優秀で、ストームキャット、エーピーインディ、ゴーンウェストなどが種牡馬として大成功している。
残念ながらリズンスターが種牡馬として不振に終わり直系はほぼ途絶えてしまったが、彼の血は現代の競馬界においても影響力を及ぼしている。

日本の競馬においても、産駒は持込及び外国産馬として出走している。
持込馬ではセクレファスターが種牡馬入りし、1989年阪神大賞典と1991年京都大障害(春)を制したナムラモノノフと1997年のカブトヤマ記念等を制したテイエムオオアラシを輩出。テイエムオオアラシは引退後に小倉競馬場の誘導馬となり、誘導馬引退後はセラピーホースとして余生を送っている。

外国産馬として走ったヒシマサルはきさらぎ賞・毎日杯・京都4歳特別を制し、
後に種牡馬入りしたものの目立った成績は残せなかった。
なお、「ヒシマサル」の名を持つ競走馬は現在まで3頭登録されているが
本馬は「2代目」である。

なお、半兄のファーストファミリー(父・ファーストランディング)は
日本に輸入され、1980年の有馬記念を制し同年及び翌1981年の年度代表馬に輝いた
ホウヨウボーイホッカイドウ競馬伝説の最強馬と称される
コトノアサブキを輩出。
しかしホウヨウボーイは種牡馬1年目に胃破裂が原因で早逝、後継種牡馬となったコトノアサブキもトウカイテイオーが制した1991年の日本ダービーで5着に入ったソーエームテキを輩出したが、1999年に用途変更となりその後の動向は不明となっている。



1989年の秋頃に蹄葉炎を発症。治療を受けるが4本足全てが蹄葉炎になるほど悪化。手の施しようが無くなり、10月4日の正午過ぎに安楽死の処置が取られた。19歳没。遺体はクレイボーンファームに埋葬された。
通常、衛生上の問題により頭と心臓、そして蹄だけが土葬されるのだが、セクレタリアトは遺体全てが土葬された。これはかなり稀で名誉なこととされている。
(日本ではそもそも土葬すること自体が稀)


特徴・強み

・等速ストライド
セクレタリアトを最も象徴する特徴の一つ。サラブレッド離れした筋力と無尽蔵のスタミナ、バネがついたような独特のフォームから繰り出される爆発的な加速力を生み出しているのが等速ストライドである。
通常、サラブレッドは前脚と後脚の距離が短い、つまり胴が短いほどストライドが短くスプリンター向きに、胴が長いほどストライドが長くステイヤー向きになる。ところがセクレタリアトはこうした短長を自らが自在に変えることが出来たので、どんな馬場やレース状況でも対応することができた。レース前の最終追い切りで、芝・ダート問わず5ハロン56秒台後半〜57秒台を常にマークしていたことからも、彼の非凡な競走能力が窺える。
ニューヨーク競馬協会のギルマン博士は「私が見てきたサラブレッドの中で最もパーフェクトな走法」と評価している。

・脅威の代謝能力
セクレタリアトは先述した通り大量に食べて寝るという生活を過ごしていながら、欠点のない馬体を常に保っていた。
通常のサラブレッドならこんな生活を送っていれば馬体重が大幅に増加してしまうが、セクレタリアトの場合脅威の代謝能力により摂取した養分が脂肪に行くことなく筋肉の維持になっていると言われていた。
実際、3歳時のセクレタリアトの胸囲は199.2cmに達しておりレースごとに成長していったので、腹帯をレースの度に新調し、鞍もセクレタリアトに合った特別なものを使用していた。

・巨大な心臓と頑丈な馬体
死亡後にケンタッキー大学でセクレタリアトの解剖をしたところ、心臓の重さが10kg弱と通常のサラブレッドの心臓の重さより倍以上あることがわかった(通常の重さは約4kgである)。病気などで大きくなったわけではなく、これがセクレタリアトの原動力となっていたといわれている。
また、馬体重530kg程度の巨体自慢のセクレタリアトだったが故障とは一切無縁の無事之名馬でもあった。


死後

1999年に「20世紀アメリカ名馬100選」でマンノウォーに次ぐ2位にランクイン。同年には米国郵便公社がセクレタリアトの肖像が印刷された33セントの記念切手を発表。
「20世紀世界の平地競走馬トップ200」でフランスのシーバードに次ぐ2位に。
「20世紀のアスリートベスト10」では競走馬ながら選出され、「20世紀のトップアスリートベスト100」では競馬関係で最高順位となる35位にランクインした。

2010年には、ファンを最も興奮させた馬に送られる賞として「セクレタリアト民衆の声賞」が新設。史上初の牝馬でのBCクラシック制覇を果たしたゼニヤッタが初代受賞馬に選ばれ、ヘレン女史から賞が贈られた。

アーリントンパーク競馬場では、毎年夏にセクレタリアトを記念して「セクレタリアトステークス(G1)」が開催されている。またベルモントパーク競馬場には1/3の大きさの銅像が、ケンタッキー・ホース・パークなどに実物大の銅像がそれぞれ鎮座している。

彼の生涯を再現した映画も「セクレタリアト/奇跡のサラブレッド」と題してディズニーにより公開されている(日本未公開作品)。本編の主人公はセクレタリアトよりもむしろヘレン女史の方であり、本人も映画にカメオ出演している。興味のある方は是非。


関係者のその後についてもここで少し触れておく。
ヘレン女史はセクレタリアトの死後も映画などを含めて精力的に活動しており、ジョッキークラブで初の女性会員になり、1976年〜1984年まではサレブレッド生産者・馬主協会の会長を務めた。こうした長年の競馬関係への貢献に対し、2005年にエクリプス賞功労賞を受賞。2017年に自らの役目を終えるかのように安らかな眠りについた。

ターコット騎手はセクレタリアトの三冠により、史上二人目の2年連続ケンタッキーダービー制覇を達成。また、2年間で5つの米国クラシック制覇というのはターコット騎手が初であった。これらの功績が称えられ、1974年に競馬関係者では初のカナダ勲章(日本の国民栄誉賞に当たる)を授与された。
しかし1978年に落馬事故で下半身不随になり引退。通算成績20281戦3032勝・内GI級競走62勝。引退後すぐに米国競馬の殿堂入りが発表され、1980年にカナダスポーツの殿堂入りも果たした。



死後30年以上経った今でもセクレタリアトの人気は高い。ファンサイトも立ち上がっており、彼のぬいぐるみも未だに販売されている。


世界競馬史上最強馬・究極のサラブレッドと言われた名馬セクレタリアト。彼の残した伝説の数々は、現在も米国の競馬史に煌々と輝き続けている。



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