概要
主な勝ち鞍はコヴェントリーステークス、チャンピオンステークスなど。
気性難が災いして競走馬としては大成できなかったが、種牡馬として多くの活躍馬を輩出し「ナスルーラ系」を確立した。
プロフィール
アーガー・ハーン殿下
アーガー・ハーン殿下(アーガー・ハーン3世)はイギリス領だったインドのイスラム教ニザール派指導者(イマーム)で、近代化を志向する改革主義者であった。
親英派で、1937年には国際連盟の議長も務めた。
1921年以降、イギリスで馬主・生産者としても活動。1922年に購買した牝馬・ムムタズマハルが競走・繁殖で大活躍し、その子孫のマームード、ロイヤルチャージャーなどが近代競馬に多大な影響を与えた。
ナスルーラの母・ムムタズベグムもムムタズマハルの娘である。
略歴
1940年
3月2日、シェシューン牧場(アイルランド)で誕生。
父・ネアルコは大種牡馬、母・ムムタズベグムは名牝ムムタズマハルの娘という良血であった。母父・ブレニムもダービーステークスを勝ち、優秀な種牡馬成績を挙げていた。
雄大な馬体を持ち、四肢が発達していたが、頭部は兎頭の悪相で、ネアルコに似た激しい気性を持っていた。
離乳するとアーガー・ハーン殿下専属のフランク・バターズ調教師に預けられ、26回も英国平地リーディングジョッキーに輝いたゴードン・リチャーズ騎手が騎乗したが、気性が悪く人間に対し攻撃的で手に負えなかった。しかし、なぜか傘を怖がるため(セントサイモンと同様)、ナスルーラが向かってきたら傘を開いて攻撃をためらわせた。
1942年
6月12日、ウィルバートンステークス(ニューマーケット競馬場※)でデビュー。同じネアルコ産駒の牝馬ニアリーの3着に敗れた。
※第二次世界大戦中であり、イギリスではニューマーケット競馬場以外の開催が中止されていた。
6月30日、コヴェントリーステークスに出走し初勝利。
7月18日、グレートブラドリーステークスに出走し1着。
8月26日、ミドルパークステークスに出走。気性の悪さを見せてしまい、リボンの2着に敗れた。
1943年
5月5日、チャリタスステークスに出走。パドックから動くのを拒否するが、8分遅れでゲート入りし1着。
5月、2000ギニーに出走。発走前に暴れて出遅れ、追い込んだものの最終直線で突然やる気を無くして失速し、キングスウェイの4着に敗れた。
6月、ニューダービー(中止になったダービーステークスの代替競走)に出走。残り2ハロンで先頭に立った所でソラを使い、ストレートディールの3着に敗れた。
8月、カヴェナムステークスに出走。リチャーズ騎手はゴール前だけ真面目に走らせるという作戦で1着。
9月、ニューセントレジャー(中止になったセントレジャーステークスの代替競走)に出走。リチャーズ騎手はカヴェナムステークスと同じ作戦を試みたがナスルーラが全くやる気を見せず、ヘリンボーンの6着に敗れた。
10月、チャンピオンステークスに出走。リチャーズ騎手は仕掛けをぎりぎりまで遅らせた。最終直線で後方から一気に差し切り、1着。このレースをもって競走馬を引退。
1944年
ブラッドストックエージェンシー社に購入され、バートングランジスタッド(イギリス)で種牡馬入りした。
1945年
ジョー・マクグラスに購入され、ブラウンズタウンスタッド(アイルランド)に移動。
1950年
クレイボーンファーム(ケンタッキー州)に購入された。
1951年
イギリス、アイルランドのリーディングサイアーを獲得。
1955年
北米のリーディングサイアーを獲得。その後も1956年・1959年・1960年・1962年と5度リーディングサイアーを獲得。
1959年
5月26日、放牧中に大動脈破裂を発症して死亡(19歳)。
主な産駒
ネヴァーセイダイ ニアルーラ ナシュア ボールドルーラー ボールドイーグル グレイソヴリン プリンスリーギフト ネヴァーベンド レッドゴッド ヌーア ナディア ジャイプール