セントライト
せんとらいと
主戦騎手:小西喜蔵(1941年4月27日の呼馬戦のみ阿部正太郎が騎乗)。
第二次世界大戦開戦間近のきな臭さ漂う不穏な時代、「軍馬調達」を名目としていた競馬界で活躍し、最初の「三冠馬」となった。
生涯戦績は12戦9勝。二着2回、三着1回。
4歳時点で体高166cm、体重500kg以上と当時としては大柄で、スマートさに欠けていたため「ずんぐりむっくりの大型戦車」などと呼ばれた。
1938年4月2日、三菱財閥のオーナー一族・岩崎家所有の小岩井農場(岩手県雫石町)で生まれた。
父・ダイオライトはイギリスで2000ギニーステークスを制しており、初めて日本に輸入された海外重賞勝利馬であった(宮内省が管理する下総御料牧場に導入)。テツザクラ、グランドライト、ヒロサクラなどの活躍馬を輩出し、母父としてもオーハヤブサ、シラオキ、タカマガハラ、ハクチカラなどを輩出している。
母・フリッパンシーは1928年にイギリスから輸入された繁殖牝馬で、タイホウ、クリヒカリ、トサミドリを輩出するなど目覚ましい繁殖成績を残した。トサミドリは顕彰馬に選出され、現在でも顕彰馬唯一の兄弟馬となっている。
1941年3月15日、横浜競馬場の新呼馬戦でデビューし1着。
3月30日、2戦目で横浜農林省四歳呼馬(1949年より皐月賞)に勝利。呼馬戦を2つ勝って4連勝。
5月3日、古呼馬特殊ハンデキャップでは58kgの斤量を背負い、シヂリダケの2着に敗れた。
5月10日の古呼馬戦を勝ち、4連闘で東京優駿競走(1964年より東京優駿)に出走し1着。2着に8馬身差をつけての勝利は現在も東京優駿での最大着差である(14年後にオートキツがタイ記録)。その後、秋まで休養に入る。
9月27日、休養明けで臨んだ古呼馬特殊ハンデキャップでは66㎏の斤量を背負い(東京優駿競走2着のステーツより11kg重い)、ステーツの3着に敗れた。
10月5日の古呼馬戦での勝利を挟み、10月12日には横浜農林省賞典四・五歳呼馬(1943年の横浜競馬場閉鎖をもって廃止された重賞)を制する。
10月18日の古呼馬戦での勝利を挟み、5連闘で京都農林省四歳呼馬(1948年より菊花賞)制覇。史上初の三冠馬となる(当時の呼称は三栄冠馬)。
その後は帝室御賞典(1947年より天皇賞)出走のためハンデキャップ戦に挑む予定だったが、72kgという斤量を背負わされる事が判明し、馬主・加藤雄策は「そんな酷量背負わせるぐらいなら」と引退を決めた。
このためセントライトは唯一「現役が1年間のみの三冠馬」となった。
引退後は故郷の小岩井農場に戻り種牡馬として繋養され、オーライト、セントオー、オーエンスなどを輩出する。
1947年、セントライトの功績を称えて、4歳馬(現3歳馬)限定重賞「セントライト記念」が創設され、菊花賞トライアルの重賞として認知されている。
戦後小岩井農場は競走馬生産をやめ、セントライトの繋養先は岩手県畜産試験場に変わった。このため繁殖牝馬の質が落ちて晩年は目立った産駒を出せず、父系は途絶えた。母系は現在も残っており、マイネルホウオウ、スイープトウショウなどがセントライトの末裔であった。
1964年、シンザンが戦後初の三冠馬となった。
1965年2月1日、老衰により27歳(旧28歳)で死去。その後も日本には常に三冠馬が最低一頭は生存している。
1984年、顕彰馬に選出。
当時としてはかなりの巨体の持ち主だったが、気性は非常に大人しく(もっさりしているとも言われていた)、扱いやすい馬だったという。その一方でレースでは普段とは打って変わって闘志を燃やし、どんな競り合いにも負けない負けん気を見せていたという。
また、かなり頑丈な馬で、病気どころか怪我一つした事がなかったとか。
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