ムムタズマハル
むむたずまはる
主な勝ち鞍はクイーンマリーステークス(1923年)、キングジョージステークス(1924年)など。
サセックスステークスを勝ったバドルディン、ジュライカップを勝ったミルザを産んだが、繁殖牝馬となったマーマハル、ムムタズベグム、ラストムマハルが現在に至る巨大な牝系を作り上げ、「20世紀の最重要繁殖牝馬」と呼ばれる。
1921年
タットン・サイクス卿夫人が所有するスレッドメア牧場(ヨークシャー州)で誕生。
父は「まだらの驚異(Spotted Wonder)」と呼ばれた快速馬・ザテトラーク、母は牧場長のヘンリー・チャムリーが第一次世界大戦中(競走馬の値段が暴落していた)に1200ギニーで購入したレディジョセフィンで、短距離戦で活躍したサンドリッジの娘であった。
父と同じ芦毛にベンドア斑という特異な毛色だったが気性は安定しており、バランスの取れた馬体だった。
1922年
ドンカスターセールに出品された際は馬体の素晴らしさを絶賛された。ダービー伯爵の専属調教師として知られるジョージ・ラムトン師がアーガー・ハーン殿下の代理人としてセリに参加し、9100ギニーという当時のイギリス史上2番目の高額で落札。
ワットコム(バークシャー州)のリチャード・セシル・"ディック"・ドーソン調教師の厩舎に預けられ、ムガル帝国皇帝シャー・ジャハーンの皇妃ムムターズ・マハルから馬名が採られた。
1923年
4月、デビュー前調教で俊足ぶりを発揮し、「ワットコムに天才少女現る」と噂になった。
5月16日、ニューマーケット競馬場のスプリング2歳ステークス(芝5ハロン)でデビュー。馬なりのまま2着のストレイトレイス(翌年のオークス馬)に3馬身差をつけ、レース・レコードで1着。
6月19日、アスコット競馬場のクイーンマリーステークスに出走。逃げを打ち、2着に10馬身差の1着。「フライング・フィリー(空飛ぶ牝馬)」のニックネームが付いた。
7月21日、サンダウン競馬場のナショナルブリーダーズプロデュースステークスに出走し1着。
8月3日、グッドウッド競馬場のモルコムステークスに出走し1着。
9月11日、ドンカスター競馬場のシャンペンステークスに出走し1着。
10月12日、ケンプトン競馬場のインペリアルプロデュースプレートに出走。重馬場が祟ってアーケードの2着に敗れた。休養に入る。
この年は6戦5勝で「牡馬を含めても史上最高の2歳馬」と評価された。
1924年
5月9日、ニューマーケット競馬場の1000ギニーステークスに出走。残り2ハロンで失速し、プラックの2着に敗れた。
6月18日、アスコット競馬場のコロネーションステークスに出走し、ストレイトレイスの5着に敗れた。マイルでも長過ぎると分かったため、短距離に専念する事となる。
7月30日、グッドウッド競馬場のキングジョージステークスに出走し1着。
8月26日、引退レースとなるヨーク競馬場のナンソープステークスに出走し1着。多くのファンから拍手で送られ競馬場を後にした。
1925年
アーガー・ハーン殿下所有のシェシューン牧場(アイルランド)で繁殖牝馬となる。
1931年
フランスに移動し、アーガー・ハーン殿下所有のマルラヴィル牧場(ノルマンディー)で繋養される。
1937年
最後の仔(9番仔)となるニザミが生まれた。
1939年
第二次世界大戦が勃発。
1940年
ドイツ軍がフランスに侵攻しフランスは降伏。マルラヴィル牧場もドイツ軍に接収された。牧場の馬たちはドイツに連れ去られたが、何故かムムタズマハルだけは留め置かれた。
1944年
6月、連合国軍がノルマンディーに上陸し(ノルマンディー上陸作戦)、ドイツ軍はフランスから追い出される。
1945年
2月、マルラヴィル牧場で死去(24歳)。