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ハクチカラ

はくちから

ハクチカラは日本の元競走馬・種牡馬、1957年度代表馬。

1953年4月20日生まれ、父トビサクラ・母昇城。通算49戦21勝、日本では32戦20勝。管理調教師は『大尾形』と称される名伯楽・尾形藤吉

1955年デビューし、3歳時は5戦5勝と挙げて大一番の朝日杯3歳Sでは後にライバルとなるキタノオーの2着。翌1956年、3月のオープン戦を叩いて臨んだクラシック初戦・皐月賞は体調を崩して下痢を発症していたためにヘキラクの12着に惨敗、この巻き返しを図るべく厩務員らの看病や、鞍上に当時トップジョッキーだった保田隆芳を据え、1戦を叩いて迎えた日本ダービーは重馬場ながらキタノオーの3馬身差で圧勝、また保田も初のダービー制覇であった。

夏の休養を経て、9月に復帰。緒戦のオープン戦を制した後、セントライト記念では勝ったキタノオーから1馬身余の4着。その後、クラシック最終戦の菊花賞に備えて京都競馬場に入り、オープン戦を勝って菊花賞に臨んだ。当日は圧倒的1番人気のキタノオーに次ぐ2番人気に支持されたが、後方待機策から最後の直線で鋭く伸びたキタノオーに対し、ハクチカラは中団から伸びを欠いて5着。

菊花賞の後は関東に戻り、カブトヤマ記念やハンデキャップ競走を連勝。年末には当年創設されたファン投票によるオールスター競走・中山グランプリ(現・有馬記念)に出走。出走12頭中の8頭が八大競走優勝馬という顔触れで、当日は5番人気であった。レースは1番人気の天皇賞メイヂヒカリが2着キタノオーに3馬身半差を付けて圧勝。ハクチカラは5着だった。

翌1957年、春まで休養に入ったキタノオーに対し、ハクチカラは年頭から出走を続けた。緒戦から3、2、2着と勝ち切れないレースが続くが、3月24日の目黒記念(春)で、休養から復帰してきたキタノオーを5着に退けて重賞3勝目を挙げる。この後、天皇賞・春に備えて西下したキタノオーに対し、ハクチカラは天皇賞に出走せず、6月末までに東京盃日経賞を含む4勝を加えた。

夏場は休養し、秋は毎日王冠を制した後、65kgの負担重量で臨んだオールカマーで目黒記念以来の対戦となったキタノオーに敗れ2着となった。この競走では「アラブの怪物」と呼ばれたアングロアラブセイユウが先頭でレースを引っ張っていたが、同馬の実力を知る蛯名武五郎が、動こうとしない保田に対し後方から「ダービー馬がアラブに負けてもいいのか!」と発破を掛け、これに応じて早めにセイユウを捉えに動いた結果、最後にキタノオーに差されたというエピソードが残っている。

2週間後に目黒記念・秋で再びキタノオーと対戦し、半馬身差で前走の雪辱を果たした。この後、キタノオーは故障し、これが両馬の最後の対戦となった。先着回数はハクチカラ4回に対しキタノオー6回であった。なお、キタノオーは翌年に肺炎を起こして現役のまま死亡してしまった。

そしてハクチカラは天皇賞・秋に出走し、これを勝つ。なお天皇賞・秋でのハクチカラの単勝支持率85.9%は現在でもJRA史上最高の支持率である。そして年末には中山グランプリから改称された有馬記念を2着オンワードゼアに3馬身差をつけて制した。この有馬記念での単勝支持率も76.1%で、単勝式馬券は100円の元返しであった。
春秋の目黒記念と毎日王冠、さらに秋の天皇賞と有馬記念も制したことから、同年の最優秀古馬牡馬と、年度代表馬に選出される。

1958年以降は当時としては珍しい海外長期遠征を敢行(天皇賞が勝ち抜け制度で、1度優勝したら二度と出走できなかった事情もある)、1959年海外11戦目のワシントンバースデーハンデで勝利し、日本馬として史上初の海外レース制覇と海外重賞制覇を達成した馬となった。
その後36年後の1995年フジヤマケンザン香港国際カップを制するまで海外レースで日本馬は勝利する事はなく、当時は歴史的大偉業であった。
さらに日本馬のアメリカでの勝利は、40年以上後のサンデーブレイク(2002年ピーターパンステークス)やシーザリオ(2005年アメリカンオークス)までなかった。

ワシントンバースデーハンデからさらに6戦続けるが、成績は最下位などもあったため引退。
日米通算49戦21勝は歴代日本ダービー馬で最多の出走回数だった。

引退後は種牡馬入りするが、国内では輸入馬至上主義に押されて繁殖牝馬が集まらず、その後1968年にインドに輸出され、そこで種牡馬生活を送ることになるが、インド競馬において多くのクラシックホースを輩出した。

1979年8月、繋養先のインド・国立クニガル牧場にて死去。

1984年、顕彰馬に選定された。

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