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ツインターボ(競走馬)

きょうそうばついんたーぼ

1988年生まれの日本の競走馬・種牡馬(1988 - 1998)。主な勝ち鞍は1991年のラジオたんぱ賞(現ラジオNIKKEI賞)、1993年の七夕賞・オールカマー(いずれもGⅢ)。序盤から全力の大逃げで他馬を引き離す戦法をとり、逃げ切って勝利するか力尽きて失速惨敗かという極端な走りで90年代前半に競馬ファンを魅了した迷馬であり名馬。
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曖昧さ回避

破滅型とも称される大逃げを戦法とし、「大勝ちか大惨敗か」という極端なレーススタイルから、「中央競馬最後の個性派」とも呼ばれた競走馬

異名は「逃亡者」「超快速の飛ばし屋」「ターフのエンターテイナー」など。派手な大逃げで観衆を沸かせ、そして(大抵の場合)レース後半に失速し笑いを取る姿がベテラン芸人のようだということで「師匠」とも呼ばれた。本項目で解説する。

プロフィール

吼えろツインターボ!!全開だ!ターボエンジン逃げ切った!!

 (1993年七夕賞:福島テレビ高橋雄一アナ)

見事に決めたぞ!逃亡者ツインターボ!!

 (1993年オールカマー:フジテレビ塩原恒夫アナ)

ここでツインターボが捕まった!ツインターボの逃げは、早くもゴール前500mで壊滅している!

 (1993年天皇賞秋:フジテレビ三宅正治アナ)

ツインターボの先頭はここで終わり!

 (1994年有馬記念:ラジオたんぱ佐藤泉アナ)

生年月日1988年4月13日
死没日1998年1月15日
欧字表記Twin Turbo
性別
毛色鹿毛
ライラリッジ
レーシングジイーン
母の父サンシー
5代内のインブリードNearco5×5
主戦騎手大崎昭一、中舘英二など
競走成績35戦6勝(中央22戦5勝 + 地方13戦1勝)
生産者福岡敏宏
馬主黒岩晴男

父ライラリッジはアメリカで一般戦を2勝したのみの馬だったが、半姉にプール・デッセ・デ・プーリッシュなどGⅠ3勝を挙げたリヴァークイーンがいる良血を買われて日本で種牡馬入り。ツインターボの他に北海優駿3着のユウコウリッジを送り出した。

祖父リファールは大種牡馬ノーザンダンサーの後継種牡馬の1頭で、フランスで現役を送りGⅠ2勝。

その産駒には、凱旋門賞ダンシングブレーヴキョウエイマーチキングヘイローテイエムオーシャンらの父)、日本で種牡馬として活躍したモガミ(シリウスシンボリメジロラモーヌレガシーワールドらの父)、そしてアルザオ(ブラックタイドディープインパクト兄弟の母父)などがおり、日本競馬界への影響も大きい。


母父サンシーはフランスから日本に輸入された種牡馬。産駒に1980年の桜花賞エリザベス女王杯ハギノトップレディ、母父としての産駒にツインターボのほか、1991年の安田記念スプリンターズステークスダイイチルビーがいる。


母レーシングジイーンは中央1勝ながら繁殖牝馬としてはツインターボの他にもマーキュリーカップ3着のゲイリーミナレットなど複数の中央勝ち馬を送り出している。

牝系はツインターボの7代母に当たるイギリス産馬オーイエー(英字表記は「Oh Yeah!」であり、ビックリマークを使用している異色の馬名である)が日本に輸入されたことに端を発しており、牝系出身の馬には天皇賞(春)を制し凱旋門賞にも挑戦した(18着)メジロムサシらがいる。


このように祖先縁者を辿れば有名な馬は多いが、ツインターボの父ライラリッジ・母レーシングジイーン自身はどちらも重賞を取った経験のない馬である。父にとっても、母にとっても、産駒唯一の重賞馬がこのツインターボである。


戦績

※本記事の表記は旧馬齢表記(現在の表記より+1歳)を用いる。

誕生

1988年北海道静内町の福岡牧場で誕生。

生まれつき競走馬として十分のバネを備えてはいたが、幼少時から食が細かったために馬体がなかなか大きくならず、現役中もとにかく小柄で410~420kg台しかなかった。特にレースで走らせるとその明らかに他馬より小さな馬体は非常に目立つものとなっている。


1990年、デビューに向けて美浦トレーニングセンター笹倉武久厩舎に入る。

ところが、その小さな身体に反して二面性を持ち、馬房ではおとなしいが調教時は人が跨るのを酷く嫌がるなど気性の荒さを見せたとされる。

しかもその気性はレース向けの荒さではなく、馬群に入るとやる気をなくしがちで、調教にかなり手間取ったこと、その激しい気性ゆえにゲートに入ると落ち着きを失ってしまう傾向にあったことなどの要因が重なり、3歳(現在の2歳)中のデビューができなかった。

そのキレ味にも欠けた末脚から開き直った陣営は、本来格下が格上を狙う、一か八かの大逃げをツインターボのレーススタイルにすることを選択した。かつ、そのスタイルを最大限に活かすために、快速馬が揃うマイル以下の短距離でも、スタミナが厳しくなる2400m以上の長距離でもなく、2000m前後の中距離が主戦場として選ばれる。


1991年(4歳)

4歳になった1991年3月、中山競馬場の新馬戦(ダート1800m)でデビュー。

騎手には「まず先頭に立て。あとは方向の舵取りだけして、馬の走りたいように走らせれば、それでいい」との指示が出されたが、その通りスタートから先頭に立ったツインターボは2着に3馬身差をつけて逃げ切り、デビュー戦を飾った。

続く条件戦もくれん賞(芝2000m)も逃げ切りを決め、2連勝。


「これはもしかしたら」と感じた陣営は、次のレースに3着までが日本ダービーへの優先出走権を得られる青葉賞(当時はオープン競走、現在はGⅡ)を選ぶ。

……しかし、ダービーと同じ東京競馬場2400mはツインターボの適性には長すぎた。第4コーナーまでは快調に先頭を逃げていたもののそこから失速、レオダーバン(後にこの年の菊花賞馬となる)の9着に終わった。


日本ダービーの舞台に立つこと叶わなかったターボは、6月のラジオたんぱ賞(GⅢ、現:ラジオNIKKEI賞)に挑む。当時、このレースは日本ダービーに敗北した・出られなかった馬が出走することが多く「残念ダービー」と揶揄されることもあったが、1977年にはマルゼンスキーが驚異的な勝利を収めた例もある。

大崎昭一騎手を背に快調にハナを取ったツインターボは、きっちりと逃げ残って2着に1馬身半差をつけゴール。重賞初制覇を挙げた。

秋戦線でも、9月のセントライト記念(GⅡ)・11月の福島記念(GⅢ)と、どちらも最後勝ち馬にかわされたものの2着入線と好走した。後の「負けるときは大惨敗」というイメージはこの4歳の頃はまだなく、むしろ小さな馬体でかっ飛ばす割に極端なガス欠も起こさない馬だった。


1991年有馬記念

「身体は小さいが、逃げでレースを盛り上げる面白い馬がいる。」

競馬ファンの間で徐々に注目を集めたツインターボは、1991年末のグランプリ有馬記念GⅠ初出走を果たすことになった。


この年の大本命は当時の最強ステイヤーメジロマックイーンであり、単勝1.7倍の圧倒的1番人気。一方、これに対抗すべきこの年の二冠馬トウカイテイオーは故障で不在。夏から秋に重賞3勝を挙げた昇り調子の新鋭ナイスネイチャが2番人気(8.7倍)に推された。さらに宝塚記念馬メジロライアン、天皇賞(秋)を制したプレクラスニー、マイル戦線の雄ダイタクヘリオスといった古馬たちが居並ぶ。

これらの面々の中、ツインターボは15頭中の11番人気(55.6倍)。穴馬には違いないが、「まともに走ってマックイーンに勝てるわけがない。穴をぶち開けるとしたら、こういう馬だ」と、ターボに賭けた購入者も少数ながらいたということである。

しかしやはり、ツインターボに2500mは長すぎた。第3コーナーまでは先頭を保ったものの失速、14着に敗れた(最下位15着はオースミシャダイ。元より絶不調だったが今回を引退レースと決めていたので、無事に走り終えることを最優先としていた)。

なお、直線でマックイーンより早く抜け出し、ターボ以上の大穴を開けたのはダイユウサク(14番人気、単勝137.9倍)であった。また失速したツインターボを後ろの馬が避けていく中でインコースに隙間が空いたため、ダイユウサクがそこを突いて大番狂わせを起こすきっかけになった。もちろんダイユウサクがこのレースに限っては強かったからできたことだが。

1992年(5歳)~1993年(6歳)春

初のGⅠは力の差を見せつけられたが、3月にデビューし夏には重賞初制覇、12月にはGⅠ初出走と、1年足らずで大きく出世したツインターボ。

しかし、有馬記念の後に鼻出血が判明する(単なる鼻血ではなく、肺からの出血に由来する場合があり油断ならない)。長期休養を余儀なくされ、1992年(5歳)をほぼ棒に振る。11月に復帰したオープン戦・福島民友カップ(1800m)では、第3コーナーの時点でもう先頭を明け渡し最下位。その後もなかなか調子は戻らず、1993年(6歳)の春まで凡走が続いた。ただ、この時期においても、掲示板にこそ乗れないものの1着から1秒以上話されるような惨敗はしていない。


余談ながら、1992年の有馬記念はメジロパーマーダイタクヘリオスバカコンビ1号2号による爆逃げ劇場が繰り広げられた年である。もし、ツインターボが故障なく2年連続の有馬出走を果たしていたら、爆逃げ劇場に一層の拍車がかかったことは想像に難くないが、残念ながら実現には至らなかった。

1993年七夕賞

復活は突然やってきた。1993年7月の七夕賞(GⅢ・福島芝2000m)。

このレースでは逃げ馬を得意とする中舘英二騎手が初騎乗(中舘騎手はツインターボのデビュー戦を見た時から「いつかツインターボに乗ってみたい」と思っていたようである)。

中舘騎手が選ばれたもう一つの理由は、ターボがデビュー前から抱えていたゲート難の傾向が悪化して出遅れ癖が目立つようになっていたことから、逃げ戦法が得意な中舘の騎乗によりその悪癖が改善できる可能性を期待したためでもあった。


そしてツインターボは「他の馬を自らのペースに巻き込んで全員壊滅させる」ことで勝利した。というのもこのレース、ツインターボを含め五頭も逃げ馬が出走しており、それぞれが先頭を取ろうとした結果、序盤から超ハイペースになったのである。当レースに出走し2着のアイルトンシンボリは、芝最長距離重賞・ステイヤーズステークス(3600m)を二連覇するほどのスタミナ自慢の馬だが、そんな馬ですら後半にはばててしまっていた。

このレースがいかに無茶苦茶なペースであったかと言えば、2000mのレースで前半1000mのラップタイムが57秒4(最後尾ですら一分を切っていた)、上がり3ハロンで37秒を切った馬が皆無だったと言えば、わかる人にはわかるだろう。

分かりやすく説明すると、ツインターボと同じ大逃げで有名なサイレンススズカ1998年天皇賞秋で叩き出した前半1000mのタイムと同じペースである。

ちなみに勝ち時計も七夕賞としては初めて2分を切る1分59秒5というタイムであった。

1993年オールカマー

続いて9月のオールカマー(GⅢ・中山芝2200m)。

このレースは、前年優勝の「鉄の女」イクノディクタス桜花賞シスタートウショウ、重賞3勝のホワイトストーンムービースター、地方からも帝王賞などを制した南関東の雄ハシルショウグンなど、多彩な顔触れが集った。そして何といっても、同年春に天皇賞(春)でメジロマックイーンを破ったライスシャワーが秋の始動戦として参戦しており、当然の1番人気(1.8倍)に推されていた。


一方、前走で会心の逃げ切りを決めたツインターボは3番人気(7.1倍)。今回もスタートから派手にハナを切ったが、前走の七夕賞の印象から「どうせハイペースで逃げて自滅するだろう」と、無理にターボを追う馬はいなかった。また、「勝つためにはライスシャワーに仕事をさせないことだ」と、多くの馬がライスシャワーのマークに付いたこともレース展開の要因として大きかった。

ところが、中舘騎手はいつも通りの大逃げと見せかけつつ中盤でターボの手綱を抑え、1000mのラップタイムが59秒台と(ツインターボとしては)ペースを抑えめにしつつリードは保って脚を残していた。「ツインターボについて行って巻き添えを食らいバテてしまったら元も子もない」と思っていた他の騎手や競走馬達の裏をかいたのである。

3角、4角、他の騎手が予測していたツインターボの逆噴射は起こらない。ライスシャワー鞍上は名手的場均、「してやられた」ことに気づき、馬群を抜け出しムチを入れて追いにかかるが手遅れであった。2着ハシルショウグン・3着ライスシャワーに5馬身差をつけ、頭脳戦を展開しての快勝だった。


その後のJRA時代

しかし、ツインターボの中央での勝ち鞍はこのオールカマーが最後となった。中舘が「あのオールカマーで燃え尽きたのかも」と後に語ったように、若駒の頃の粘り腰も、オールカマーでの幻惑ぶりも夢のように消え失せ、スタートから過給圧全開でぶっ飛ばしてはゴールの遥か手前でガス欠を繰り返すようになってしまった。


次走は天皇賞(秋)に参戦、前2走の勝ちっぷりもあり3番人気に推されるが、「この本番・大舞台でもうツインターボの好きにはさせない」と、他馬は揃ってツインターボの刻むハイペースに構わず、大逃げを許さずに早めに捕まえに行ったのである。結果、フジテレビ・三宅正治アナウンサーが「ツインターボの逃げは早くもゴール前500mで壊滅している!」と絶叫したように(「逃げが壊滅」などという表現はおそらくツインターボの他に使われたこともないはず)長い直線の入口で後続に飲み込まれると、ヤマニンゼファーの勝利の影で17着最下位。


1994年(7歳)も重賞に出走を続けるが、掲示板にも残れないレースが続いた。

同年12月、自身2度目の有馬記念に出走。上述の通り、1991年に4歳で初めての有馬に出走した時は「未だ重賞1勝ながら逃げで好走を続ける昇り調子の若馬」という立場であり、メジロマックイーンに大金星を挙げるとしたらこういう新鋭かもしれない……そんな期待をした競馬ファンもいたわけだが、この1994年では完全に「お祭りレースのネタ枠」扱いであった。第4コーナーでツインターボが馬群に飲まれた際の実況「ツインターボの先頭はここで終わり!」が、お約束扱いを物語っていよう。

1995年(8歳)の4月には、実に新馬戦以来となるダート戦の帝王賞に出走。鞍上は武豊であり、ターボの現役唯一となる差し馬スタイルを選んだ。しかし結果は15着の最下位であり、この武豊のレース運びは競馬ファンから「逃げ馬としてのツインターボの歴史に泥を塗った」としてボロクソに言われがちである。

ただし、上述の通りこの頃のツインターボはボロ負け続きであり、なんとか活路を見出そうと新馬戦以来のダート戦に挑み、勝ちを模索した結果である。武豊の騎乗もツインターボの可能性を探るためのものであるため、一概に批判だけを受けていたわけではない。


結局帝王賞の次走、5月新潟大賞典での11着が、中央での最後のレースとなった。


地方転厩後

1995年夏から、起伏の無い平坦コースの地方競馬・上山(かみのやま)競馬場(山形県上山市、なお2003年限りで廃止)に移った。転厩直後の初レースこそ勝利したが後は振るわず、1996年(9歳)8月の重賞・クラスターカップ11着を最後に引退。

この成績では華々しい引退式こそ望むべくもなかったが、レース前に1枠1番のツインターボが最初にパドック入りすると、彼一頭でパドック一周を終えるまで他の馬は示し合わせて入場せず引退式代わりの餞をするという心温まるエピソードもあった。


引退後

種牡馬入りしたものの、特に目覚ましい血統ではなく、成績的にも種牡馬としての需要はほとんどなかった。それでも5頭の産駒を残した矢先の1998年の年始、心臓の病で11歳(競走馬の平均寿命は25歳)という若さで世を去った。残せた産駒はひと世代のみで、その血は現代に残ってはいない。

ターボエンジン全開で駆け抜けた史上稀に見る逃げ馬は、死ぬときもあっという間に天国へと走り去ってしまった。


レーススタイルについて

5着(賞金獲得圏)内を狙うならば他の作戦も選択できたかもしれないが「とにかく初っ端から全力でスタートダッシュを決め、後は馬の体力に身を任せる」というスタイルは気性的にも能力的にも選択せざるを得ない物で、新馬戦から引退までこのスタイルをほぼ貫き続けた。ちなみにボロ勝ちかボロ負けかのイメージが強いが、掲示板載るというところまで範囲を広げれば実に良いレース展開を見せており、最終結果2着と好走したレースもちらほらとある。


上述の通り、『大逃げ』があまりにも有名だが、小柄故かコーナリングが非常にうまく、最終コーナーを綺麗に曲がる事も一部の競馬ファンの間では有名である。


人気と後年の評価

関係者・実況から

現役中は実況からも愛されており、ツインターボが先行すると「やはりツインターボ」と名前が呼ばれるのはお決まり。勝利時にアナウンサーが放った「吼えろツインターボ!」(七夕賞)と「見事に決めたぞ!逃亡者ツインターボ!」(オールカマー)は名フレーズ・名文句として語り草である。一方で94年有馬記念でツインターボが馬群に捕らえられた際に放たれた一言「ツインターボの先頭はここで終わり!」もまた有名である。


なお、ツインターボの騎手として有名だった中舘は、ツインターボには手こずらされた思い出が強く(ゲートで暴れるなど)「乗っていて楽しい馬というわけではなかった」と意外にも辛辣な評価を下している。それどころか「出遅れでもして馬群に飲まれたらツインターボがパニックを起こして、僕は死ぬかもしれないと思った」と、命懸けの騎乗だっとことを語っていた。一方で自身を有名にしてくれた馬として、非常に印象深い馬ともしている。

成績面

ネタ馬としての扱いが強いが、毎年数千頭が生まれるサラブレッドの中で中央競馬重賞を獲得できるのは上位2%以下。まして重賞3勝ともなれば1%以下の存在である。

ツインターボの真似をすれば駄馬でも重賞が勝てるのならみんなそうするだろう。しかし似たようなスタイルの馬が乱立することもなかったことが、その力を物語っている。時にその身を滅ぼすレベル(実際鼻出血などで長期休暇を余儀なくされた)での馬鹿逃げを駆使して勝利を収め、名馬に一泡吹かせているのは特筆に値するだろう。


しかしGⅠ戦線では全く歯が立たず、(JRA基準で言えばオープン馬=一流馬という扱いではあるのだが)真の一流馬、超一流と言うには程遠い成績であったことも事実である。

能力的には到底「名馬」とは言い難く、迷馬という称号がふさわしいだろう。しかし競馬を自身のレーススタイルでとにかく盛り上げたという意味では、2000年代のハルウララのように競馬界をよく賑わせた存在であり、そういう意味では紛れもない名馬であった。

ファン評価

勝ち鞍ばかり取り沙汰されがちだが、基本的にツインターボのレースに求められていたのは「最初にぶっ飛ばした後、バテて馬群に飲まれた後はスタスタ歩いてゴールインという通称“逆噴射”と言われるペースの落ちっぷりであり、勝ちの挙げられなくなった現役後半はもはや様式美と化していた。

そのため「どうせいつものようにバテてボロ負けする」と誰もが思っていた。が、「並み居る強豪達にその走りで勝ってしまうのではないか?」と期待させる資質は持っていた。

まるで時代劇の様式美のような負けを重ねる、賑やかしのような迷馬が、名馬を相手に一矢報いる姿を見てみたい………当時はそんな淡い期待を抱いて馬券を買っていた人やファンも多かったのである。明らかに周囲より小さな体格の馬が最序盤から全力で飛ばし、口を割り、時には泡を吹きながらも必死に逃げ切ろうとする様に胸打たれ、判官贔屓的にツインターボを応援する人もいた。


いかにツインターボが愛されていた競走馬だったがわかるだろう。

JRAにおける扱い

その個性的かつ極端なレーススタイルは、後年になってもファンから愛を持って語り継がれその影響はGⅠ未勝利ながらJRAの活動にも現れている。

例えば2000年JRAが行った「20世紀の名馬アンケート」では、明らかに能力的には周囲より劣る存在でありながら、名だたるGⅠホース達に割って入り、91位に滑り込むという人気っぷりを見せている。

他に投票時点でGⅠ未勝利で100位に入ったのは、ステイゴールド(34位)とナイスネイチャ(71位)だけである。

しかし、ステイゴールドは後にGⅠを制覇し、ナイスネイチャはGⅡを勝利したことがあり、最高勝鞍がGⅢで100位以内でランクインしたのはツインターボのみである。


またJRAにてアップロードされた「MCターフィーのピックアップホースSHOW」第一回目の紹介競走馬はツインターボである。この動画シリーズは「これまで競馬ファンの心をつかんだ数々の馬たちを紹介」としており、その後もGⅠ未勝利の競走馬が多く紹介されたシリーズとなっている。


さらに、JRA公式YouTubeチャンネルでは2021年12月のホープフルステークスより、週末の重賞に関連した過去のレースを原則3日前に配信しているが、2022年7月7日、10日に七夕賞を控えた七夕の日にJRAがアップロードしたのは、ツインターボの重賞勝ち鞍3鞍全てであった。

さらにはこの動画を含むツインターボ出走レース動画が「【愛された個性派逃げ馬】ツインターボ」のタイトルで再生リストが作成されている。

GⅠ未勝利ながらJRAが単独でYouTube再生リストを作成している競走馬は、ツインターボが初である。(のちにナイスネイチャが2022年8月に作成された)


福島競馬場での人気

福島競馬場はラジオたんぱ賞・七夕賞とツインターボが重賞2勝を挙げた地であり、時代が経っても「福島の逃げ馬といえばツインターボ」というファン心理は根強い。


2014年、七夕賞が投票で選ばれた歴代勝馬メモリアルレースとして行われることとなったが、1位はツインターボだった。奇しくもこの2014年七夕賞では、メイショウナルトがハナを切ってそのまま逃げ切り勝ちを収めている。


更に2017年に福島競馬場100周年を記念して「福島競馬場思い出ベストホース投票」が行われた。

こちらでもやはり1位はツインターボで2位の競走馬とは10倍以上の差を付け、投票数の約半数がツインターボというぶっちぎりの状態だった。

翌年2018年には同じく福島競馬場で「ツインターボ展」も開催された。GⅠ未勝利の競走馬の展示会が開催されるのは異例のことであった。


ツインターボの活躍から暫く時が経った2021年11月の福島記念

ここでパンサラッサ(2017年生まれ牡4・ロードカナロア産駒)が「序盤からハイペースで逃げまくって他馬のスタミナ管理をかき乱してバテさせ、十分な末脚を出させずに逃げ切る」という、ツインターボの七夕賞式の大逃げ勝ちを決め、令和のツインターボ」というワードがSNS上で飛び交うことになった。

そして2022年10月の天皇賞(秋)では実況からも「令和のツインターボ」と称された。ただ、GⅠ制覇を果たせなかったツインターボと違い、パンサラッサは2022年のドバイターフを制して晴れてGⅠホースの仲間入りを果たしており、この実況でも父の名を引き継いだ異名である「世界のパンサラッサ」へ繋げるという使い方をしている。


関連イラスト

'93年 七夕賞

関連項目

競走馬 91世代 逃げ馬

味いちもんめ・・・山形を舞台にしたエピソードで、ツインターボがモチーフと思われる競走馬が

         登場する。

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