概要
日本馬として36年ぶりに海外重賞を制覇し、9歳で重賞を勝った。
主な勝ち鞍は香港国際カップ(1994年)、中山記念(1995年)、金鯱賞(1996年)、中日新聞杯(1992年)、七夕賞(1995年)など。
伯父にワカテンザン、ワカオライデン、大叔父にテンポイントがいる。
獲得賞金5億1491万円。
プロフィール
性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
父 | ラッキーキャスト |
母 | ワカスズラン(母父:コントライト) |
生産者 | 吉田牧場 |
馬主 | 藤本龍也 |
調教師 | 戸山為夫(栗東)→ 鶴留明雄(栗東)→ 森秀行(栗東) |
生涯戦績 | 38戦12勝(中央:34戦11勝 地方:1戦0勝 香港:3戦1勝) |
香港表記 | 富士山 |
略歴
1988年
父・ラッキーキャストは出走歴はないが、ヨーロッパ2歳チャンピオンのマイスワローを父に持つ良血。母・ワカスズランは牝系でクモワカの血をひいていた。
大柄で落ち着いており、当歳馬の中で一頭だけ大人のようだった。
1990年
栗東の戸山為夫厩舎に入る。「フジヤマ」を冠名で使用する藤本龍也が馬主となり、フジヤマケンザンと名付けられた。入厩した時点で馬体重が570kgもあり、足元の負担を考慮して強い調教は避けられ、デビューは遅れた。
1991年
1月6日、小島貞博騎手を鞍上に京都競馬場の新馬戦でデビュー。馬体重546kgと絞れておらず、ダイナミックスピンの5着に敗れた。
1月20日、京都競馬場の新馬戦に出走。馬体重が550kgと前走より更に増えていたものの初勝利。しかし、骨膜炎(ソエ)のため休養に入る。
10月5日、嵯峨野特別(900万下)で復帰し1着。
10.12日、嵐山ステークス(1500万下)に出走しキョウワユウショウの2着に敗れ、賞金不足で菊花賞(GⅠ)出走は難しくなった。しかし、直前に回避馬が出て出走できる事となる。
11月3日、菊花賞で重賞初挑戦。レオダーバンの3着に敗れた。
11月24日、ジャパンカップ(GⅠ)に出走しゴールデンフェザントの8着に敗れた。
12月22日、有馬記念(GⅠ)に出走しダイユウサクの10着に敗れた。
1992年
1月12日、ジャニュアリーステークス(1500万下)に出走し1着。オープンに昇格。
2月3日、ダイヤモンドステークス(GⅢ)に出走しミスターシクレノンの8着に敗れた。
3月8日、中日新聞杯(GⅢ)に出走し1着。重賞初勝利。左前脚の球節を痛めて休養に入る。
12月6日、ディセンバーステークス(オープン)に出走し1着。
12月27日、有馬記念に出走しメジロパーマーの14着に敗れた。休養に入る。
1993年
5月29日、戸山師が癌のため死去し厩舎が解散。フジヤマケンザンは鶴留明雄厩舎へ仮移籍。
8月8日、関屋記念(GⅢ)で復帰。マイスタージンガーの2着に敗れた。
8月22日、函館記念(GⅢ)に出走しゴールデンアイの4着に敗れた。
9月、戸山為夫厩舎のスタッフだった森秀行が新たに厩舎を開き、フジヤマケンザンは移籍することとなった。
10月10日、福島民報杯(オープン)に出走しモンタミールの2着に敗れた。森師は戸山厩舎の主戦騎手を起用しない方針で、デビューから乗って来た小島貞博騎手は降ろされることとなった。
10月31日、岡部幸雄騎手に乗り替わって天皇賞(秋)(GⅠ)に出走しヤマニンゼファーの9着に敗れた。
11月21日、松永幹夫騎手に乗り替わってマイルチャンピオンシップ(GⅠ)に出走しシンコウラブリイの8着に敗れた。
12月12日、田島信行騎手に乗り替わって愛知杯(GⅢ)に出走しホマレオーカンの5着に敗れた。この年は0勝に終わった。
1994年
1月23日、蛯名正義騎手に乗り替わってアメリカジョッキークラブカップ(GⅡ)で始動。マチカネタンホイザの2着に敗れた。
3月13日、岡部幸雄騎手に乗り替わって中山記念(GⅡ)に出走しサクラチトセオーの2着に敗れた。
4月12日、帝王賞でダートに初挑戦。スタビライザーの16着に敗れた。
5月15日、蛯名正義騎手に乗り替わって安田記念(GⅠ)に出走しノースフライトの11着に敗れた。
6月26日、吾妻小富士オープン(オープン)に出走し1着。1年半ぶりの勝利となった。
7月24日、BSNオープン(オープン)に出走し1着。
10月9日、毎日王冠(GⅡ)に出走しネーハイシーザーの2着に敗れた。
10月30日、天皇賞(秋)に出走しネーハイシーザーの9着に敗れた。
11月27日、ジャパンカップに出走しマーベラスクラウンの11着に敗れた。
12月11日、香港に遠征し、香港国際カップ(GⅠ)で海外重賞初挑戦。出遅れが響きステートタージの4着に敗れた。
1995年
3月12日、中山記念(GⅡ)で始動し1着。
4月1日、香港に遠征し、クイーンエリザベス2世カップ(GⅠ)に出走。馬群に閉じ込められ、レッドビショップの10着に敗れた。
6月4日、河内洋騎手に乗り替わって宝塚記念(GⅠ)に出走しダンツシアトルの11着に敗れた。
7月9日、蛯名正義騎手に乗り替わって七夕賞(GⅢ)に出走し1着。秋まで休養に入る。
10月22日、カブトヤマ記念(GⅢ)に出走しアイオーユーの4着に敗れた。
11月12日、富士ステークス(オープン)に出走し1着。
12月10日、ドージマムテキを帯同して香港に遠征。香港国際カップに出走し1着。日本馬の海外重賞勝利はハクチカラ以来36年ぶりであった。複数回チャレンジして経験を積み、仲の良い馬を帯同させるなど、森厩舎はその後に活きるノウハウを得、シーキングザパールでの海外GⅠ初勝利に繋がった。
1996年
3月10日、中山記念で始動。サクラローレルの10着に敗れた。
6月9日、村本善之騎手に乗り替わって金鯱賞(GⅡ)に出走し1着。9歳で重賞を勝った(史上3頭目)。
7月7日、宝塚記念に出走しマヤノトップガンの5着に敗れた。レース中に右前脚を2箇所骨折し、休養に入る。
1997年
2月8日、復帰できないまま競走登録を抹消され、引退。故郷の吉田牧場へ帰り種牡馬となる。32頭の産駒が競走登録されたが活躍馬は出なかった。
2001年
2005年
8月、有志により結成された「チームケンザン」に譲渡される。吉田牧場に繋養され、余生を過ごす。
2016年
4月13日、老衰により死去(28歳)。