概要
主な勝ち鞍はダービーステークス(1936年)など。
現在、直系子孫は絶えているが牝系では大きな影響力を持ち、ノーザンダンサーやヘイロー、フランケルなどもマームードの子孫である。
プロフィール
略歴
1933年
アーガー・ハーン殿下所有のマルラヴィル牧場(ノルマンディー)で誕生。
父ブレニムは小柄ながらダービーステークスを勝ち、種牡馬として米英のダービー馬を輩出した。
母マーマハルは名牝ムムタズマハルの仔で、繁殖牝馬として成功した。
母父ゲインズバラは第一次世界大戦の戦時下にイギリス三冠馬となり、種牡馬としてもハイペリオンなどを輩出した。
性質は温厚だが頑固。父に似て小柄な馬で成長しても体高155cmしかなく、サラブレッドよりアラブ馬に似た容姿だった。
1934年
アーガー・ハーン殿下はマームードをあまり評価しておらず、ドーヴィル・セールで競りにかけられたが、最低落札価格に達せず主取りとなった。
ニューマーケット(サフォーク州)のフィッツロイ・ハウス厩舎へ送られ、オーストリア出身でアーガー・ハーン殿下の専属となっていたフランク・バターズ調教師に預けられた。
1935年
5月、ニューマーケット競馬場のスプリングステークスでデビュー。スタートでフライングがあり、やり直しの合図が出たが、マームードも含め16頭中13頭が気づかずにゴールまで完走してしまい、出走取消となった。
6月20日、アスコット競馬場のニューステークスに出走し、ウィンダム(この時点では名無し)の3着に敗れた。
7月4日、ニューマーケット競馬場のエクセターステークスに出走し1着。初勝利を挙げた。
7月30日、グッドウッド競馬場のリッチモンドステークスに出走し1着。
9月10日、ドンカスター競馬場のシャンペンステークスに出走し1着。
10月17日、ニューマーケット競馬場のミドルパークステークスに出走。スタートで大幅に出遅れアブジェルの3着に敗れた。
1935年
マームードは芦毛が白くなっていくのが早く、3歳時には既に真っ白だった。
4月1日、ニューベリー競馬場のグリーナムプレートに出走し、ノーブルキングの5着に敗れた。
4月29日、ニューマーケット競馬場の2000ギニーステークスに出走し、ペイアップの2着に敗れた。
5月27日、エプソム競馬場のダービーステークスに出走し、2分33秒8のレースレコードで1着。
6月16日、アスコット競馬場のセントジェームズパレスステークスに出走し、ローズスカラーの2着に敗れた。裂蹄のため休養に入る。
9月9日、ドンカスター競馬場のセントレジャーステークスで復帰。ボズウェルの3着に敗れた。現役引退となる。
1936年
アーガー・ハーン殿下所有のエジャートンスタッド(ニューマーケット)で種牡馬入り。
1938年
1940年
アメリカのコーネリウス・ヴァンダービルト・ホイットニーから購入打診があり、バトル・オブ・ブリテンでイギリスが空襲を受けていたこともあり、アーガー・ハーン殿下はマームードを売却する事とした。
マームードの乗った船がUボートの雷撃を受けるなどのトラブルもあったが、どうにかアメリカに到着し、ホイットニー所有のケンタッキー州の牧場で種牡馬として繋養される。
1941年
1942年
1946年
北米リーディングサイアーとなる。
1947年
産駒アルマームードが誕生。
1957年
北米リーディングブルードメアサイアーとなる。
1962年
9月18日、死亡(29歳)。
1995年
ラムタラがダービーステークスのレースレコードを59年ぶりに更新(2分32秒)。
余談
バターズ師はマームードをあまり評価しておらず、ダービーステークスの時にはタジアクバーの鞍上にトップジョッキーのゴードン・リチャーズ騎手を配して必勝を期し、マームードの鞍上には不仲だったチャーリー・スマーク騎手を配した。
スマーク騎手はスタミナに不安があるマームードの騎乗に悩み、前走で乗ったドノフュー騎手に相談すると中団後方から徐々に位置を上げ、直線で先頭を奪うようアドバイスされ、その通りに乗ってレコード勝ちをおさめた。
所有馬がダービーで1-2フィニッシュを決めたので、ウィナーズサークルでアーガー・ハーン殿下は大喜びだったが、バターズ師は複雑な表情だった。