概要
1950年代後半、日本中央競馬会で活躍した。
主な勝ち鞍は東京優駿(1956年)、天皇賞(秋)(1957年)有馬記念(1957年)、ワシントンバースデーハンデキャップ(1959年)など。啓衆社賞年度代表馬(1957年)、啓衆社最優秀5歳以上牡馬(1957年)。
インドに寄贈され、種牡馬として多くの重賞馬を輩出したことを称え、JRA顕彰馬(1984年)に選出された。
プロフィール
略歴
1953年
4月20日、ヤシマ牧場に生まれる。
父のトビサクラは小岩井農場がイギリスから輸入したプリメロの子だが、競走成績はそこそこで障害レースにも出走している。
母の昇城(フアイヤライト)は父がダイオライト、母が月城(クレオパトラトマス)と宮内省下総御料牧場生産の良血馬であった。
半弟にヤシマフアーストがいる。
『大尾形』と称される尾形藤吉調教師の口添えにより、西製綱社長の西博に購入された。
1955年
東京競馬場の尾形藤吉厩舎に入厩。
10月1日、八木沢勝美騎手を鞍上に中山競馬場の新馬戦(芝1000m)でデビュー。2着に4馬身差を付けて勝利を挙げた。その後、中山競馬場で出走を続け、5連勝。
12月11日、朝日杯3歳ステークスで重賞初挑戦。後のライバルとなるキタノオーの2着に敗れる。
1956年
3月31日、東京競馬場のオープン戦で始動するが、クダンホマレの2着に敗れる。
4月22日、東京競馬場開催となった皐月賞に出走し、ヘキラクの12着に敗れる。担当厩務員が尾形に無断で整腸剤を投与していたことがわかり、ベテランの中沢徳次厩務員に交代され、中沢は1日3時間睡眠でハクチカラを看護した。
5月20日、尾形厩舎の看板騎手だった保田隆芳騎手に乗り替わり、東京競馬場のオープン戦に出走し1着。
6月3日、東京優駿に出走し、ヘキラクとキタノオーがスタート直後、内側に斜行しエンメイ、トサタケヒロが落馬(エンメイは競走能力喪失)、ハクチカラも第2コーナーで左前脚が落鉄という波乱のレースとなったが、キタノオーに3馬身差で圧勝。保田騎手にとっても初のダービー制覇であった。秋競馬へ向けて休養に入る。
9月22日、八木沢勝美騎手に乗り替わり、東京競馬場のオープン戦に出走し1着。
10月7日、セントライト記念に出走し、キタノオーの4着に敗れる。
11月3日、保田隆芳騎手に乗り替わり、菊花賞に備えて京都競馬場に入り、オープン戦に出走し1着。
11月18日、菊花賞では2番人気に支持され、圧倒的1番人気のキタノオーの5着に敗れる。
12月2日、カブトヤマ記念に出走し1着。
12月16日、中山競馬場の特殊ハンデキャップ競走に出走し1着。
12月23日、同年創設されたファン投票によるオールスター競走・中山グランプリ(後の有馬記念)に出走。出走12頭中8頭が八大競走優勝馬で、ハクチカラは5番人気。メイヂヒカリの5着に敗れた。
1957年
1月6日、ニューイヤーステークスで始動。フエアマンナの3着に敗れる。
3月17日、高橋久男騎手に乗り替わり、東京競馬場のオープン戦に出走し、フエアマンナの2着に敗れる。
3月24日、保田隆芳騎手に乗り替わり、目黒記念(春)に出走し1着。
4月6日、中山競馬場のオープン戦に出走し、フエアマンナの4着に敗れる。
5月3日、東京競馬場のオープン戦に出走し1着。
6月9日、安田賞(後の安田記念)に出走し、ヘキラクの2着に敗れる。
6月22日、中山競馬場のオープン戦に出走し1着。
6月30日、日本経済賞(後の日経賞)に出走し1着。秋競馬へ向けて休養に入る。
9月22日、毎日王冠に出走し1着。
10月20日、オールカマーに出走し、キタノオーの2着に敗れる。
11月3日、目黒記念(秋)に出走し1着。
11月23日、天皇賞(秋)に出走し1着。この時のハクチカラの単勝支持率85.9%は現在でもJRA史上最高記録である。
12月22日、この年亡くなった有馬頼寧理事長を記念し、中山グランプリは有馬記念に改称された。ハクチカラは単勝支持率76.1%の1番人気で臨み、1着。
1958年
1月、1957年度の啓衆社賞年度代表馬、啓衆社最優秀5歳以上牡馬に選出される。
当時、天皇賞は勝ち抜け制で1度優勝したら出走できなかったため、保田隆芳騎手を帯同し、海外長期遠征を敢行する事となった。
5月26日、DC-4をチャーターし日本を出発。もしハクチカラが機内で暴れ、安全に支障を来す場合、機長にハクチカラを射殺する権限が与えられていた。
5月29日、ハリウッドパーク競馬場(カリフォルニア州)のボブ・ウィラー厩舎に入厩。
7月2日、ハリウッドパーク競馬場の一般競走に出走し、チノの9着に敗れる。数戦して帰国する予定だったが、アメリカの競馬に対応できるよう長期滞在させるべきというボブ・ウィラー師の意見に従い、その後もカリフォルニア州の競馬場を転戦する。
1959年
2月23日、海外11戦目のワシントンバースデーハンデキャップでレイモンド・ヨーク騎手を鞍上に勝利し、日本馬として史上初の海外レース制覇と海外重賞制覇を達成した馬となった。36年後の1995年にフジヤマケンザンが香港国際カップを制するまで海外レースで日本馬は勝利する事はなく、当時は歴史的大偉業であった。また、次の日本馬のアメリカでの勝利は、40年以上後のサンデーブレイク(2002年ピーターパンステークス)まで無かった。
7月22日、デルマー競馬場(カリフォルニア州)でトゥインクリング賞に出走し、グリークソヴリンの6着に敗れる。これをもって引退となる。通算49戦は歴代東京優駿馬で最多の出走回数だった。
1960年
日本軽種馬協会七戸種馬場(青森県上北郡七戸町)で種牡馬入りするが内国産種牡馬のため繁殖牝馬が集まらず、アラブ馬との交配が多かった。
1968年
インドに輸出される。国立クニガル牧場に種牡馬として繋養され、多くのクラシックホースを輩出した。
1979年
8月6日、死去(27歳)。
1984年
JRAで顕彰馬制度が発足し、第1回選考で顕彰馬に選定され競馬の殿堂入り。
余談
- ライバルのキタノオーとの対戦ではハクチカラの先着4回、キタノオー6回であった。キタノオーは1957年の目黒記念(秋)の後に故障し、翌年に肺炎で死亡した。
- 牝馬のフエアマンナとの対戦ではハクチカラの先着5回、フエアマンナ4回であった。フエアマンナは最後の対戦となった1957年の東京盃で競走中止・予後不良となった。
- 1957年のオールカマーでは「アラブの怪物」と呼ばれたアングロアラブ馬・セイユウが先頭でレースを引っ張っていた。動こうとしない保田隆芳騎手に対し、ヘキラク鞍上の蛯名武五郎騎手が「ダービー馬がアラブに負けてもいいのか!」と言い、それに応えた保田が早めにセイユウを捉えに動いたところをキタノオーが差して勝った。
- アメリカでの騎乗では全くよいところのなかった保田騎手だったが、滞在中にモンキー乗りを会得し、帰国翌年から3年連続でリーディングジョッキーとなった。