概要
主な勝ち鞍は天皇賞(春)(1958年)、有馬記念(1958年)など。
古馬になってから力をつけ、ハクチカラに続き海外遠征も行った。
種牡馬になったものの繁殖牝馬が集まらず地方競馬で現役復帰するなどしたが、その後種牡馬として実績を残した。
プロフィール
性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
父 | マルゼア |
母 | トキツカゼ(母父:プリメロ) |
生産者 | 益田牧場(おいらせ町) |
馬主 | 樫山純三 |
調教師 | 大久保房松(中山競馬場)→二本柳俊夫(中山競馬場)→江川秀三(北海道公営) |
競走成績 | 39戦13勝
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略歴
1954年
5月29日、益田牧場(青森県)に誕生。
父・マルゼアは現役時代が戦時中だったこともあり8戦3勝の成績だったが、種牡馬としてはフエアマンナ、セルローズ等を輩出した。
母・トキツカゼは、皐月賞と優駿牝馬を勝った名牝で、1984年に顕彰馬に選出された。
母父・プリメロはアイリッシュダービーとアイリッシュセントレジャーを勝ち、小岩井農場に種牡馬として輸入され、日本で多数の活躍馬を輩出した。
大手アパレル「オンワード樫山」創業者の樫山純三が馬主となる。ダービー馬オートキツの弟として期待され、ニツポンイチと名付けられた。
1956年
大久保房松厩舎に入厩。
12月15日、中山競馬場の新馬戦に出走し1着。
12月30日、中山競馬場の優勝戦に出走しトビクインの4着に敗れた。
1957年
オンワードゼアに改名。
4月7日、中山競馬場の条件戦(30万下)に出走し1着。
4月14日、下総特別(50万下)に出走しヒロフジの2着に敗れた。
5月26日、東京優駿に出走しヒカルメイジの11着に敗れた。
6月15日、中山競馬場のオープン戦に出走しトパーズの2着に敗れた。
8月17日、函館競馬場のオープン戦に出走しミツドビルの2着に敗れた。
9月、調教師となった二本柳俊夫の厩舎に移籍。
9月22日、毎日王冠に出走しハクチカラの4着に敗れた。
10月5日、中山競馬場のオープン戦に出走しミスカオルの3着に敗れた。
10月26日、阪神競馬場のオープン戦に出走しカツラホマレの3着に敗れた。
12月15日、中山競馬場の特ハンに出走し1着。
12月22日、有馬記念に出走しハクチカラの2着に敗れた。
1958年
1月12日、中山競馬場のオープン戦に出走し1着。
1月19日、金杯(東)に出走し1着。
3月2日、スプリングハンデキャップに出走しブレツシングの2着に敗れた。
4月19日、京都競馬場のオープン戦に出走しビクトリーワンの3着に敗れた。
4月29日、天皇賞(春)に出走し1着。
6月8日、中山競馬場のオープン戦に出走し1着。
6月22日、日本経済賞に出走し1着。秋まで休養に入る。
9月3日、札幌競馬場のオープン戦に出走しハタフオードの2着に敗れた。
10月4日、中山競馬場のオープン戦に出走しトパーズの3着に敗れた。
10月19日、オールカマーに出走しマサタカラの5着に敗れた。
11月3日、目黒記念(秋)に出走しミスオンワードの5着に敗れた。
11月16日、東京競馬場の特ハンに出走しクリペロの9着に敗れた。
12月14日、中山競馬場の特ハンに出走しプルーフの2着に敗れた。
12月21日、有馬記念に出走し1着。アメリカへ遠征する事となる。
1959年
1月16日、オールスタープロボウルハンデキャップに出走し8着に敗れた。
2月27日、エクイポイズステークスに出走し7着に敗れた。
3月4日、チャーチルダウンズステークスに出走し8着に敗れた。
調教中に故障し帰国。現役引退となる。
1960年
オンワード牧場(浦河町)で種牡馬となるが、内国産馬不遇の時代で繁殖牝馬が集まらなかった。
1963年
種付け頭数が少なすぎるため、オンワードケイの名で北海道公営競馬で現役復帰。江川秀三厩舎に入厩。
9月8日、札幌競馬場の特別競走に出走し1着。
9月29日、札幌競馬場の特ハンに出走し1着。
10月20日、函館競馬場の特ハンに出走し4着。
10月27日、函館競馬場の金杯に出走し7着。
11月8日、函館競馬場の特ハンに出走し10着。
再び現役引退。
1964年
オンワード牧場で再び種牡馬となる。
1970年
産駒のオンワードガイが朝日杯3歳ステークスに勝利。
1972年
産駒のジーガーがステイヤーズステークスに勝利。
1975年
死去(19歳)。