ボールドルーラー
ぼーるどるーらー
虚弱体質だったが空前の快速馬で、「黄金世代」と呼ばれた同世代のギャラントマン、ラウンドテーブル、アイアンリージらを相手に激闘を続けた。
主な勝ち鞍はプリークネスステークス(1957年)、トレントンハンデキャップ(1957年)など。
ナスルーラ後継種牡馬として大成功をおさめ、北米リーディングサイアーの座に8度輝いた。産駒にはセクレタリアトなどがいる。
性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
父 | ナスルーラ |
母 | ミスディスコ(母父:ディスカバリー) |
生産者 | ホイートリーステーブル |
馬主 | ホイートリーステーブル |
調教師 | ジェームズ・エドワード・フィッツシモンズ |
競走成績 | 32戦23勝 |
1954年
4月6日、クレイボーンファーム(ケンタッキー州)に誕生。ナスルーラのシンジケートに参加するためグラディス・ミルズ・フィップスが作ったホイートリーステーブルが、クレイボーンファームから繁殖牝馬ミスディスコを譲り受け、預託して生産した。
父・ナスルーラはネアルコ後継の大種牡馬。
母・ミスディスコは現役時代は54戦10勝で、繁殖牝馬としてはインデペンデンス、エクスプローラー、フーリッシュワンなどを輩出し、ボールドルーラーは4番仔だった。
後躯が発達しており、ナスルーラのような兎頭だったが父に似ず、性質は大人しく賢かった。背は高かったが体は薄く虚弱だった。
1955年
馬房内の事故で舌を切り、舌先がヘビのように2つに割れ、その痛みに生涯苦しむこととなった。さらには水桶に躓いて脚を負傷し、一歩間違えば予後不良であった。
怪我ばかりしているので、クレイボーンファーム場長アーサー・ボイド・ハンコックはボールドルーラーが訪問客に驚いて事故を起こさないよう、来客から見えない裏手の小牧場で放牧した。
1956年
当時82歳だったジェームズ・エドワード・フィッツシモンズ調教師の厩舎(ハイアリアパーク競馬場)に入厩。2ハロンを22秒で走る俊足には超ベテランのフィッツシモンズ師も驚く。
4月9日、ジャマイカ競馬場(ニューヨーク州)の未勝利戦でデビューし1着。
4月19日、ジャマイカ競馬場の一般競走に出走し1着。
5月2日、ユースフルステークスに出走し1着。ゲートに左後肢をぶつけ、飛節に関節炎を抱えることになる。
5月24日、マリンパーク競走に出走し1着。
6月6日、ジュヴェナイルステークスに出走しレースレコード勝ち。秋まで休養。
9月24日、スロッグズネック競走に出走し、同じナスルーラ産駒ナッシュヴィルの2着に敗れた。
10月5日、アンティシペーションハンデキャップに出走し1着。
10月13日、フューチュリティステークスに出走し1着。
10月27日、当時の世界最高賞金競走だったガーデンステートステークスに出走し、レース中に左後脚と腰の筋肉を痛めバルビゾンの17着に敗れた。
11月6日、レムゼンステークスに出走するが前走での怪我が完治しておらず、鞍上のエディ・アーキャロ騎手が途中で下馬し競走中止となった。温暖なフロリダ州で休養。
1957年
1月30日、バハマズステークスで始動し、素質馬として評判のゲンデュークを破りレースレコード勝ち。
2月16日、エヴァーグレイズステークスに出走し、2着に敗れる。ゲンデュークにレースレコードで雪辱された。
3月2日、フラミンゴステークスに出走し、ゲンデュークを破りレースレコード勝ち。
3月30日、フロリダダービーに出走し、ゲンデュークの2着に敗れる。
4月20日、ウッドメモリアルステークスに出走し、ライバルのギャラントマンを破り1着。
5月4日、ケンタッキーダービーに出走。怪我でゲンデュークが回避したため1番人気だったが、ライバルのアイアンリージの4着に敗れる。後にアーキャロ騎手はスタミナ不安から抑えすぎたのが原因と語っている。
5月13日、プリークネスプレップに出走し1着。
5月18日、プリークネスステークスに出走。ケンタッキーダービーを反省したアーキャロ騎手はスタートから行く気のままに先頭を走らせ、アイアンリージを破り1着。
6月15日、ベルモントステークスに出走。ここでもアーキャロ騎手はスタートから行く気のままに先頭を走らせたが、レース中に心房細動を起こし、ギャラントマンの3着に敗れる。秋まで休養。
9月9日、タイムズスクエアハンデキャップに出走し1着。
9月14日、ジェロームハンデキャップに出走し1着。
9月28日、ウッドワードステークスに出走。デディケートとギャラントマンから執拗にマークされ、デディケートに直線で差されて3着に敗れる。
10月9日、ヴォスバーグハンデキャップに出走し、レースレコードで1着。
10月19日、クイーンズカウンティハンデキャップに出走し1着。
11月2日、ベンジャミンフランクリンハンデキャップに出走し1着。
11月9日、トレントンハンデキャップに出走し、ラウンドテーブル、ギャラントマンを破り1着。デディケートと共に年度代表馬に選ばれた。足元の不安から休養に入る。
1958年
5月17日、トボガンハンデキャップで始動し、1着。
5月30日、カーターハンデキャップに出走し1着。
6月14日、メトロポリタンハンデキャップに出走し、ギャラントマンの2着に敗れる。
6月25日、スタイミーハンデキャップに出走し1着。
7月4日、サバーバンハンデキャップに出走し1着。
7月19日、モンマスハンデキャップに出走し1着。しかしボールドルーラーは古馬になってから常に斤量133ポンド以上を背負わされ続け、脚に限界が来ていた。
7月26日、ブルックリンハンデキャップに出走しコーホーズの7着に敗れる。レース中に左前脚の球節を剥離骨折し、引退が決まる。最優秀短距離馬に選出された。
1959年
生まれ故郷のクレイボーンファームに戻り、ホイートリーステーブルとクレイボーンファームのプライベート種牡馬となる。父・ナスルーラが5月26日に死んでいたため、その後継種牡馬として大いに期待された。
1963年
初年度産駒が活躍し、北米リーディングサイアーとなる。以降、1969年まで7年連続リーディングを獲得。
1970年
鼻腔と副鼻腔に癌を発症。治療が試みられたが、癌が身体の各所に転移。
1971年
7月12日、安楽死処分となる(17歳没)。
1973年
産駒セクレタリアトの活躍で8回目の北米リーディングサイアーとなる。